エステル
自分が読んでみたい作品を書きたい、と思って書いてみました。
かなりゆったりとしたペースで物語を書いていこうかな、と思いますので、もし気に入っていただけたら、まったりとお付き合いお願いします。
前世で、好きだった女の子がいた。
――ような気がする。
「……エステル」
ふいに零れた名前を、私はもう一度、口の中で転がした。
「エステル……」
うん。
やっぱり、いい響きだ。
腕の中で小さな赤ん坊が身じろぎした。
ほんの少し前まで私のお腹の中にいた娘は、柔らかな布に包まれて、今はすっかり安心したように目を閉じている。
小さい。
思っていたより、ずっと小さい。
頬は赤くて、髪もまだ頼りなくて、握った拳なんて私の親指ほどしかない。
正直に言えば、生まれたばかりの赤ん坊というものは、もっとこう――絵画に描かれる天使のようなものを想像していた。
実物は、ちょっと皺くちゃだ。
……でも。
(なにこれ。可愛すぎない?)
自分でも驚くほど、胸の奥がきゅうっと締めつけられた。
さっきまでの痛みも疲労も吹き飛ぶ、などという綺麗事を言うつもりはない。
痛いものは痛かったし、疲れたものは疲れた。できることなら今すぐ三日くらい眠りたい。
それでも、この小さな命が私の娘なのだと思うと、どうしようもなく頬が緩んだ。
「ミレーヌ」
低い声に顔を上げる。
寝台の傍らに立っていたのは、私の夫――レオニス・グランヴェル。
深いワインレッドの髪に、切れ長の鋭い目。背が高く、黙って立っているだけでも妙な威圧感がある。
グランヴェル公爵家の当主であり、若くして王家からも厚い信頼を寄せられている人物だ。
家臣たちの前に立つ彼しか知らない者なら、きっと今の姿を見ても同一人物だとは信じないだろう。
「身体は?」
私を見る目が、びっくりするほど優しい。
「大丈夫ですわ。……と言いたいところですけれど、さすがに少し疲れました」
「少し、か?」
「かなり、ですわね」
「なら休め。必要なことはこちらで――」
「その前に」
私は腕の中の娘を少し持ち上げた。
「あなたも抱いてあげてくださいな」
「…………」
レオニスが止まった。
あら。
王宮で重臣を相手にしても顔色一つ変えない夫が、生後間もない我が子を前に完全に動きを止めている。
「レオニス?」
「……私が?」
「あなた以外に誰がいるのです」
「いや、それはそうだが」
珍しく歯切れが悪い。
(何これ、面白い)
笑ってはいけない。
私は公爵夫人。しかも今は、愛する夫と娘が初めて触れ合う感動的な場面なのだ。
だから私は、できるだけ優雅に微笑んだ。
「大丈夫ですわ。首をこちらで支えて――そう。力を抜いてくださいませ」
「力は抜いている」
「でしたら、その眉間の皺も抜いてはいかがでしょう」
私ではない。
寝台から少し離れたところに控えていたメイドのセリーヌが、いつもの澄ました顔で口を挟んだ。
グランヴェル家に仕えるメイドである彼女は、仕事ぶりだけを見れば非の打ち所がない。
ただし、主人に対する遠慮というものを、どこかへ置き忘れてきた節がある。
「旦那様。お嬢様は王国間の外交案件ではございません。そこまで難しいお顔をなさらずとも」
「……セリーヌ」
「はい」
「私はそんな顔をしているか?」
「それを私にお尋ねになる時点で、かなり」
「…………そうか」
たじろいだ。
(負けた! レオニスが負けた!)
危ない。
声に出して笑うところだった。
やがて、おそるおそる娘を受け取ったレオニスは、しばらく無言でその顔を見つめた。
「……小さいな」
「生まれたばかりですもの」
「こんなに小さくて、大丈夫なのか」
「旦那様」
「分かっている。そういうものなのだろう」
先回りしたレオニスに、セリーヌがほんの少しだけ口元を緩めた。
そのとき、娘が小さな手を動かした。
偶然だろう。けれど、その指がレオニスの指先に触れる。
夫の目が、わずかに見開かれた。
「……ミレーヌ」
「はい」
「この子は、私たちの娘なのだな」
「ええ」
何を今さら。
そう思ったのに、口にはできなかった。
レオニスの声があまりにも静かで、あまりにも嬉しそうだったから。
「そうですわ。私たちの娘です」
「……そうか」
もう一度だけ、彼は言った。
それから娘を見る横顔は、私がこれまで見てきたどんなレオニスとも違っていた。
ああ。
この人も今日、父親になったのだ。
「それで」
しばらくして、レオニスが私を見る。
「先ほどの名だが」
「エステル、ですか?」
「ああ。以前から考えていたのか?」
「いえ……」
私は少し迷ってから首を振った。
「今、ふと思い浮かんだのです」
「そうか」
「変でしょうか?」
「いや」
レオニスは腕の中の娘へ視線を戻した。
「エステル。……いい名だ」
その瞬間、胸の奥に不思議な懐かしさが灯った。
エステル。
私は、その名前を知っている。
ずっと昔に。
今とは違う、もう一つの人生で。
◇
前世――といっても、私にとってそれはひどく漠然としたものだ。
幼い頃から、今の自分とは別の人生を送っていた記憶が、なんとなく私にはあった。
日本という国に生まれたこと。
ごく普通の家で育ったこと。
漫画やアニメやゲームが大好きだったこと。
そして、たぶん十六歳くらいまで生きた、ごく普通の女子高生だったこと。
ある日突然、「私は転生者だ!」と雷に打たれたように思い出したわけではない。
物心がついた頃には、夢の続きを覚えているような感覚で、もう一人の私の記憶があった。
だからといって、今の人生を仮のものだと思ったこともない。
当然だ。
私はもう二十三歳。
前世で過ごしたはずの人生よりも、今ここで過ごしてきた時間の方が長い。
前世の両親の顔すら、今ではぼんやりとしている。
通っていた学校の名前も、友達の名前も、好きだった作品の題名も、ほとんど思い出せない。
正直なところ、
(そんなこともあったのかなぁ)
くらいの認識である。
前世の私も、きっと私だった。
でも、今の私はミレーヌ・グランヴェル。
愛する夫がいて、今日、新しい家族を授かった、ごく普通の母親だ。
…………。
ごく普通、は訂正しておこう。
今の私は、グランヴェルという公爵家に嫁いだ公爵夫人である。
(普通の母親、公爵邸にメイド何人もいないもんね)
それはともかく。
そんな薄ぼんやりした前世の記憶の底から、なぜか今日、一つの名前が浮かび上がった。
エステル。
ゲームに出てきた女の子だった気がする。
私は彼女が好きだった。
主人公……では、なかったような。
何のゲームだったかも思い出せない。
顔も曖昧だ。
けれど。
頑張っていた。
とても、頑張っていた女の子だった。
負けず嫌いで、誇り高くて。
ちょっと不器用で。
たくさん努力していたのに、最後にはどうしてか、ひどく悲しい顔をしていた。
私は画面のこちら側で、その子をずっと応援していた。
――幸せになってほしい。
そんなことを思っていた。
「エステル」
もう一度、娘の名を呼ぶ。
もちろん、目の前の赤ん坊と前世のゲームに出てきた少女には何の関係もない。
ただ、幸せになってほしいと願った名前を、この子に贈るのは悪くないと思った。
「エステル・グランヴェル」
レオニスが静かに呼ぶ。
娘が、くしゅん、と小さなくしゃみをした。
「まあ」
「……今のは、気に入ったという意味だろうか」
「さすがに親馬鹿が早すぎませんか、旦那様」
「セリーヌ」
「はい」
「今日は少し口数が多くないか」
「おめでたい日ですので」
私はとうとう堪えきれず、笑った。
こうして。
私たちの娘は、エステル・グランヴェルになった。
◇
六年という時間は、振り返れば驚くほど早い。
「もう一度ですわ、お父様!」
五歳になったエステルが、盤上の駒を睨みながら宣言した。
「エステル」
「はい!」
「もう三度目だ」
「まだ三度目ですわ!」
誰に似たのかしら、この負けず嫌い。
「ミレーヌだな」
「私、声に出しておりませんけれど?」
「顔に書いてある」
向かいの長椅子で書類を読んでいた私に、レオニスが涼しい顔で返した。
幼い頃は淡かったエステルの髪も、成長するにつれて父親譲りの深いワインレッドへと色を増してきた。
瞳だけは私と同じ紫色。
愛らしい顔立ちではあるけれど、笑っていないときの目元には既にどこか凛としたものがある。
そして、とにかく負けず嫌いだった。
レオニスとの盤上遊戯に三連敗すれば、四戦目を要求する。
四戦目に負ければ、翌日にはルールを覚え直して五戦目を申し込む。
こちらが手加減すれば――もっと大変だ。
「今、わざと間違えましたわね?」
「……分かるのか」
「分かります!」
ぷくりと頬を膨らませる。
「わたくし、そんな勝ち方は嬉しくありませんわ」
レオニスは一瞬だけ目を丸くして、それから小さく笑った。
「そうか。悪かった」
「次は本気でお願いいたします」
「ああ」
「絶対ですわよ」
「約束しよう」
翌日、エステルはまた負けた。
そして泣かなかった。
「……わたくしの負けですわ」
悔しそうに唇を結び、それでもきちんと頭を下げる。
「ですが、次は負けません」
「楽しみにしている」
その夜、寝室へ戻る途中で私は聞いた。
「少しくらい勝たせてあげてもよろしいのではなくて?」
「本人が望んでいない」
「それはそうですけれど」
「それに」
レオニスは歩みを緩めた。
「あの子は、負けたからといって折れる子ではない」
私は思わず笑った。
「ええ。それは私もよく知っていますわ」
実際、その翌朝にはセリーヌを捕まえて、過去の対局を最初から並べ直していた。
「ここでお父様がこちらへ動かれたのがいけないのです」
「旦那様がお強いだけでは?」
「それでは何の解決にもなりませんわ、セリーヌ」
「左様でございますね」
「次はここを――」
負けた理由を考え、できなかったことをできるようにする。
それがエステルだった。
家庭教師から文字の形を一つ直されれば、翌日には同じ文字を何十枚も書いて見せた。
「先生が一度直せばよいと仰ったのですから、一度で直すのが当然ですわ」
本人は胸を張る。
その指先に、昨日できたばかりの小さなまめがあることを、私は知っていた。
褒めれば嬉しそうにするくせに、すぐに澄ました顔を作る。
「よく頑張りましたね、エステル」
「当然ですわ。わたくしはグランヴェルの娘ですもの」
「まあ」
ずいぶん立派なことを言うようになったものだ。
「では、グランヴェルの娘なら、努力しなくても何でもできるのかしら?」
「……違いますわ」
少し考えてから、エステルは首を振った。
「できるようになるまで、やるのです」
私は思わず、その小さな身体を抱きしめた。
「お、お母様?」
「素敵です、エステル」
「苦しいですわ、お母様!」
(うちの娘、格好いい!)
「奥様、お顔が完全に親馬鹿でございます」
「セリーヌ?」
「はい」
「今のは口に出さなくてもよかったのではなくて?」
「旦那様だけに申し上げるのは不公平かと」
「そういう公平性はいりません」
そんな日々だった。
誇り高くて。
負けず嫌いで。
少しばかり自信家で。
一度大切だと決めたものには、とことん一生懸命で。
私が少し風邪を引いただけで「今日はわたくしがお母様を守ります」と寝台の横から動かなくなったこともある。
途中で眠くなって、椅子の上でこくこく舟を漕いでいたけれど。
その姿を見たレオニスが抱き上げようとすると、半分眠ったまま、
「だめ……ですわ。わたくしが……お母様を……」
などと言うものだから。
翌朝、目を覚ましたエステルは、なぜ自分が両親の寝台の真ん中で眠っているのか分からず真っ赤になった。
そんな娘が、私は可愛くて仕方がなかった。
あの日、前世の記憶から借りたはずの名前も。
六年も呼び続ければ、もう違う。
エステル。
それは、私たちの娘の名前だった。
◇
だから。
その日、レオニスから話を聞いたときも。
最初は、それが何を意味するのか分からなかった。
「エステルに、王家から婚約の打診が来た」
午後の居間。
私はティーカップを口元まで運んだところで手を止めた。
「……まあ」
驚きはした。
けれど、公爵家の娘である以上、いつかは縁談の話も来る。
(いや、六歳は早いでしょ)
という前世由来の感覚は、ひとまず脇へ置いておく。
ここでは珍しいことではない。
貴族同士、それも王家との婚姻ともなれば、本人たちが成人するずっと前から話が動くこともある。
公爵夫人ミレーヌ・グランヴェルは、そんなことで取り乱したりしない。
「お相手は?」
私は優雅にカップを置いた。
「第一王子だ」
「まあ……」
さすがに予想より大物だった。
レオニスの眉間には、既に見慣れた皺が寄っている。
「私はまだ早いと思っている」
「でしょうね」
「エステルはまだ六歳だ」
「ええ」
「婚約など必要ない」
「あなた」
「断ろう」
「旦那様」
すかさずセリーヌの声が飛んできた。
お茶のおかわりを用意していた彼女は、表情一つ変えない。
「王家からの正式な打診を、六歳の娘が可愛いので断る、と?」
「可愛いからとは言っていない」
「では、どのように?」
「…………」
「旦那様?」
「……検討する」
(押し負けてる)
思わず口元が緩みそうになる。
しかし、私もレオニスの気持ちは分かる。
六歳だ。
ついこの間まで、私の寝台で「お母様を守る」と言いながら眠っていた子なのだ。
できることなら、本人がもっと大きくなって、自分で相手を見て、自分で将来を考えられるようになってから――。
「それで」
私は尋ねた。
「第一王子殿下ということは……アレクシス殿下ですわね?」
「ああ」
レオニスが頷いた。
「アレクシス殿下だ」
――カチリ。
頭の中で。
何かが、嵌まった。
「…………」
「ミレーヌ?」
アレクシス。
その名前を、私は知っている。
もちろん知っている。
この国の第一王子なのだから、公爵夫人である私が知らないはずがない。
そういう意味ではない。
もっと昔。
ずっと、ずっと昔。
テレビの画面。
手の中のコントローラー。
華やかな音楽。
制服を着た少女。
金色の髪の王子。
選択肢。
笑顔。
そして――。
(待って)
背筋を冷たいものが走った。
(アレクシス)
金髪の王子。
(エステル)
赤い髪の少女。
(グランヴェル)
公爵令嬢。
幼い頃に結ばれた、第一王子との婚約。
「……嘘」
「ミレーヌ?」
「いえ」
慌てて微笑む。
「なんでもありませんわ」
なんでもある。
(待って待って待って待って!)
心臓がうるさい。
前世の記憶が、古い箱をひっくり返したように次々と零れ落ちてくる。
あれは乙女ゲームだった。
平民出身の少女が、王立学院へ入学する。
そこで出会う、身分も性格も違う何人もの青年たち。
その中でも物語の中心にいたのが、第一王子アレクシス。
そして。
彼の婚約者として主人公の前に立ちはだかった少女。
誰より誇り高く。
誰より努力家で。
未来の王妃になるため、幼い頃から自分を磨き続けて。
それなのに。
最後には――。
『アレクシス様の隣に立つのは、私ですわ』
画面の中で、少女が言う。
冷たい紫の瞳。
深いワインレッドの髪。
怒りと悲しみで歪んだ顔。
婚約破棄。
断罪。
失脚。
そして――破滅。
(エステル・グランヴェル)
忘れていた。
どうして忘れていたのだろう。
私はあの子が好きだった。
主人公ではない。
主人公の恋路を阻む、いわゆる悪役令嬢。
もちろん、最後に彼女がしたことまで正しいとは思っていなかった。
やってはいけないことをした。
だから罰を受けた。
それでも。
(あんなに頑張ってたのに)
幼い頃から王子の婚約者として。
未来の王妃として。
勉強して。
礼儀を身につけて。
誰より相応しい人間になろうとして。
なのに、物語は主人公と王子が恋に落ちた瞬間から、その努力のすべてを「邪魔な婚約者」の一言で片づけてしまった。
だから私は、画面の向こうの彼女を応援していた。
幸せになってほしかった。
その名前を――。
(私、自分の娘につけたの!?)
今さら気づいた。
いや、そこじゃない。
問題はそこではない。
私は立ち上がった。
「ミレーヌ?」
「エステルは?」
「先ほど庭へ――」
セリーヌの返事を最後まで聞かず、私は居間を出た。
「奥様?」
「ミレーヌ!」
公爵夫人として廊下を走るなど、褒められたことではない。
知ったことか。
(エステル)
違う。
(そんなはずない)
だって、あの子は私の娘だ。
生まれた日から知っている。
泣いて。
笑って。
転んで。
悔しがって。
できるまで何度も練習して。
ゲームの悪役令嬢なんかじゃない。
庭へ出る。
柔らかな日差しの中に、小さな後ろ姿があった。
「エステル!」
呼ぶと、少女が振り返る。
「お母様?」
深いワインレッドの髪が揺れる。
紫の瞳が私を映す。
六歳の、まだ幼い顔。
けれど。
その瞬間。
記憶の中の少女と、目の前の娘が重なった。
似てきたんじゃない。
私があの少女の名前をつけたから、そう見えるのでもない。
分かってしまった。
この国。
グランヴェル公爵家。
第一王子アレクシス。
そして、彼と幼い頃に婚約する公爵令嬢エステル・グランヴェル。
(この子が――彼女なのだ)
「お母様?」
エステルが首を傾げる。
そして、私の顔を見て少し眉を寄せた。
「どうなさいましたの? お顔が真っ青ですわ」
「……エステル」
「はい」
私はしゃがみ込んだ。
娘と同じ高さまで。
目の前にいるのは、ゲームのキャラクターではない。
私の娘だ。
「お母様?」
小さな手が、私の頬に触れた。
「どこか痛いのですか?」
「……いいえ」
「本当に?」
「ええ」
私はその手を握った。
温かい。
生きている。
当たり前だ。
ここはゲームの画面の中ではない。
少なくとも、私にとっては。
エステルにとっては。
ここが現実だ。
◇
その夜。
エステルを寝かしつけたあと、私は一人で考えた。
婚約を断ればいい。
最初に浮かんだ答えは、それだった。
アレクシスと婚約しなければ、原作の物語は始まらない。
悪役令嬢にならない。
主人公と王子を取り合わない。
断罪もされない。
簡単だ。
王家からの打診を断るのが簡単かどうかは、この際置いておく。
レオニスなら本当にやりかねないし。
(……でも)
私は寝台の上で眠るエステルを見た。
六歳。
まだ、自分が誰を好きになるのかも知らない。
アレクシスだってそうだ。
私はゲームの中の彼しか知らない。
今、この世界で生きている六歳のアレクシスがどんな少年なのか、まともに話したことすらない。
それなのに。
前世で遊んだゲームの記憶だけで、この子の人生を決めていいの?
危険だから。
破滅するから。
そう言って、娘が出会うはずだった人を、選ぶかもしれなかった未来を、母親である私が先回りして消してしまう。
それは本当に、この子を守ることなのだろうか。
「……違うわね」
小さく呟いた。
未来を決めてやるのではない。
どんな未来を選んでも。
誰と出会っても。
何かに負けても。
思い通りにならなくても。
そこで誰かを傷つけ、自分まで壊してしまわない人に。
この子自身が、自分の人生を選べる人に。
「……まずは、この子をちゃんと育てよう」
それなら、できる。
いや。
やる。
私はゲームのすべてを覚えているわけではない。
むしろ、ほとんど忘れている。
何年後に何が起きるのか。
誰が何をするのか。
主人公の名前すら、まだ思い出せない。
攻略本なんてない。
セーブもロードもできない。
失敗したからと、やり直すこともできない。
でも。
私はもう、画面の向こうからエステルを応援するだけの女子高生ではない。
この子の母親だ。
生まれた日から六年間、この子を見てきた。
これからだって、見ていける。
必要なら学ぼう。
調べよう。
考えよう。
私にできることなら、何だってする。
眠るエステルの髪を、そっと撫でた。
「大丈夫よ」
娘は起きない。
「あなたの人生を、ゲームなんかに決めさせたりしないわ」
誰に聞かせるでもなく、私は微笑んだ。
優雅に。
公爵夫人らしく。
そして、心の中では。
六年越しにようやく姿を現した敵へ、思いきり指を突きつける。
――来たわね、破滅フラグ。
いいわ。かかってきなさい。
そんなもの、何本立とうが関係ない。
この私が――一本残らず、へし折ってやるわ。




