第1話 泥と白金
はじめまして。この物語を開いてくださって、ありがとうございます。
魔王を倒した勇者が、その手柄も、体も、名前まで奪われる。そんな最悪の底から始まる話です。
でも、絶望だけでは終わらせません。彼の前に、たった一人、膝をつく人がいます。
「奪われた男」と「捧げる女」。二人がどう寄り添い、世界の嘘を剥がしていくのか。ゆっくり見届けていただけたら嬉しいです。
「悪く思うなよ、アレン。英雄の椅子は、ひとつでいい」
魔王の巨体が崩れ落ちた、その直後だった。
勝利の歓声がまだ天井を揺らしているなか、背後から仲間の刃が走った。アレンの両手両足の腱を、ためらいもなく断ち切っていく。
膝から崩れ、玉座の間の床に転がされた。守り抜いたはずの仲間たちが、勝ち誇った顔で見おろしている。魔王を倒した手柄も、五つの神域武装も、その名も。すべてが目の前で、王太子ギルバートのものへと書きかえられていく。
誰も、助けなかった。誰も、真実を口にしなかった。
「魔王を討った勇者は、殿下だ。……いいな?」
薄れゆく意識のなかで、アレンは笑おうとして、できなかった。
――勇者アレンは、その日、世界から消された。
名を呼ぶ者も、いなくなった。碑ひとつ建たず、記録からも消され、ただ「裏切り者」の噂だけが、影のように残された。守った国から、守ったはずの者たちの手で、彼は存在ごと闇に葬られたのだ。
四年が過ぎた。
王都の外れ、スラムの片隅の酒場〈枯れ井戸亭〉。ひび割れた窓から差しこむ灰色の光の下で、泥にまみれた男が、安酒の杯を傾けていた。
肩に、下水路の泥がこびりついている。かつて魔王の心臓を貫いた手で、いまは他人の汚物をすくう毎日だった。歳は二十代の半ば。だが頬はこけ、伸びた黒髪が湿った額に張りつき、実際より十は老けて見える。無精髭の奥で、切れ長の黒い瞳だけが、酒に濁ってなお、獣の牙のような鋭さを失っていなかった。
右手の指が、ときおり引きつる。腱を切られた名残だ。杯を持つだけでも、細い針を通されるような痛みが走る。
もう慣れた。痛みには、慣れる。だが人の善意にだけは、二度と慣れないと決めていた。
「おい、そこの泥人形」
濁った声が飛んできた。安酒に酔って気の大きくなった、駆け出しの冒険者だ。仲間に囲まれ、腰の魔動剣を見せびらかすように抜く。刃を走る青い魔力の筋が、薄暗い店でやけに得意げに光った。
「その席、俺のなんだよ。どけよ。……それとも、その使えねえ手で、こいつを止めてみるか?」
まわりの客が、そっと視線を伏せる。関わりたくない。この街の作法だ。
アレンは杯を置いた。ことん、と乾いた音がひとつ鳴る。それから、ようやく男へ顔を向けた。
「やめておけ。その剣が惜しいなら」
「あぁ?」
男が笑う。仲間も笑う。青い光が、アレンの脳天めがけて振り下ろされた。
アレンは、左手を上げた。開いた掌で、刃を受け止める。素手で。
その刹那、彼にだけ見える文字が、視界のすみにならんだ。
――――【概念強奪 開始】――――
名称、量産型・魔動片刃。
来歴、三日前、質屋で買われた安物。持ち主の見栄だけが重かった。
状態、概念を掌握。実体は錆へ還元。
収蔵効果、筋力補正+三パーセント。塵も積もれば、という程度。
―――――――――――――
男の手のなかで、剣が音もなく崩れた。青い光は消え、あとにはぼろぼろの錆の塊だけが残る。赤茶けた粉が、ぱらぱらと床に散った。
店のなかが、しんと静まりかえる。
「な……なんだよ、それ」
男の声が裏返った。だがアレンは、崩れた残骸を一瞥しただけで、もう興味を失ったように目を伏せる。
「安物ほど、よく喋る。剣も、持ち主も」
ただ、それだけ。手も上げない。脅しもしない。なのに男は足をもつれさせて後ずさり、喉の奥でひゅっと息を鳴らした。落ちぶれた泥人形の、底の見えない目。そこに映る自分の小ささを、本能が悟ってしまったのだ。
――かつて勇者と呼ばれた男は、こんな場所でも、まだ本物だった。
そのときだった。
酒場の扉が、蝶番ごと吹き飛んだ。
外の光が濁流のように流れこむ。武装した王都警備隊。ならんだ槍の穂先。客たちが悲鳴をあげ、壁ぎわへ雪崩れた。
「英雄様だ」「聖光の……」
その名を、アレンの体は先に覚えていた。栄光を奪われたあの日から、幾度も夢に見た。処刑人が来る夢を。
光のなかを、ひとりの騎士が進み出る。白金の髪。傷ひとつない白銀の甲冑。国民が現人神とあがめる、当代無双の英雄――エレノア。
彼女が来た。俺を捕らえに。あるいは、始末しに。アレンは静かに息を吐いた。逃げるつもりはない。もう、逃げ疲れていた。
だが。
エレノアの碧い瞳が泥まみれのアレンを捉えた瞬間、その完璧な顔が、ぐしゃりと歪んだ。崇拝でもない。憎悪でもない。――泣きそうな、顔だった。
「下がりなさい」
凛とした一言に、屈強な兵たちが弾かれたように膝を折る。そうして英雄は、汚れた床など見えていないように、まっすぐ歩いてきた。世界でただ一点、泥の底に沈んだ男だけを見つめて。
アレンの目の前で、白金の英雄は――膝をついた。
濡れた泥が、白銀の甲冑をよごす。民が見れば卒倒するだろう光景。その膝を、彼女は少しも厭わなかった。むしろ、こうすることをずっと待っていたかのように。
「探しました。……ずっと、ずっと。この四年、一日も忘れたことはありません」
声が震えていた。彼女の手が、よりにもよって、腱を切られたアレンの右手へ伸びる。みなが不能とあざけったその手を、エレノアは両手で包み、頬に押し当てた。壊れ物にふれるように。世界でいちばん尊いものにふれるように。
温かいしずくが、アレンの指の背に落ちた。彼女の涙だった。
「……人違いだろう。俺はもう、勇者でも何でもない。ただの泥さらいだ」
突き放すように言った。声が、自分でも驚くほど掠れている。
エレノアは顔をあげ、涙に濡れたまま、花がほころぶように微笑んだ。
「いいえ。世界じゅうがあなたを偽物と呼んでも、あなた自身が忘れてしまっても。――私だけは、知っています。その傷のすべてが、本物だと」
跪いたまま、彼女は誓うように言葉をつぐ。
「探しました……ようやく。私だけの、本物の英雄様」
エレノアは立ちあがり、白い手をアレンへ差しのべた。
「どうか、私に返させてください。奪われたものを、ひとつ残らず。……あなたを泥に沈めた世界を、二人で終わらせましょう」
差しだされた手を、アレンはしばらく見つめた。握れば、また転がり落ちるかもしれない。信じれば、また刃が背に走るかもしれない。
それでも、と思う。この掌の熱だけは、嘘には見えなかった。
泥にまみれた指が、白い手にふれる。エレノアの瞳が、うれしそうに揺れた。
窓の外、雨があがりかけている。差しこむ光が、泥だらけの男と、その手を引く白金の英雄を、まとめて照らしだした。
その時、酒場のいちばん暗い隅で、フードの男がひとり杯を置いた。音もなく席を立ち、雨上がりの路地へ消えていく。
堕ちた勇者に、英雄が手を差しのべた。その報せは、夜のうちに城の奥まで届くだろう。奪われた栄光が、いま、動きだす。それを最も恐れる者たちが、いっせいに牙を研ぎはじめたことに、アレンはまだ気づいていない。
泥の底から、成り上がる。偽りの栄光を、ひとつずつ剥ぎ取って。その最初の一つが三日後、目の前に転がり落ちてくるとは、まだ誰も知らない。
第1話、いかがでしたか。
最初に書きたかったのは、エレノアが泥のなかに膝をつく、あの一瞬でした。
完璧で、誰もが崇める英雄が、ぼろぼろの男の傷ついた手を、頬に押し当てて泣く。その温度が、アレンの凍った心をほんの少しだけ溶かす――そこから、二人の関係は動きはじめます。
アレンはまだ、彼女を信じきれていません。四年ぶんの傷は、そう簡単には消えないので。
でも、次のお話から、二人の距離はじわじわ縮まっていきます。溺愛する彼女と、それを持て余す彼。その甘さと不器用さも、これから丁寧に書いていくつもりです。
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次回、アレンはエレノアの屋敷へ。二人きりの、少し気まずい夜が待っています。




