番外編 あの子、お腹すかせてないかな?
結婚することになったと、友達に連絡をしていたときだった。
ふと、お皿を持って待っている猫のスタンプを思い出した。
あの子、お腹すかせてないかな?
蓮くんと会うようになってから、いつの間にか連絡が途切れていた。スマートフォンで履歴を遡ると、最後にも猫がいた。
あの子がいなかったら、蓮くんとは出会っていない。
それに、「本気になっちゃった?」と聞かれたときのことも、覚えている。あのときは否定したけれど、今なら答えられる。
隣でテレビを見ていた蓮くんに、その話をした。
「だから、久しぶりにご飯に誘ってもいいかな。お礼も言いたくて」
彼はこちらを向いた。
「……二人で?」
「うん。もう、ほかの子と食事に行くつもりはないんだけど、その子にはちゃんと言っておきたいなと思って」
蓮くんは私のスマートフォンを見て、それから顔へ目を戻した。
「わかった」
「ありがとう」
「帰りは迎えに行く」
私は笑いかけたけれど、彼は真面目な顔だった。
「心配だから」
「そんなに心配しなくても」
「するよ」
そう言われると、もう笑えなかった。
*
『久しぶり。元気にしてる?』
送ると、その日の夜に返事が来た。
両手を上げた猫のスタンプ。
『元気! おねーさんは?』
『元気だよ。久しぶりにご飯でもどうかなと思って』
『行く』
続けて、お皿を持った猫が届いた。
変わらないなあ。笑っていると、もう一通来た。
『就職してから忙しくて、全然連絡してなかった』
『おねーさんも忙しいかなと思って』
就職。
あの子も、もうそんな歳なのか。
予定を確かめ合い、翌週の金曜日に会うことになった。
*
待ち合わせ場所で私を見つけ、手を上げたのは、スーツ姿の青年だった。
髪の色が落ち着いている。前髪もすっきりしていて、一瞬、見違えた。
「おねーさん、久しぶり」
「久しぶり。……ちゃんと社会人してるんだね」
「ちゃんとって何。してるよ」
笑った顔は、知っている顔だった。
「ごめん。ちょっと感動しちゃって」
「そんなに?」
ネクタイを少し直しながら、彼も笑う。
駅前を歩き出すと、仕事帰りの人たちに自然に混じった。初めて声をかけられたときには、この子のスーツ姿を想像したこともなかった。
「お腹すいてる?」
「すごい。昼、食べるの遅かったのに、もうすいた」
「頼もしいね」
「おねーさんは? 何食べたい?」
相談して、最初に一緒に入ったイタリアンへ行くことにした。
*
「最近、どう?」
注文を済ませると、彼が尋ねた。
「元気だよ。仕事も、相変わらず」
「ご飯のほうは?」
その聞き方に、笑ってしまった。
「もう、誰かを探したりはしてないよ」
「そうなんだ。前に言ってた、よく会う子は?」
私は左手へ目を落とした。
「あのね。その人と、結婚することになったの」
彼の視線も手元へ動く。指輪を見てから私へ顔を戻し、少し身を乗り出した。
「え、ほんとに?」
「うん」
「本気になったんじゃん」
笑っている彼に、私も笑った。
「そうだったみたい」
「みたいって」
「あのときは、まだ自分でもわからなかったんだもの」
彼は椅子に座り直し、もう一度指輪を見た。
「そっか。おめでとう」
「ありがとう。それも、あなたに言いたくて」
ちょうど飲み物が来た。彼は店員さんにお礼を言ってから、私を見る。
「俺?」
「SNSを教えてくれなかったら、知り合ってなかったから。それに、あのとき聞かれなかったら、気づくのも、もう少し遅かったかもしれない」
私はグラスを手に取った。
「だから、今日はお礼。好きなもの食べてね」
彼は少し照れたように笑い、自分もグラスを持った。
「じゃあ、遠慮なく」
「うん。どうぞ」
軽くグラスを上げる。
「おめでとう、おねーさん」
初めて会った日にも、こうして向かいに座っていた。
あの日は、何が起きるかわからないものだなと思っただけだったのに。
*
食後、蓮くんから着いたと連絡が来た。
「ごめん。ちょっと返事してもいい?」
「うん」
店の前で待っていてくれるらしい。今出るね、と送り、スマートフォンをしまう。
「迎え?」
「うん」
「結婚する人?」
「そう」
彼が楽しそうに笑った。
「心配されてるんだ」
「帰りは迎えに行くって」
「大事にされてるね」
そう言われると、まだ少し照れる。
会計を済ませて外へ出ると、入口から少し離れたところに蓮くんがいた。こちらを見て、歩いてくる。
「待たせちゃった?」
「ううん」
答えた彼の視線が、私の隣へ動いた。
二人が目を合わせる。
「あれ、蓮?」
「……何でお前がいるの」
私は蓮くんを見て、それから隣を見た。
「知り合い?」
二人とも、今度は私を見る。
「大学の友達」
「真帆さんが言ってたの、こいつ?」
蓮くんに聞かれ、頷いた。
「うん。最初にご飯に誘ってきた子」
隣で、彼が急に声を出して笑った。
「待って。よく会う子って、お前だったの?」
蓮くんは返事をせず、私の手を取った。
私はつながれた手を見下ろしてから、もう一度二人の顔を見る。
「……どういうこと?」
「俺が教えたんだよ。蓮に、こういうのもあるよって」
ああ。
私はしばらく考えてから、彼へ向き直った。
「じゃあ、ますます、ご馳走してよかった」
彼は嬉しそうに笑ったけれど、隣からは少し不満そうな声がした。
「真帆さん、もう十分食べさせたでしょ」
握られた手に、少し力がこもった。
「うん。お腹いっぱいになった?」
私が尋ねると、彼は笑ったまま頷いた。
「なった。すごく」
「それならよかった」
蓮くんが、隣で私を見た。
「何?」
「ううん」
彼のほうは、まだ面白そうに二人を見比べている。
「そっかあ。蓮だったのか」
「何だよ」
「いや。おねーさん、楽しそうに話してたから」
つないだ手が少し動いた。
「あのときは、まだ付き合ってなかったんだよ」
「うん。そう言ってたね」
言われて、自分が何を話したのか思い返す。決まった子とよく会うようになったこと。話していて楽しいし、食べたいものも合うこと。
隣を見たら、蓮くんと目が合った。
「……帰ってからね」
何も聞かれていないのに言ってしまい、彼の口元が緩んだ。
「うん」
彼が笑ったところで、隣の友達も笑った。
*
駅へ向かう角まで、三人で歩いた。
「じゃあ、卒業式の写真にもいた?」
「いたよ。俺、髪切ったばっかりだったし、わかんなかった?」
「……蓮くんばっかり見てた」
「でしょうね」
彼は別の路線を使うらしく、私たちとはそこで別れるという。立ち止まると、きちんとこちらへ向き直った。
「今日はごちそうさまでした。おいしかった」
「どういたしまして。忙しいのに、来てくれてありがとう」
「誘ってくれて嬉しかったよ」
スーツの肩には、仕事用らしいバッグがかかっていた。初めて会ったときは薄手のパーカーだったな、と、ふと思い出す。
彼も私たちの手元を見てから、顔を上げた。
「蓮、おねーさんのこと、よろしく」
「お前に言われなくても」
すぐに返され、彼は声を出して笑った。
「だよね」
それから、私を見る。
「お幸せに」
「ありがとう。あなたも、仕事、無理しないでね」
「うん。おねーさんも」
彼が片手を上げた。
「じゃ、またね」
「うん。またね」
私も手を振る。少し離れてから、彼は蓮くんにも「また連絡する」と言い、そのまま駅へ向かった。
背中が人の流れに混じるまで見送っていると、蓮くんが尋ねた。
「楽しかった?」
「うん。ちゃんとお礼も言えたし」
彼の隣へ向き直った。
「迎えに来てくれて、ありがとう」
蓮くんは、もう友達の姿が見えなくなったほうを見た。
「あいつだったんだね」
「びっくりした」
「俺も」
二人で笑い、私たちも歩き出した。
*
家へ帰ってスマートフォンを見ると、彼からメッセージが届いていた。
『今日はありがとう!』
『改めて、おめでとう』
その下には、両手を上げて跳ねている猫。
私は笑って、隣の蓮くんに画面を見せた。
「この猫、昔から送ってくれるの」
「ああ。俺にも来る」
そう聞くと、何だかまた笑えてきた。
『こちらこそ、ありがとう。会えて嬉しかったよ』
返事を送ると、今度はお皿を持った猫が届いた。
続けて、一言。
『また蓮と三人で行こうね』
「今度は、私たちがご馳走してもらおうか」
画面を覗いていた蓮くんが笑った。
「言っとこ」
もう一度入力欄を開き、そう伝える。
すぐに、びっくりした猫が返ってきた。
END




