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パリの聖なる酔っ払いたち

ここパリは、大通りと路地が区画計算を無視して、煩雑に入り組んでいる。

同じ石造りの前世紀の雰囲気を湛えた街並みでも、ローティーン時代を過ごしたベルリンの、ある意味きちんと区画され住み分けされた堅牢な街づくりとは全く違う。

そんな印象を少女のマリヤは抱いた。

細い道、石畳、舗装もされていない土埃だらけのむき出しの坂道、曲がりくねった分かれ道に唐突に建つ、細く壁をそぎ落としたような三角形のアパート。

突然現れる古めかしいアール・デコの装飾があふれるパサージュ、建物の脇の誘うような階段を昇って行けば、唐突に坂の中ほどの三角形の広場に出る。

ささやかな、広場と言えないような空間だが、周囲にはマロニエや桐の木が赤や白、紫の花をこぼれんばかりに咲かせ、その下にテーブルを出してくつろぐカフェの客が絶えない。

地元民しかいないような、そしていかにも世慣れぬ迷い込んだ少女のマリヤを遠めに見守る視線。

若干警戒はしているが拒絶しているわけでもない生暖かいまなざしは、ベルリンのドイツ人たちには無かったものだ。

「それだけ、このパリには外国人が多く暮らしているってことよね」


話は少々さかのぼる。


1925年初夏。

ベルリン中央駅からパリ東駅まで。長距離鉄道での旅の果てにマリヤ・オルロフスカはパリ10区の地に立った。

サン・マルタン運河が街を貫いて流れ、駅から続く古風な街並み、分厚い壁の年代を経たアパルトマンに腰をキュッと絞ったロングスカートに華やかな帽子姿の婦人たち、ベルリンでも見た、髪を頬の線でぷっつりと切り短めの活動的なワンピースに靴、細い足をひざ下まで見せた娘たち、そして女性たちに目を走らせつつ気取った様子を崩さない紳士たち。

そして、パリならではの人種…街角で自分の描いたスケッチや自作の冊子(多くは詩集)を売る、乱れた髪にぞんざいな上着の着こなしの『街角の芸術家』。

マリヤにとって、ここは『少しくらい羽目を外してもいいのかな、人目があるわけではないし』と思わせてくれる街だった。

空は高いがベルリンほど青の色が淡くもくすんでもいない。

古式ゆかしい町並みの奥、唐突に『これを見たくなければこれの近くに住むのが良い』と言われたエッフェル塔がそびえている。

金属で出来た剛直なレース編みのような異形に、初めて見物に行ったマリヤは不思議に思ったものだ。

パリの人は素敵な街に、なぜこんなものを作ったのだろう。

第一次世界大戦すなわち自分が故郷を追われたロシア革命時以降、エッフェル塔が軍の電波塔として活用されていることを、少女は知らなかった。


パリ6区カルチェラタン。

親戚の知り合いの金持ち夫人の口利きで、マリヤはこぎれいなアパルトマンに住むことになった。

その(ほとんど面識のない)富裕な夫人は若い彼女と同居することを望んだが、せっかく知り合いのほとんどいないパリで羽を伸ばしたかったマリヤは、もっともらしい理由をつけて丁寧にお断りした。


「少し離れているけれど、くれぐれも品の悪い地区へは行かないようにね」

そう夫人に釘を刺されたが、若く好奇心で弾けそうなマリヤは聞く耳を持つわけがない。

荷物を部屋に納めて少し落ち着くと、その地区…5区・6区と接する14区の下町『モンパルナス』へさっそく足を運んだ。

「そうそう。これを忘れちゃいけないわ」

トランクの奥から厳重に梱包した包みを取り出し、丁寧に開き、首からホルターを下げた。

ベルリンで使っていた大事なカメラ…最新の携帯に便利な小型カメラだ。

歩きやすい靴を履き、小ぶりだが手の込んだ造りの帽子にギャルソンヌと呼ばれた活動的な体を締め付けない軽やかなミニマムなドレスを身に着け、マリヤは下町に繰り出した。


モンパルナスと呼ばれる地域は芸術家の集う街、と言われるが、実際は国外、大半は好景気に沸くアメリカから来た観光客と、その無邪気でひもが緩んだ財布目当てのこそどろ達である。その攻防はちょっとしたパリの名物ですらあった。


最新式の小型カメラを抱え、カフェやカバレット、土産物屋や画廊が並ぶ『その一帯』に着くと、酔っ払った男たちの集団が酒臭い息を吐きながら、ものすごいスピードで目の前を駆け抜けていった。

青黒くくすんだ肌、脂じみて乱れた髪、顔と体中から酒と体指と髪油のにおいを発散しながら、なだれを打って坂道を丘の上から駆け下りてきて、やんやとはやし立てる観衆(これまた髪を撫でつけお誂えの上下服をびしりと着こなした紳士から、半ば破れたボロのコートをまとったルンペン風まで) を押しのけて店内に殺到する。

そして入り口近くの大テーブルに置いてある金属のカップ(店によっては豪気にも割れやすいグラス)になみなみとと注がれた強い酒をあおるとまた走り出していく。

酒は水を加えて白濁したアブサンやパスティス、店によってはワイン。

坂を走って降り、また登り、協賛の店に飛び込んでは用意されたアルコールを飲み、また走り出す。

酔っ払った芸術家たちが白昼開催した『酒飲み耐久マラソン』だ。


マリヤは目を輝かせて走る芸術家たちに接近した。

汚れて垢じみた肌を伝う汗。酸化した体指をため込んだ下着やシャツ、だらしなくたるんだ胴体に酒でうまく動かない脚。

転んでは起き上がり、獣じみた歓声を上げながら大衆の声援やヤジの中を走る、目の色も肌の色も違う様々な人種の男たち。

それはオデッサでもベルリンでも見たことのない、暴力とは一線を画した生命力の輝きだった。

大事な小型カメラを抱え、夢中になって彼らの写真を撮り続けた。

男たちの一団の最後尾がよろよろと店と通りを後にしようとする。

マリヤは短めのスカートのすそをひるがえし、帽子をずらせながら彼らの後を追った。

だが運動し慣れていない少女の足は、たとえ泥酔者だとしても男の速度にかなわない。

待って ! もっと私に写真を撮らせて!!!

令嬢らしからぬ声音で叫びながら、群衆をかき分け走っていると、すぐ脇を一人の男が並んで走っているのに気付いた。

「お嬢さん、ちょっとお待ちなさい。僕にいい考えがある」

派手な色柄のキモノのようなガウンをまとった、マッシュルームのようなおかっぱ頭にちょび髭、丸井眼鏡の東洋人だ。

男はマリヤをさっと抱き上げると、しっかりそのカメラを抱えていて、と叫んだ。

「僕が抱えて走るから、腕の中でしっかり狙って撮りなさい。これでも健脚には自信があるんだ」

男は酒臭い息ながら、しっかりした口調で走りながら囁いた。

東洋訛りの、不思議なニュアンスのフランス語だ。

「ありがとう。タクシーみたい」

「移動カメラ車だよ」


みるからに世慣れぬ令嬢と、モンパルナスのカオスを体現するようなカオスな見た目のアジア人。

この組み合わせに観客の笑顔と嬌声は弾けた。

男たちははやし立て、女たちは眉を曇らせた。

「小娘が調子に乗っているわねえ」

「ああいう愚かな若い娘は、本当に痛い目にあわないとわからないわよ」

だがそんな『お上品な皮肉』(Ridicule)は走る男の腕の中のマリヤには届かない。

おかっぱ髪の男はあっというまに先を行く酔っ払いランナーたちに追いついた。

店の中、吞む男、はやし立て『腕の中の小鳥ちゃん』に挨拶のキスを送るアーティストたち。

マリヤは男の腕から降り、思う存分写真を撮った。

「さあ、もうすぐゴールの店だ。君も走るかい?」

「もちろん!!」

マリヤは靴を履きなおすと、水を一杯もらって飲んで、再び動き出した集団と並走した。

酔っ払いたちは歓声を上げ、ゴールのカフェめがけてラストスパート…をかけているつもりらしい。

だが全身にまわった酔いで足がもつれ、ふらつき、何人かがどうっと絡み合って転倒する。

そしてそれを見ている観光客や常連から盛んと冷やかしの声が浴びせられた。

ついに到達したゴールの有名カフェ『リラの畑』につくと、マリヤは千鳥足の芸術家たちから次々とあいさつを受けた。

「マリヤ・オルロフスカと言うの。今日引っ込みしてきたばかりよ」

「よし。我らのロシアの真珠、マリヤ・オルロフスカ嬢に乾杯」

もういい加減したたかに回っているはずなのに、かれらはさらに祝杯を重ねた。


マリヤは自分を抱いては知ってくれた男を探したが、彼はおびただしい数の女たちに囲まれて、身動きが取れずにいた。

「あの! あなたに心からの感謝を。良い写真が撮れたわ」

マリヤの呼びかけに、男は顔を回してウインクし、右手を高くつきあげた。


男の名はフジタ。

モンパルナスの、パリの名物日本人漢だと聞いた。

マリヤはモンパルナスの街が気に入った。

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