89:過去と現在(いま)と未来 (2)
そろそろ太陽が顔を出し、夜から朝に変わってもいい頃だ。
けれど薄暗い。
低い雲に届きそうな位置をヘリコプターは飛んでいる。
目指す地は再び幻舞山。
茜と白銀はそこを拠点と定めたようだ。
夜稀の事は伊緒里と暁史にも伝わっていて、彼らは悲しみとも哀れみともとれない複雑な表情で、それでいて悔しげでもあった。
「なんでもっとウチらを信じんかったんやろな…」
榊河家の人々を殺してしまう前に何故助けを求めなかったのか。
彼はきっと誰かに救ってほしかったはず。
手を伸ばせば掴んでくれる仲間はいたはずなのに。
許されないことをしてしまう前に。
こんな事になる前に。
伊緒里は唇を噛んで、しばしいつもは見せない暗い表情を浮かべていた。
そうかと思えば突然ぱっと表情を切り替える。
「蒼ちゃんその服どこの?そんなん持っとったっけ?」
沈んでいるのは自分らしくないと気づいたかのように突然全く緊張感のない話題が飛び出した。
「水穂のも同じブランドみたいやけど」
「え?」
話を急に振られて返答に困る。
確かによく見れば蒼の可愛らしいシャツにも私のカーディガンにも同じモチーフが付いていたのだけど。
「さあ?美由と美弥が用意してくれたんだ…って苦しいってば」
伊緒里は蒼の服の首部分を優しくない力でひっぱってタグを確認した。
蒼が答えたように彼の服も私の服も血塗れになってしまったから、あの二人がどこからか調達してきてくれたのだ。
「こないにウチ好みのブランドがまだノーマークやったとは…」
伊緒里は頭を抱えて大袈裟に悔しがる。
沈んだ気持ちを何とかせねばという彼女なりのみんなに対する気遣いだったのだろう。
騒がしさに眉をひそめる叶斗だったが、蒼の方は苦笑を浮かべつつもその眼差しは暖かい。
しかし彼はこれから戦いに赴こうかというのに未だ子供の姿のままでいる。
式神となった彼はずっと大人の姿でいることだってできたけれどそうはしなかった。
今になって考えてみればそれは自らの血を抑えられない感覚を思い出してしまうからではないだろうか。
ずっとずっとそんな思いを抱えて生きてきたんだろうか。
私が垣間見た以上に苦しんだに違いない。
蒼にも伊緒里にも叶斗にも暁史にもそれぞれに背負う物がある。
普段通りにしていても今はそれが痛いくらいにわかる。
私は何を背負っているのだろう。
本当は、人間の未来とか大それたものは重すぎて。
それでも私が戦うのは、やっぱり平穏を取り戻したいから。
妖怪と人間、両方の平穏。
いつでもただ平和な生活を求めていた私だから、ことさら強くそう願う。
私は前方に広がる街へと目をやった。
街はまだ人間の活動時間を迎えておらず本来なら静かな夜明けを迎えたばかりのはずだ。
しかし眼下には煙を上げる建物や、赤いパトカーのランプがチカチカと光るのが見える。
妖と人間の境界を越えることはあってはならないことだと嵩波が言っていた。
警察の人達と榊河の術者達がそれを食い止めるべく街中を駆け回っている事だろう。
けれど人間の平穏は脅かされつつある。
そんな不安を胸に抱いて街の上空を通り過ぎようとしたその時だった。
黒い雲が意志を持ったもののようにこちらへと近づいてきた。
間近に迫ってわかった。
雲のように見えたそれは蝶の群だ。
急旋回しようとしてもまとわりついてくる蝶達は、明らかに私たちを狙っている。
普通の蝶ではなくて妖怪なのだ。
「邪魔せんと、退いときっ!」
伊緒里が気合いを込めて叫べば、蝶は雷に蹴散らされ散り散りになっていった。
視界が開けてこれで進めるはずなのに、何やら警報音のようなものがけたたましく鳴り始める。
「な…何ですか?この音」
「制御系統の異常だ」
暁史が慌てて操縦席に着くも危険な状況らしい。
先程の雷はヘリコプターに深刻なダメージを与えてしまったようなのだ。
もちろん伊緒里がわざとそうしたわけではないだろうけど。
「ちょおっと力加減、間違うたみたいやぁ」
やはり伊緒里はうまく雷を制御できないくらいに無理をしているのだ。
「無理して出て来るからだろ!」
ヘラリと笑う伊緒里に叶斗の指摘が入った直後ヘリコプターはがくんと浮力を失った。
胃が浮き上がるような浮遊感。
どちらが空か地面かわからなくなるくらいに回転しながら私達はヘリコプターごと落下していく。
窓の外に建物が近付いてくるのが見えた。
思わず悲鳴が口をついて出る。
けれど地面に激突する前にヘリコプターは再びがくんという衝撃と共に落ちるのをやめた。
我に返ると、いつの間にか私は叶斗にしがみついていて、慌てて手を離す。
彼は目を合わせなかったけれど、幸いにも怒られはしなかった。
衝撃で開いてしまったドアの外は地面がすぐそこにある。
ヘリコプターは地面すれすれで何かに宙吊りにされているようなのだ。
周囲の建物とヘリコプターとを繋いでいる弾力のあるそれはまるで蜘蛛の糸。
何本もの白く細い糸だ。
それが敵か味方かわからなくて、私はおそるおそる地へと降りた。
暁史と蒼が辺りを警戒する。
ビルに囲まれたアスファルトの道で、私は不気味な妖気漂う街の静けさに不安をかき立てられた。
「意外と元気そうじゃない」
不意に声がかかる。
ウェーブがかった長い黒髪の女性だった。
薄い唇が叶斗に向かって親しげに微笑む。
「こちらに来ていたのか」
「まあね。みんな病院に運ばれたって聞いて心配したわよ」
綺麗なお姉さんは叶斗の言葉にサバサバとした口調で答えた。
二十代半ばほどだろうか。
大人っぽい雰囲気だ。
美しいネイルアートの施された指先に白い糸を絡めている。
「あなたが水穂ね?私は紀久。式神。普段は東北を拠点にしてる」
聞こえた足音に彼女は言葉を切った。
「あぁ…紀久さん。参ったよ。一人で先々行っちゃうんだから」
「あれがご主人様ね」
紀久が指した先を見れば三十そこそこの男性が文句を言いつつこちらに走ってくる。
お世辞にもハンサムとは言えない丸顔の人の良さそうな男性。
榊河家にも美形じゃない人がいるんだと失礼ながら少し安心してしまった。
「大樹が遅いからでしょ。一刻を争うってわかってる?」
「わ…わかってはいるんだけど、速く走るのは苦手で…」
まだ息が上がりっぱなしの大樹は紀久に怒られてしょんぼりしてしまい、どちらが主人かわからない。
「大樹は相変わらず尻に敷かれとるなぁ」
伊緒里ですら少し心配そうだ。
「あの、えっと…紀久さん、助けて頂いてありがとうございました」
改めてお礼を言えばおやすいご用と彼女は返した。
「せやけど、まだ懲りてないみたいやで」
げんなりした伊緒里の声。
上空にはまた蝶達が集まってきていた。
それはただの群ではなく、一塊になり始めている。
やがて生まれた巨大な蝶の妖怪はその羽の模様を睨みつけるようにこちらに広げた。
蝶もここまで大きいと不気味で仕方がない。
「ここは引き受けるから行って。本当に大変なのはここからでしょ?」
紀久は口の端を持ち上げて頼もしげな笑みを浮かべた。
きっと紀久の糸は鮮やかに蝶を捕らえるに違いない。
「ここは任せて、急ぐんだ」
必死に走ってきた彼女の主人も息を調えながらそう言う。
こっちは少し頼りないけど。
ちょうど進路の安全を確かめ終えて暁史が身振りで呼んでいる。
その先にあるのは暗い雲に輪郭を浮かべる幻舞山。
私達は再び遙かにそびえる決戦の地を目指して駆けだした。




