77:蒼と茜 (7)
調伏された妖怪達の残滓がちらちらと舞う。
蒼は嵩波を振り返った。
「…何したんだ…」
「父から教わった魔を払う術だよ。私の父は陰陽寮に勤めていたからね」
魔を払い清めてみせた嵩波もまたその力を継いでいる。
「陰陽寮…陰陽師……確か都にいる退魔師のこと…だよな」
陰陽師の存在はこの山深い天狗の里にも届いているらしかった。
「茜の言ったことは正しかったのか?人間と俺たちは互いに相容れない存在なのか?まさか…俺達を退治するためにここへ来たのか?」
語尾は消えそうに弱い。
妖怪達が目の前でいとも簡単に消え去ってしまった事に蒼はショックを受けている。
「違うよ」
嵩波は少し困ったように笑う。
「左遷されてここに来たんだ」
「左遷?」
「都でね、帝の命をねらった妖がいたんだ。もちろん退治するよう命が下された。でも父がその妖を逃がした。それが上に知れたのさ」
「どうして。さっきみたいに消すことだってできたんじゃないのか?」
憤りのこもる問いかけ。
陰陽師の術はあんなにも簡単に妖怪の命を奪ってしまえるのにと。
「その妖は人間の心が生み出した闇――魔というものに取り付かれていただけ。魔から解放してやればそれでよかったんだ。でも、ここにいた子達はすでに魔に取り込まれていて間に合わなかった。そうなってしまったら調伏してあるべき場所へとかえしてやる他ない」
嵩波はつらそうに目を伏せる。
もう少し…もう少しだけ早く気付けば間に合ったかもしれない、そんな表情で。
「私は人間も妖も両方守りたいって思ってしまう。どちらも私にとってはそこにあって当たり前の存在だから」
「陰陽師の中にあってその考えは異端であったかと」
悠璃の声が流れる雲の上から降り注いだ。
「けれど、まだ榊河という姓を名乗ってはいないこの時からすでに受け継がれていた教えがございます。魔とは妖にあらず。魔とは魔性なり。魔は人の心の闇より生まれ、妖の心の闇より生まれる。魔とは闇に住まう者達ではなく心に巣くう闇なのでございます」
都を人外から守る陰陽寮において、妖怪を滅するのが陰陽師の役目。
元々はおとなしい妖怪だとかそんなことは人間には関係ない。
本来はそうであっただろう。
けれど嵩波は言った。
人間も妖怪も守りたいのだと。
真っ直ぐに向けられた眼差しを蒼は受け止める。
「俺だってそうだ」
それは蒼とて同じだった。
二人は妖怪と人間で、立場も背負うものも違う。
けれど守りたい物は同じだ。
私は思う。
妖怪は純粋だからきっと人間が生み出した魔にも取り込まれてしまうのだ。
そしてその純粋さ故に起こった悲劇を幾度も目にしてきた。
だからこそ救いたい。
人間が生活を営み、妖怪が息づくこの世を守りたい。
それは確かにこの時から今に至るまで続く榊河家の精神であり、在りようだった。
私の視線は自分の意志を無視してどんどん山を登っていった。
そこには天狗の里の入り口である門がそびえ立っている。
門を抜けて別世界の風景を眺めながらまだ景色は走り続けて。
やがて長の住まいである屋敷にまでたどり着いた。
さっきまであんなにも晴れ渡っていた空には分厚い雲がかかり、大粒の雨が地面代わりの水面を揺らす。
また一瞬で何年もの時を越えたのだとわかったのは屋敷の廊下に十七、八歳程になった琥珀を見つけたからだ。
私は琥珀を追い越して広い部屋にたどり着いた。
「お前と琥珀の元服も終わって、蒼ももうじき元服だそうだ」
「はい」
黒と紺の混ざった長い黒髪の少女の前に白い髪の中性的な顔立ちの若者が座していた。
「私は未だに子供のまま。それどころか空を飛ぶことも出来ない。何故風は私に従わないのだろうな」
茜は十歳の見た目から成長していないが、浮かべる表情は以前よりも更に大人びている。
「私は長となるべきじゃないのかもしれない」
「その様なことはありません。あなたは長となるために生まれて来た。どうかその様なことをおっしゃらないでください」
白銀は蒼や琥珀の前では見せない熱のこもった視線で茜を見つめる。
「あなたは私の生まれの事を承知でお側に置いてくださっている。あなたはやはり長となる器の方だ。こうして茜様にお仕えできることは私にとって何よりの誇りなのです」
「ならば…ならばお前が私の翼になってくれるか?」
「お望みとあらばいつでも」
恭しく頭を垂れた白銀。
茜の表情は晴れはしなかったが、十歳の少女らしからぬ愁いを帯びた笑みが口元をかすめた。
この二人には互いにしかわからない絆が生まれている。
それは主従の関係をを越えた思いだったのかもしれない。
日も落ち掛けた頃。
「琥珀!本当なのか!?迦墨が…」
雨音に負けないように叫んだ蒼はまだほんの少し幼さを残した少年で。
肩まで伸びた髪が雫を落としていた。
「ああ!今、代理様と牡丹姉の話を聞いたんだ。人間を傷付けたって!」
琥珀もまた雨に濡れそぼっている。
けれどそんなことよりも目の前で起こっている事態の方が重大であったのだろう。
二人は門を飛び出して里の外に広がる森を駆けて行く。
木々が暗く影を落とすよりもなお深い闇がわだかまっている方向へ。
やがて彼らはよく知る後ろ姿を見つけた。
それはあの迦墨という鴉天狗だと私にもわかった。
迦墨は身構えている。
その向こうに佇む人物に。
暗がりの中の白い面の持ち主は空の一族の装束ではなくて。
村人の粗末な着物でもない。
「嵩波!!」
彼はもう青年と呼べる年齢に見えた。
嵩波の後ろには倒れている人影。
人間と、迦墨を追っていた天狗達。
嵩波の衣には赤い染みが雨に滲んでいる。
倒れている人の血か、自身が怪我をしているのかもしれない。
蒼は躊躇うことなく嵩波と迦墨の間へと割って入った。
自らの師とも呼べる相手に刀を構える。
迦墨の様子がおかしいのは一目瞭然だ。
打ち合う刃が雨粒を弾く。
やはり迦墨は強くて、蒼は押され気味だ。
けれど何とか蒼が迦墨の攻撃を受け止める格好で、二人は動きを止めた。
「嵩波!今だ!!」
「やめろ!迦墨を殺す気か!?」
琥珀が叫び、嵩波は素早く印を結ぶ。
「ナウマク・サマンダ・ボダナン・ドボウシャナン・アビユダランジ・サトバダトン・ソワカ!」
光が広がった。
泥の地面に倒れ込んだ迦墨と刀を収めた蒼。
「蒼、何考えて…。なぜ迦墨を!」
琥珀が息を整える蒼に詰め寄った。
「蒼。助かったよ」
「お前っ!!」
微笑んだ嵩波に飛びかかろうとした琥珀を蒼が制す。
「迦墨は無事だ。間に合ったんだ」




