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73:蒼と茜 (3)

 暗闇から抜け出でると、体はさっきまでのだるさが嘘のようにまるで空気の軽さだった。

 それはただの例えじゃなく、私は本当に浮かんでいる。

 というか体の感覚はなくて空気になってしまったようだ。

 光に慣れてくると自分が幻想的な風景を見下ろしているのがわかった。

 神殿のような木造建築の高床の建物が建ち並んでいるこの場所は、雄大な自然に囲まれた山の中腹。

 にもかかわらず建物の下には水面がある。

 傾斜はなだらかとはいえ普通なら流れを作るはずの水は波もなくただ満々とたたえられていた。

 最も立派な建物が他を見下ろす位置にあって、橋を渡すように廊下が作られ、全ての建物の間を繋いでいる。

 

「ここは…?」

 

「ある妖の一族に関する記憶。この本は昔、様々な妖や人の記憶を取りまとめ、書き留められたものです」

 

 天から降ってきた声は悠璃のものだ。

 

「つまり本の中…なんですか?」

 

「本の中であり過去の世界、と申し上げるのが正しいかと」

 

 過去にあった現実。

 けれど現実離れした風景。

 マヨイガなどと呼ばれる人間の住む世界とは異なる空間は様々な場所にあるというから、これもそういった類の場所に違いなかった。

 

「間もなく、男女二人の赤子がこの世に生を受けます」

 

 悠璃の言葉に合わせて景色が動く。

 私は吹き抜ける風のように廊下を渡り、大きな建物へと、そしてその屋根を越えて山頂へと向かう。

 地面はいつの間にか土に変わり、大勢の人影がそこにそびえる際立って大きな一本の木の周りに集まっていた。

 いや、それは人ではない。

 白を基調としたその着物のような装束。

 背に翼を生やし空を舞う姿。

 ここにいるのは皆、空の一族――天狗達だった。

 巨大な木の幹の中程にある人が入れるほどに大きなうろを、地上から仰ぎ見る者、空や木の枝からのぞき込む者。

 その中にはいったい何があるというのか。

 煌びやかな衣装をまとった女性が薄紅の翼を広げて飛び立ち、布を手にそのうろへと入っていった。

 辺りに緊張感が漂い始めたのがわかった。

 やがてそれは期待に満ちた眼差しへと変わる。

 子供の泣く声が聞こえてきた。

 

「文献にはこう記されております」

 

 また天上から悠璃の声が降り注ぐ。

 

「空の一族は男女の交わりによって子を成すが、長となるべき者だけは女の腹からは産まれぬと。長が死するとその亡骸は霊木のうろに葬られ、幾日か経つとそこに卵が現れます。卵は山の神気に育まれ、一族皆に見守られ、やがて次の長となる子が生まれるのです」

 

 眼下の光景は今まさに卵がかえった瞬間だ。

 ざわめきが歓喜の声に変わる。

 しかし、それは長くは続かなかった。

 うろから出てきた女性の腕には二人の赤ん坊が抱かれていたからだ。

 

「何故赤子が二人いるのだ!?」

 

「この様なことは過去に無い!」

 

「いったい長となるべきはどちらか」

 

 口々に言った声は戸惑いの渦を生み出す。

 一方を今のうちに殺してしまえと言う者まで出る始末。

 

「赤子に何の罪がありましょうか?」

 

 薄紅の羽の天狗は凛とした声で言った。

 

「どちらが長となるかはいずれ自ずと決まるだろう」

 

 静かに見守っていた、見た目だけなら三十代前半ほどの男性の言葉に、異論を唱えられる者はいないようだ。

 やがて泣き止んだ赤ん坊の瓜二つの可愛らしい寝顔。

 たとえ未来を知っていたとしても、どちらかが生まれてきてはいけなかったなんて、等しく生まれた命に対して言えるわけがない。

 二つの新しい命はこの天狗達の里において希望であったはずだから。

 どこかで歯車が狂ってしまうまでは確かにそうであったはずなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 さっきまで見ていた風景は蒼と茜が共にこの世に生を受けた瞬間だった。

 場面は移り変わり、足元には板張りの廊下があった。

 里全体を見下ろす場所。

 最も高い場所に位置するのは長の住まいとなる屋敷だろうか。

 ひときわ立派で広い。

 

「お待ちください!そのようなお召し物で出歩かれては…」

 

 女の人の声が聞こえる。

 ちょうど廊下に立っているような目線で、私は後ろを振り返った。

 ひらひらと舞う蝶を追い掛けておかっぱ頭の可愛らしい子供が駆けてくる。

 男の子か女の子か判別がつかない。

 歳は五つほどだろうか。

 着ている物は寝間着のようだ。

 そんな格好で部屋を抜け出したその子をまだ少女と言っていいくらいの侍女らしき子が追いかけているのだ。

 追われている子は青い羽の小さな蝶が珍しいらしく、金色の瞳をキラキラと輝かせて精一杯手を伸ばす。

 トンと床をけって小さな翼をぱたつかせ、飛んだというには不完全だったけれど、ふんわりとジャンプして蝶を小さな手の中に捕まえた。

 

「お戻りくださいませ」

 

 そして直後、今度は自分がそこに現れた大人の侍女に捕まって連れ戻されていった。

 私の視線は部屋の中へと吸い込まれる。

 部屋にはさらに数人の侍女がいて、おかっぱ頭の子供が二人。

 一人は寝間着姿、一人はお行儀よく着替えを済ませていた。

 それは蒼と茜なのだが二人はそっくりで、一見して見分けるのは至難の業だ。

 並べて見てもどちらが男の子か女の子かやっぱりわからない。

 しかしよく見れば、二人には唯一異なっている部分があった。

 一方の羽は宵の空の紺。

 一方の羽は暁の空の(くれない)

 

「あおい、みなをこまらせては、いけないよ」

 

 紅色の羽の子供が鈴の音のような声で言う。

 

「だって、きれいなチョウがいたんだ、ほら!」

 

 寝間着の袖をひらめかせつつ蒼が手を開くと蝶は部屋の中を飛び回り、茜も瞳を輝かせた。

 

「蒼様、早くご支度下さいませ。代理様がお待ちです」

 

 痺れを切らしたのは侍女の一人。

 蒼は今度こそ大人しく着替えさせられて、茜と共に何処かへ連れられていった。


「蒼様には困ったものだわ。目を離すとすぐにどこかへ行ってしまうんだもの」

 

「茜様が年の割に落ち着いていらっしゃるというのもあるけれど、どうしてああも違うのかしら」

 

「やはり次の長は茜様かしらね」

 

 そんな侍女たちの会話が耳に残ったまま場面は移り変わる。

 

 

 

 

 

 かなり広いその部屋は開け放たれていて里が一望できた。

 水の青と樹木の緑が清々しく遠くまで続いている。

 部屋の中程に男性が座っていた。

 茜と蒼が生まれた時に里の者達を静まらせたあの男性だ。

 

「彼は次の長が着任するまでの間、里をまとめる長代理。名を東雲(しののめ)と。長の代理は前長の血族が務めるのが常のようでございます」

 

 悠璃からの説明が入り私はその赤茶の翼の天狗の名を知る。

 茜も蒼も彼の前でお行儀よく正座してそろって頭を下げた。

 

「蒼様、また侍女たちを困らせておいでだったようだ」

 

「ごめんなさい」

 

 翼をしゅんとたたんで蒼は反省の色を示す。

 それを見て東雲はちょっと笑った。

 

「実は今日はお二人に会わせたい者がいるのですよ」

 

 東雲が視線をやった先に赤ん坊を抱いた薄紅の翼の女性と、こちらもよく似た羽の色の十歳程の女の子が赤ん坊を抱いて姿を現した。


「娘の牡丹(ぼたん)。そして、私の姉の子白銀と弟の子琥珀にございます。この先、お二人にお仕えし、お助けいたす子らです」

 

 父親に紹介されて牡丹がニコリと微笑んだ。

 蒼はなんだか恥ずかしそうにうつむく。

 

「ちいさな手…」


 茜の方は牡丹に近付いて、その腕の中の赤ん坊の手にそおっと触れてみたりしていた。

 

「蒼様。琥珀ですよ」

 

 薄紅の翼の女性の方はよく見知った顔のようで、赤ん坊を差し出されて蒼はぱっと顔を上げる。

 

「お抱きになりますか?」

 

「いいの!?」

 

 自分より小さな子供に蝶よりももっと興味を持ったらしい蒼は嬉々として手を伸ばし、続いて茜も恐る恐る牡丹から赤ん坊を受け取る。

 蒼がぎこちない抱き方でかかえてもすやすやと寝息をたてている金茶の髪と翼を持つ赤ん坊。

 白い髪と翼の赤ん坊はその金の瞳で茜のよく似た色の瞳を見つめ返す。

 四人が揃って歯車は回り始める。

 今はただ日だまりのようで、影すらさしていない。

 そんな風景に見えるのに。


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