72:蒼と茜 (2)
「来ては…駄目です…」
部屋の扉を開けるなり龍介のいつになく緊迫した声。
私はその光景に目を疑った。
さっきまで子供の姿で眠っていたはずの蒼が彼の喉を掴み、片手で吊し上げた状態で壁に押しつけている。
蒼は青年の姿で、でもいつものスーツ姿ではなく、袴の上に丈の長い着物のような白い衣。
それは空の一族の――天狗の装束だ。
龍介を掴む左腕の、刺青のようでしかなかった鱗模様は、今は本物の鱗のように禍々しい光沢を放っていた。
その横顔は笑ったのだと思う。
腕に生えた黒い鱗がぬらりと光った。
龍介の首筋に鋭い爪が食い込む。
「ぐっ……」
血飛沫が赤い花弁を咲かせた。
蒼の舌は自らの頬を伝う獲物の血を舐めとる。
すると表情からは急に興味が失せたかのごとく笑みが消えた。
固い物が砕ける嫌な音。
龍介の体が途端に力を失う。
興味をなくした獲物を投げ捨てて蒼はこちらを向いた。
ニィッと唇を釣り上げて妖艶な笑みを作れば牙のような鋭い犬歯が覗く。
いつもの蒼ならばそんな風には笑わない。
だから牙があることにすら初めて気付く。
背筋が凍るような笑みは恐ろしくて、それでいて美しい。
人間とは違う生き物。
近寄りがたい存在。
それは本来の蒼の姿であるのかもしれないけれど、きっと龍という妖怪の本質によるところも大きい。
その瞳の飢えた輝きに足がすくんだ。
だが叶斗は蒼に近付いていく。
「蒼」
そして胸に手を当て自らを指し示し、蒼を臆することなく見据えて言った。
「僕の生気をやる」
蒼は意外そうに目を細め、しかしその左手が叶斗の首筋に触れると彼は再び笑みを浮かべ舌なめずりをする。
どちらもそれ以上は動かずただそうしているだけのように見えるのだが、目を閉じた叶斗の白い肌が更に白さを増したように見えた。
生気とは生命力みたいなものだ。
このまま続けたら叶斗の命が危険なのではないか。
まるで学園の地下で繰り広げられたのとは逆の光景だ。
「蒼さん…だめ…」
だからまた私は呼びかける。
恐怖に声が上手く出なかったが、蒼はぴくりと反応した。
狂気じみた笑みが消え、一瞬正気が入り混じったようにも見える。
もう一度絞り出そうとした声を乾いた音が遮った。
それは銃声だ。
蒼の唇の端からつうっと血が伝った。
腹部を撃ち抜かれた痛みよりも、邪魔をされたことに機嫌を損ねた様子ですがめられた瞳がその銃弾の放たれた先を追う。
鋭い爪から解放された叶斗がその場に倒れ込んだ時には、鞘に収まった刀を携えて風の早さで龍介へと距離を詰めていた。
壁を背になんとか体を起こした龍介はまだ反応できるほど回復してはいない。
「オン・ヒラヒラ・ケン…」
どうしてその真言だったのかは自分でもわからない。
「ヒラケンノウ・ソワカ!!」
ただ夢中で唱えた。
刀が抜かれる寸前。
糸が切れたように蒼は意識を失って龍介に折り重なって倒れた。
腕や頬に見える鱗はただの痣に戻っている。
私は恐怖と緊張から解き放たれて思わずその場にへたり込んだ。
立ち上がる者はいない。
「っ……生気を喰えなかったからって、首へし折るとか…マジありえねえ…」
首筋を撫でながら蒼を押しのけたのは龍介と入れ替わったリュウだ。
「てめぇはそういうキャラじゃねぇだろうが…。ちっ…返してもらうぜ」
目を閉じて反応を返さない蒼に苛立ちを見せたと思えば、その顎を伝う血を美味しそうに舐め取った。
それは妙に艶めかしく、見てはいけない光景のようでもあるけれど目がそらせられない。
「ああ。わぁってる。」
リュウは苛立たしげに一人ごちて蒼を離した。
血の色に染まった瞳を隠すように目を伏せて口元を拭ったその表情は一瞬前までとは違う。
龍介に戻ったのだと思った時、私は急激な脱力感に教われて、世界が遠のいていくのを感じた。
「あ…私どうしたんだっけ…」
「ミズホ!よかっタ、目が覚めマシタか」
ベッドの脇でイズミがぱっと笑顔を咲かせた。
「私、寝てたの?」
「そうでス。生気を吸い取られたノデス!」
たまたまか、誰かに聞いたのか、イズミは言う。
「妖怪の中には人間をバリバリ食べるのトカ、生気だけを食べるコトができるのもイルのデスヨ!」
あの部屋にいただけで生気を奪われることがあるのだろうかとは疑問に思う。
「うん。心配かけてゴメンね」
けれどイズミの勢いに押されて答える。
イズミはまだ本当にわかっているのか問いたげな表情を浮かべていた。
「イッタイどうなっテいるのデスカ?わからないコトだらけデス。なぜコウヅキさんがイナくなって代わりにアオイくんが怪我をしてイるノデスか?叶斗王子トノ関係は?ミズホも陰陽師なノデスか?」
せきを切ったように質問が降り注ぐ。
一眠りして元気が出たのか、我慢の限界だったのか。
「えっと…何から説明したらいいのか…」
本当にどこから説明したらいいか悩む。
今の私には考えがうまくまとまらない。
「うー仕方ありマセンね。時間がかかるナラ後にシマス。私は先生を呼んで来なくてはいけマセン。目が覚めたら知らせるヨウニ言われていマシタから」
病室を出て行くイズミ。
足音が遠ざかる。
私はため息を吐き出した。
それ以上聞かなかったのは私の手がわずかに震えている事に気付いたからだろうか。
私はまだ蒼に恐怖を感じて動揺している。
あの冷たい妖気の感覚がまだ残っている。
蒼は妖怪なのだと思い知った。
私は果たしてこの先も彼の主人でいられるのだろうか。
「矢野水穂さんですね?」
あまりに考えに入り込んでいたのだろうか、いつの間にかベッドの脇に一人の女性が立っていることに声をかけられるまで全く気づかなかった。
「そうですけど…あなたは…?」
「申し遅れました。私は悠璃。榊河家の書庫番をしている者です。これをあなたにお見せするようにと八重様より仰せつかって参りました」
その人――人ではないかもしれないけれど――は細身のスーツに身を包み、黒髪をきっちりとまとめてシャープなメガネをかけた、まるで秘書のようにてきぱきとした女性だった。
片手には一流企業のサラリーマンが持ちそうな黒いケースを携えている。
そのケースの中身こそが榊河の家の書庫を護っているはずの悠璃がここにやってきた理由らしかった。
まだだるさの残る体を起こして覗き込んだ。
「これは…」
ケースの中には一冊の本。
「榊河家に伝わる文献にございます。あなたのお知りになりたいことが記されております」
「私が知りたいこと…って?」
「過去にございます」
それはさっき叶斗に聞きそびれてしまった事だった。
洞窟で見た白銀の表情。
蒼は白銀が人間と妖怪とを支配するために茜を目覚めさせ、利用しようとしているのだと考えているようだった。
けれど白銀の茜に対する感情はそれが全てではないような気がする。
過去にあったことを知りたい。
知っても何も変わらないかもしれないけど、やっぱり何も知らずに戦うのとは違う。
そう思ったのだ。
「どうぞご覧ください」
蒼への恐怖を頭の片隅に追いやって、ケースに大事そうに収められたとても古い書物を恐る恐る手にとった。
破らないように慎重に開く。
紙は茶色く変色してしまっているが、そこに黒い墨で書かれた達筆な文字。
その遙か昔の文書が私に読み解けるはずもなかった。
「私には何て書いてあるのか…」
「私がお手伝いいたします。そのためにここへ参ったのですから」
そう言って悠璃は本を持つ私の手に手を添える。
勝手にパラパラとページが進み始めた。
そして私の意識はそこに飲み込まれていく。
通り過ぎていく文字の羅列を越えて更に奥底へ。
やがて見え始めたトンネルの出口のような光に私は引き込まれていった。




