53:東の清流と西の宵闇 (3)
急激に水かさが増せばここも一瞬のうちに飲み込まれるだろう。
私達はぐずる小太郎を連れて川から距離をとった。
今や川は増水してもう少しで柳の木まで飲み込もうという勢いだ。
「護りっていうのは、この川を護っているっていうことですか?」
叶斗の言葉が気になって聞いた。
「わかりやすく言えば守り神だ」
「神様!?」
「神と妖などそう違いはしない」
言われてみればそうだ。
現に私は知っている。
神に近いという空の一族――天狗を。
「それじゃあ小太郎くんを泣きやませないと大変なことに!」
「せやけど泣きやまへんのやー」
伊緒里は自分が泣き出しそうな声だった。
蒼と二人してあやしているのだが小太郎は見向きもしない。
天を仰いで声なき声で泣いている。
まるで小太郎の叫びを代弁するかのごとくミシッという音が、そして轟々とうなるような音が川上から聞こえてきた。
ここも、下流も危険かもしれない。
「小太郎!!」
その事に気をとられている隙に、小太郎が伊緒里の腕をするりと抜けて激流と化した川へと走り出した。
「伊緒里は水穂と叶斗を連れて下がって」
蒼は小太郎を追って身を翻す。
「蒼くん!」
危ないと叫んだ声は轟音にかき消される。
上流から大量の泥水が木をなぎ倒しながら襲いかかってくるのが見えた。
「危険だ。ここはあいつに任せろ」
反射的に追いかけようとした私の腕を掴み叶斗が止める。
私は次に起こるべき光景を想像した。
小太郎と蒼が轟々とうなる濁流に飲み込まれる姿を。
突然轟音が止んだ。
変わりに心地良い川のせせらぎが聞こえ始めた。
それは目を疑う光景だった。
一瞬にして目の前の川がまるで何事も無かったかのように静かな流れを取り戻していた。
その穏やかな流れを目前に黒いスーツに身を包んだ青年の蒼が小太郎を後ろから抱きかかえて座り込んでいる。
小太郎は手の甲で涙を拭っている所を見れば泣きやんだわけではない。
それどころか蒼の姿の変化に驚いてじたばたと暴れている。
それなのに川は元に戻っていた。
川を鎮めたのは小太郎ではないのだろう。
もう近付いても大丈夫だと判断して叶斗が私の腕を放した。
伊緒里に手を借りて河原へと降りる。
小太郎と蒼に怪我はないようで安心した。
「誰や!!?」
伊緒里が鋭く叫んだのは水の音に混じって草を踏む足音が聞こえたからだ。
対岸の木の影で男の子がこちらを無表情に見ている。
高校生?
たぶんどこかの学校の制服のブレザーだ。
「つまらないな」
そう言ったように見えた。
そして林の中へと逃げ去る。
追おうとして蒼は立ち上がり、一歩を踏み出せず再びかがみ込んだ。
黒い革手袋に包まれた指が頭を押さえている。
「蒼さん?」
私の言葉で気付いて伊緒里も立ち止まる。
「どうしたんや?頭、痛いんか?」
「大丈夫だ。大した事はない」
しかし立ち上がれないところを見ると言葉通りとは思えなかった。
「伊緒里、蒼はこちらに任せてさっきの奴を探してこい」
「…わ…わかった…。小太郎のことも頼んだで!」
一瞬の躊躇の後、伊緒里は身を翻す。
木々の間にはすでに人影は見当たらない。
それでも伊緒里はひとっ飛びに川を越えて林の中へと駆け込んでいった。
「かんにんや。逃がしてしもた」
しばらくして伊緒里は肩を落として戻ってきた。
「そのかわりに変なんと会うてしもたんやけど…」
私の足に掴まって泣いていた小太郎が不意に駆け出す。
その視線の先には藍色の着物と白い袴の上に金糸銀糸で彩られた深い緑の衣を羽織った髪の長い男性がいつの間にか立っていた。
耳元、首もと、そして薄い緑の不思議な色の髪を色とりどりの石が飾っている。
今まで見たどの妖怪よりも派手だ。
金の指輪をはめた指で小太郎を優しく抱き寄せる。
その男性に抱き上げられた瞬間に小太郎はぴたりと泣き止んだ。
あれだけ何をしても泣きやまなかったのに。
「邪龍を宿せし者…か。誰が水脈を鎮めたのかと思えば、禁忌を犯した汚れた存在だったとはね。見た目は綺麗なのに残念だわ」
そのひとがしゃべり出した瞬間に神々しいイメージは音を立てて崩れ去った。
確かに男性にしては美しい顔立ちのひとではあったけれど朔良ほど女性的ではない。
現代風に言うならば『お姉系』という表現がぴったりだった。




