後編
私は修道院長の不正を、知らなかったわけではない。
修道院長も、きっと、私が何をしているか知らないわけではない。
花を売るだけでは到底得られない金額を、定期的に渡していればそれに気づくだろう。
修道院で普通に生活していれば、到底得ることのできない金額だ。
だけど、修道院長はそれを追求するようなことはしなかった。
――――――思えば、私に春を売るように唆してきたあの男は修道院長の知り合いではなかったか。
私は、修道院長に売られたのではないか。
様々な疑念が頭を過ぎった。
だけど、そんな疑惑をどこかに置いても、私と修道院に暮らす子供たちにはお金が必要だった。
それはきっと修道院長だって同じことだっただろう。
彼女は飢えていた。
穏やかに微笑んで、子供たちに無償の愛を示しながら、それでもその目の奥には酷い飢えを宿していた。
その手が皺だらけになるよりもずっと前から、何人もの子供たちを育て上げ修道院から見送った。
生活はいつもぎりぎりで食料にも事欠きながら、まるで母親のように自分の分を分け与えた。
『献身』というその言葉がこれほどに似合う人を他に知らない。
でも、だからこそ彼女の人生はきっと、誰かに搾取されるばかりのものだったはずだ。
そんな彼女に、私があげられるものと言えばそう多くはなかった。
疑念を封じるのに、時間は必要なかった。
私は知っていて、彼女に硬貨を渡した。
「ステフ、君は本当に愚かだね。だけどそんなところも愛しいよ」
耳元で囁いて、ついでとばかりにそこにキスを落とす。
大きな手が背中を撫でて力強く抱きしめられる。
「ああ、離したくないなぁ」
ぽつりと落とされた言葉が湿った部屋に霧散した。
*
*
「私、結婚するんです」
パン屋の裏で修道院用に焼かれた安価なパンを受け取っていると、表から聞き覚えのある声が聞こえた。
顔を覗かせてみると、そこにキャサリンの姿があった。
会わなくなってから然程月日が経過したわけでもないのに、やけに懐かしい。
相変わらず、愛らしいドレスを纏っているその姿に、なぜか胸が小さく締め付けられた。
店頭に並ぶ高級そうなパンを選びながら、店主に結婚の報告をしている。
あんなに小さかったキャシーちゃんももう奥さんか、なんて店主が豪快に笑った。
「相手はどうせクライドだろう」
「どうせなんて言わないで下さい!」
「はははっ」
その声を聞きながら胸に広がる、高揚感。
高揚感?
おかしい、そんなはずがない。
なぜ、なぜ今なの。
この感情は私のものではない。
今、まさしくキャサリンが胸に抱いている感情だ。
侵食される。
私の心が、キャサリンに侵食される。
助けて。
私の心がキャサリンの心に潰される。
唇が自然と笑みを描く。
頬が紅潮する。
私は確かに今、幸福を感じている。
明日には、こんな気持ちも忘れてしまうのに。
幸せだと思ったことさえ、思い出すことができなくなるのに。
嫌だ、やめて。
幸せだなんて、思いたくない。
「ステファニー、神に背いた罰を、受ける時がきたのです」
目が覚めて、昨日よりも一昨日よりもずっとずっと重く感じる体を引きずって洗面台で顔を洗っていれば、廊下の奥から怒号が響いた。
慌てて部屋を飛び出すと、縄に繋がれた修道院長が引きずられるようにして言った。
「ステファニー、罰を受けるときがきたようです」
そして、はらはらと涙を零しながら、神殿騎士の足元で祈りの言葉を吐いている。
「今更神に救いを求めるとは、どこまでも愚かな奴だ」
神殿騎士が冷たい言葉で修道院長を足蹴にした。
無様に転がる小さな背は抵抗することもできない。
偉大な母は、いつの間にかただの老人になっていた。
子供たちの部屋が離れた場所で良かった。
どくどくと早鐘を打つ心臓を押さえながら誰も気づいていないことにほっと息を付く。
あの高貴な男は、私が望めば修道院長を更迭するような物言いをしたけれど、初めから見逃すつもりなどなかったのだろう。
神殿騎士が書面を掲げて何事かを滔々と読み上げている。
歌声のようだ。
終幕を告げる歌声だ。
難しい言葉で回りくどくその罪の名を次々と明示していく。
聞き取れたのは、横領罪というその言葉。
幾人かの貴族がこの修道院に多額の寄付をしていたようだが、そのお金のほとんどが修道院長とその関係者の懐に流れていたようだ。
詳しくはよく分からなかった。
けれど、すぐさま神殿騎士の足がこちらに向いた。
修道院の膿を出すという名目のもと出てきた私の罪については、知らぬ存ぜぬを通すことなどできない。
神殿騎士に容赦なく腕をひねり上げられ、右肩が嫌な音をたてた。
悲鳴を漏らさなかったのは、下の子たちが自室で眠っているからだ。
明日のパンはまだ残っていただろうか。
街で配る為の花を摘みに行くのは私の役目だったけれど、誰か代わりを果たしてくれるだろうか。
ベッドの下に少しなら蓄えがある。あれを使えば、数週間は食べられる。
誰か見つけてうまく隠してくれるだろうか。
一番下の子は、まだ言葉さえうまく話せない。
母親を恋しがって泣くあの子に添い寝するのは私の役目だった。
誰が、私の代わりを勤めるのだろうか。
いや、違う。
私の代わりなんていくらでも居るのだ。
ただ私が、その立場にすがり付いていただけで。
私なしでは生きてはいけないだろうと、そう信じ込んでいただけで。
「このままじゃ君、死罪だけどどうする?」
牢獄の冷たい石畳に寝転んでいると、目前に、蜂蜜色の目をした男がいた。
暗闇で、その双眸が妖しい光を放っている。
しゃがみこんだ男が私の顔を覗き込むので、鉄格子越しに見つめあう。
なぜ、こんな場所に。
そんな私の疑問を読み取った彼が事も無げに「つてがあるんだよ」と笑う。
「神殿は神を裏切った君を許さないよ。もちろんあの修道院長も」
格子の隙間から伸びてきた大きな手が私の頭を撫でる。
「もっとも修道院長を助ける義理なんてないから、彼女の死罪は決定さ。
君は、どうだろうね。僕に助けを求めるなら助けてあげることもやぶさかではないけれど」
ふわふわと、相変わらず真意の読めない顔をしている。
声音もそうだ。どこか楽しげでそれでいて低く地を這うような声をしている。
「決められないなら僕が決めてあげても良いよ」
ねえ、これ。この手紙、読んでみなよ。
そう言って格子の隙間から紙切れが一枚差し出される。
ようやっと起き上がってその紙を見れば、美しい文字でたった一文だけ刻まれていた。
『助けて、ステファニー』
見覚えのある字。
かつて、私の元に頻繁に届いていた彼女からの手紙を思い出す。
「キャサリンが、首を吊ったよ。ちなみにそれは遺言ね」
何の感慨もなくさらりと告げられた言葉に思わず鉄格子に縋りついた。
勢い余って肩からぶつかり、格子がガシャン、と大きな音をたてる。
「大丈夫、生きてるから。
・・いや、大丈夫とは言い難いのかな。意識不明だからね」
「な、んで・・!」
「そう、何でだろうね。不思議なことだよ。
だって彼女、幼馴染と婚約したばかりだって言うじゃないか」
「そう、そうだわ、だってキャサリンは、結婚するって嬉しそうに、」
「あれ、君知ってたんだ」
会ってなかったんでしょ?不思議だな、何で知ってるの。
男が、うーんと唸りながら自分の胸元に手を差し込み、そこから鍵を取り出した。
「出して欲しいなら、出してあげるよ」とにこにこ笑っている。
「クライドが、君のことを捜していたよ。キャサリンのことを知らせる為にね。
でも修道院に行っても君の姿がないし、噂では修道院長が捕縛されたというし、街中を探し回っていたみたいだよ。まさか君が牢獄に居るとは思いも寄らなかったみたいだね」
「ああ、君のことは単なる行方不明ということになってるよ。僕がそうしたんだ」
私の疑問を正確に読み取った男がそう言いながら、右手で頑丈そうな鍵を弄んでいる。
「それで、どうする?ここから出たい?」
出たい、その言葉を口にするのにどれほどの時間を有したのか分からない。
もう、全て終わりにするつもりだった。
いつかこうなるだろうことはとっくに覚悟していたことだったから。
だけど、キャサリンのことは、キャサリンのことだけは予想していたわけじゃない。
「どうして私を助けようとするの?」
ガチャリを回された開錠の音を聞きながら男に聞く。
優雅な仕草で中に入るこの男ほど、牢獄が似合わない人間はいないだろう。
少し間を置いて「面白そうだから」答えたその男は、ニヤニヤと笑いながら当たり前のように私の体を担いだ。
「君は何か隠し事をしているでしょう?代償はそれで良いよ」
「代償、」
「そう。誰かに何かをやってもらうときには必ず代償を支払うものなのさ。例えばお金とか宝石とか、感謝の気持ちとか?」
ふふふと笑う男の体が微かに振動する。
「だけど、僕はそんなものが欲しくて君を助けるわけじゃないんだ。ただ、君の秘密を知りたいだけ」
それだけだよ、と笑うその目がほの暗く光る。
「思ったよりもずっと、僕は君のことが気に入ってるみたいだ」
他人の秘密を暴きたいと思ったのは初めてではないけれど、ここまでするほど欲したのは初めてだよ。と私を抱える腕に力が入る。
牢屋から出された私はそのまま馬車に乗せられ、どこか知らないお屋敷に連れて行かれた。
「ここ?僕の別邸」聞いてもいないのに意気揚々と男は金色の目を細めた。
煌煌と明かりの灯った室内で彼の目を間近に見れば、その目が純粋な金色ではなく、緑色に金箔を塗したような不思議な色をしていることに気づく。
染み一つない真っ白なシーツが波打つベッドに下ろされて、その正面に椅子を持ってきた男が私と顔を合わせるようにして腰掛けた。
「それで、話してくれるよね」
命令することに慣れた口調だと思った。
優しげだけど有無を言わせない強引さを持っている。
男は、私が話し出すまでただひたすらに待っていた。
全てを暴くような深い色をした目が、いつものような揶揄するような眼差しをどこかに置き去りにして真摯に私を見つめていた。
*
*
「キャシーはある朝起きたら、別人になっていたんだ」
クライドはぽつりと言った。
「いや、確かに顔も姿かたちもキャシーだった。それは間違いない。
だけど彼女は『生きていくのが辛い』そう言ったんだ」
そんなのはキャサリンじゃない、とクライドは痩せたキャサリンの手を掴む。
たった数日だというのに、キャサリンはすっかり痩せ衰えていた。
首には痛々しいほどの痣がある。
その太い縄状の痣は、彼女が本気で死のうとしていたことを証明している。
「暗い場所に閉じ込められているみたいだって言って、ベッドから起き上がるのが憂鬱だって言った。
本当に辛そうで、時々、何で私だけって泣くんだ。もう嫌だって」
夜中に首を括ったキャサリンを見つけたのはクライドだった。
様子のおかしい彼女を心配してキャサリンの隣室に泊り込んでいたのだ。
物音に気づいてキャサリンの部屋に飛び込んだそとのき、体を支えていた椅子を蹴り飛ばしたキャサリンの姿を見つけた。
後数秒でも遅かったなら、キャサリンは助からなかっただろう。
けれど、今のこの状態が、キャサリンにとって「助かった」と言える状態なのかは分からない。
一命を取り留めたキャサリンは確かに目覚めたけれど、自我を失っていたのだ。
キャサリンの、視線の定まらないぼんやりとした目線がクライドを素通りする。
あんなにも想い合って目線を交わしていた二人なのに、今は、目が合うことさえない。
「彼女の嘆く理由が分からなくて、何がそんなに嫌なのかって聞いたら、分からないって言うし、でも何もかもが嫌なんだって言うんだ、」
クライドの声が涙で潰れる。
私は、まるで自分の話を聞いているような心地で、キャサリンの顔を見つめていた。
暗い場所に閉じ込められていたのは私だ。
ベッドから起き上がるのが憂鬱だったのも、何で私だけ、と思ったのも全部全部、私だ。
キャサリンではない。キャサリンは決して、暗い場所になど立っていなかった。
「キャサリンを、パン屋さんで見かけたの。結婚が決まったって言ってたわ。幸せだって、言ってたの」
あのときの、内側に光が灯るような全身が真綿に包まれるような感覚は、確かに「幸福」だ。
私がこれまでの人生で得られなかった感情を、確かにキャサリンから受け取った。
だけど、私はあのとき、そんな幸福感に包まれながら、心の底で世界を呪っていた。
翌日に元の自分へ戻ってしまうことは分かっていた。
前回もそうだったから。
そしてそれがどれほどに私自身を追い落とすかも、よく分かっていた。
崖のてっぺんから突き落とされるのと、まさしく同じ感覚だった。
それが分かっていながら、どうして与えられた幸福を享受できようか。
自分自身が得たわけではない幸福を、キャサリンからおこぼれのように分け与えられた幸福を、望みもしないのに与えられて。
いずれはキャサリン本人に返さなければならない幸福に、自分という存在が飲み込まれていく感覚はただの恐怖でしかなかった。
「どうしてキャシーはこんなことしたのかな。キャシーは僕と一緒になりたくなかったのかな」
とうとう泣き出してしまったクライドの丸まった背中に手を添えようとして、止めた。
私のせいだ。
私の悪感情をキャサリンが受け取ってしまったのだ。
私がキャサリンの幸福感を受け取ってしまったように。
「キャサリンは貴方のことが好きなのよ、昔も今も、それは変わらないわ」
『気分が悪い』と言って私の手に縋ったキャサリンの姿を思い出す。
あの子はきっと、初めて経験したのだ。自分の内側に渦巻く憎悪を。怒りを、悲しみを。
普通であれば段階を踏んで得るはずの感情を、一時に与えれれば正気ではいられない。
彼女の身には、まさしく「不幸」が訪れたのだ。
それはきっと、生きる気力さえ奪うほどのものだったのだろう。
それは、私がずっと胸の底に抱えていた感情だった。
誰にも知られることなく、身の内で育ててきた感情だった。
『なるほど。君たちはお互いの感情に共鳴するのか』
あの高貴な男に私とキャサリンのことを話したとき、きっと信じないだろうと思ったのに、あっけないほど簡単に受け入れた。
『それで君は、キャサリンが首を括ったのは自分のせいだと思っているわけだね』
本当に難儀だねぇ、と世間話でもするかのように肯いた男は心底楽しげに笑いながら解決策を提案してきた。
『それじゃぁ君がすることは一つだけだね。
死ぬ気で、幸福を掴めば良い。
心の中を幸福でいっぱいにすれば良い。
憎悪なんて入り込む隙間もないくらいに』
大きな手が私の手を握った。
『簡単なことじゃないよ。
だけど、それができなきゃキャサリンは一生このままだよ』
君が幸福でいっぱいになったとき、運良く、また共鳴したならキャサリンは目覚めるかもしれないね。
彼女の心をいっぱいにしている憎悪が払拭されるのを願うしかないよ。
―――――その言葉が呪いのように私の胸に焼きつく。
*
*
一年経っても、キャサリンはまだ目を覚まさない。
クライドは聖なる書を胸に抱えて教会に通い続けている。
「キャサリン、どうして、目を覚ましてくれないの」
その指に触れても何の反応もない。
視線は相変わらず宙を彷徨ったままだ。
私は修道院に帰ることなく、あの高貴な男の別邸に留まっている。
彼は相変わらず楽しそうにあらゆることに首を突っ込んでいるようだ。
修道院に残っていた子供たちは皆どこかへ引き取られていって、今あそこに住んでいる人間はいない。
ふと、窓の外に視線を走らせれば、蜂蜜色の目をした彼の姿が見えた。
何が楽しいのかにこにこと笑っている。
私を迎えに来たのだろう。
「私、多分、幸せよ」
そう呟いてみても、キャサリンは眉の一つも動かさない。
まだ、だ。
まだ足りないのだ。
そんな思いが焦燥を誘う。
死ぬ気で幸せになれと言った彼に、どうやってなれば良いのか分からないと言えば、
「じゃぁ君は僕に頼めば良いんだよ」と笑った。
幸せにしてって。その言葉をくれるだけで僕は君に幸せをあげるよと。
子供のように無邪気な顔で、カードゲームでもするような愉快さで、私に言う。
『それでもどうしても幸せになれないなら、キャサリンのことはあきらめるしかないよね』
『ああ、そうか。キャサリンだけじゃないね。クライドだって、もう二度とこちら側には戻ってこれないだろうね』
あきらめることなど、できるはずもない。
だから私はあの日を思い出そうと試る。
キャサリンが幸せだと笑っていたあの日を。
あの指先まで満ちていくような幸福感を。
だけど、どうして。
思い出すことができない。
私の幸福には、悲しみと痛みが付きまとう。
死ぬ気で幸福を掴めと言った彼の言葉は単なる比喩ではなかった。
幸せだと思う。それと同時に、どうしようもなく苦しい。
「キャサリン、早く起きて。
私に貴女の幸福を教えてよ」
世界中が光に満ちたあの瞬間を思い出させて。