第112話「残っているもの」
朝は、いつも通り。
「おはようございます」
ミナが扉を開ける。
「おはよう」
サクラギ先生が答える。
変わらない診察室。
でも、その日の最初の患者は少し不思議だった。
「この子、ここに来ると落ち着くんです」
飼い主が言う。
抱えられているのは、小さな三毛猫。
少し警戒心が強そうで、普段はよく隠れるらしい。
「家だと、ずっと落ち着かなくて」
でも――
診察室に入った瞬間。
猫は、すっと力を抜く。
(……ここ、いい)
診察台の上で、くるりと丸くなる。
まるで、ずっとここにいたみたいに。
ミナが不思議そうに見る。
「初めてですよね?」
「はい、今日が初めてです」
「なのに……」
「うん」
サクラギ先生は静かに頷く。
「この子じゃなくて、“場所”の方を知ってる」
「場所を?」
ミナが首をかしげる。
猫は目を細める。
(……しってるにおい)
「誰の?」
少し間。
(……いろいろ)
曖昧な答え。
でも、確かに何かを辿っている。
サクラギ先生がゆっくり診察室を見回す。
「ここ、いろんな動物が来てるからね」
「その分、少しだけ残る」
「残るって……匂いですか?」
「匂いだけじゃない」
「安心した記憶とか」
「落ち着いた時間とか」
ミナが小さく息をつく。
「積み重なってるんですね」
「うん」
猫は完全にリラックスしている。
喉を鳴らす。
(……ここ、だいじょうぶ)
飼い主が少し驚く。
「こんな顔、初めて見ました」
「家だとずっと警戒してて」
サクラギ先生が猫を見る。
「この子、敏感だね」
「場所の記憶を拾いやすい」
「じゃあ……」
「家でも作れる」
飼い主の方を見る。
「同じように」
「どうやって?」
「安心した時間を、少しずつ重ねる」
ミナが続ける。
「無理に慣れさせるんじゃなくて」
「落ち着けた瞬間を増やしていく感じです」
飼い主がゆっくり頷く。
「できるかな……」
「大丈夫」
サクラギ先生が言う。
「もう、この子は知ってるから」
猫は目を閉じる。
(……つくれる)
短い確信。
診察が終わる。
帰り際。
猫は少しだけ名残惜しそうに診察台を見る。
(……またくる)
「いつでもどうぞ」
ミナが笑う。
午後。
いつもの診察が続く。
ここには、
たくさんの動物が来て、
たくさんの時間が流れて、
たくさんの“安心”が残っている。
目には見えないけど、
確かに積み重なっている。
夕方。
最後の患者を見送る。
扉が閉まる。
静寂。
ミナがそっと言う。
「この部屋、すごい場所ですね」
「うん」
「なんか……優しい感じします」
「そうだね」
サクラギ先生は診察台に手を置く。
「みんながそうしてきたから」
特別なものではない。
積み重なっただけ。
でも、それが形になっている。
窓の外は夕焼け。
今日もまた、
ひとつ分の時間が、この場所に残る。
この診察室は、
来るたびに少しずつ優しくなる場所だった。
静かに、
積み重なる一日が終わった。




