第110話「影の歩き方」
朝は、いつも通り。
「おはようございます」
ミナが扉を開ける。
「おはよう」
サクラギ先生が答える。
変わらない診察室。
その日の患者は、一匹の黒猫だった。
「この子、最近ちょっと変で」
飼い主が言う。
「歩き方が変なんです」
黒猫は静かに床に降りる。
すっと歩く。
見た目は普通。
でも――
影が、少し遅れてついてくる。
ミナが目を細める。
「……あれ?」
「うん」
サクラギ先生はすでに見ている。
猫は気にしていない様子。
(……ちょっとだけ、ずれる)
「自覚あるんだね」
(……ある)
影が、わずかに遅れて止まる。
「何かきっかけは?」
飼い主に聞く。
「特に……あ、でも」
「この前、古い倉庫に入って」
「そこから帰ってきてからかも」
「なるほど」
サクラギ先生は頷く。
「たぶん、どこかで“引っかけた”」
「引っかけた?」
「影を」
ミナが少しだけ笑う。
「それ、戻せるんですか?」
「戻るよ」
黒猫はあくびをする。
(……べつにいいけど)
「気持ち悪くない?」
(……ちょっと)
正直な答え。
「じゃあ、直そうか」
サクラギ先生は猫の横にしゃがむ。
影を見る。
本体との“ずれ”を確かめる。
「ほんの少しだけ、遅れてるね」
「時間が合ってない感じですか?」
「そんなところ」
窓からの光を少し調整する。
カーテンを動かす。
影の角度が変わる。
「こっち向いて」
猫が向きを変える。
影が、わずかに引っ張られる。
「今」
サクラギ先生が、床に手をつく。
影の端に触れるように。
「ここで合わせる」
ほんの一瞬。
違和感が、すっと揃う。
猫が一歩歩く。
影が、ぴたりとついてくる。
もう遅れない。
(……あ)
少しだけ目を見開く。
もう一歩。
やっぱり同じ。
(……もどった)
「うん」
サクラギ先生が頷く。
ミナがほっとする。
「ちゃんと影になりましたね」
「もともと影だけどね」
少しだけ笑う。
飼い主も安心した様子。
「ありがとうございます」
黒猫は、くるりと一回転する。
影も、きれいについてくる。
(……こっちのがいい)
「そうだね」
帰り際。
猫は自然に歩いていく。
影と一緒に。
もうズレはない。
午後。
いつもの診察が続く。
現実の中に、
少しだけ混ざる違和感。
大きくはない。
でも、確かにある。
それを、静かに整える。
夕方。
最後の患者を見送る。
扉が閉まる。
静寂。
ミナが床を見る。
「影って、ずれることあるんですね」
「うん」
「たまにね」
「私もずれたりしますか?」
「どうだろう」
少し考えて、
「気づかないくらいなら、たぶん大丈夫」
ミナが笑う。
「それ怖いですね」
サクラギ先生も少しだけ笑う。
窓の外は夕焼け。
光がある限り、
影もそこにある。
ときどき少しだけズレるけど、
ちゃんと戻る場所がある。
この診察室は、
そんな“見えにくいズレ”も整える場所だった。
静かに、
少し不思議な一日が終わった。




