約束
「ことさん、こんばんは」
「よぉ、旭。みこと、な」
俺が旭と会ったのは、実家近くの神社で夏祭りがある晩だった。
昼間の熱が、夜気に滲んでいるようで、まだまだ暑い。怠かった。
俺は屈んで、目の前にいる幼い旭と目線を合わせる。旭と直に会うのは、旭が生まれた直後、病院で会って以来だった。
折りに触れ、写真を見せられてはいたが、他人の子は成長が早い。
旭は俺の見た目に怯えているのか、緊張しているようにも見える。無理も無い。
「でかくなったな。浴衣、似合うじゃん」
「えへへ」
深緑地に朝顔柄の浴衣を着た旭は、頭に狐面を付けていた。天鵞絨色で耳を隠すほどの長さがある髪、透き通るように白い肌、静かに笑っている姿は、女の子みたいだった。
母親である妹の雅によく似た顔なのに、雰囲気は父親の彦斗似で、何となく調子が狂う。
今は、盾護家と御剣家とで、一緒に神社までやって来たところだ。
旭は静かながら、はしゃいでいるようだった。子どもらしく、ホッとする。
旭は、立ち上がった俺を見上げて問いかけてきた。
「ことさんも、お祭りいっしょにいきますか?」
「行くよ。旭に好きなもん買ってやる。何が良い?」
パッと旭の目が輝く。
思わず笑ったところで、雅が俺たちの元へやって来た。
「良かったわね、旭。ことさんに、たくさん買ってもらいなさい」
にこにこと笑って旭の頭を撫でる雅に、俺は呆れた。
「そんなには、面倒見れないぞ」
「あら、顔に『楽しい』って書いてあるわよ」
「あのな……」
後ろで結った髪ごと頭を掻きながら、雅を見る。腰元で、何か引っ張られる感覚に目を向ければ、旭が俺の服の裾を掴んでいた。雅は、更に笑う。
「ほら。旭も懐いてるし」
「……マジかよ。仕方ねぇな」
俺は息をついて、旭を抱える。軽い。
俺と目線が近くなり、旭の濡羽色の瞳が、提灯の灯りに照らされているのが見えた。人形みたいだな、と思ったが、俺を掴む手は温かい。
「じゃあ、行くか。旭」
「はい」
旭は始終、大人しく慎重だった。
俺の幼少時なんか、隙あらばちょこまかしていたというのに。
たこ焼きや焼きそばなんかはよく食べ、美味しいと頬張る様子は子どもそのもので、何故か安心する。
動くなよ、手を繋げよ、という言いつけもよく守った。出来過ぎだろ、大丈夫か。
遊び回る内に、慣れない下駄で旭は足を痛めた。休ませる為、池のほとりのベンチに向かう。
池には、蛍が数多飛んでいる。それに。
「ことさん。キラキラしてるの、何ですか?」
「何だろうな、分からん」
旭が言う通り、蛍の他に何か金色に光るモノも、数多浮遊している。何だこれ。
見ている間に、光は旭の周りに集まる。
「わ、」
俺は、旭を抱えた。
光は俺たちの周りに集まるが、何をするでもなく、飛び交っている。微かに楽しげな笑い声も聞こえた。周囲を見回しても、俺たち以外誰も居ない。旭は俺にしがみつきながらも、綺麗、と連呼した。
確かに得体は知れないが、幻想的な光景であることには違いない。悪意も感じなかった。
ただただ、そういうもんなんだろう。
旭は手を伸ばして、光を掴もうとした。
「触るな。痛いもんかもしれねぇぞ」
俺の言葉に、旭は手をぴたりと止める。
残念そうな顔が、多少胸に来た。
「何で触りたいんだ?」
「きれいだから、ことさんにあげたいです。僕のと同じになりますよ」
旭は、買ってやった光る腕輪を見せて来る。
……なるほどねぇ。
「あ、そ。気持ちだけありがたく受け取るよ。さんきゅ」
雑に頭を撫でると、旭はふにゃりと笑う。
暗闇に、蛍と、訳分からん金色の光が、いつまでも飛び交っている。
濡羽色の幼い目が金色の光を受けて輝くのを、俺はしばらく見入っていた。
雅たちと合流し、俺は子守りから解放される。
旭はマジで手が掛からないから、子守りしたという感覚でもないが。
雅に足の手当てをしてもらい、旭の機嫌も直ったようだ。そのまま、両親と再び人混みに紛れて行った。
俺は、煙草を吸いにその場を離れる。
人気のない場所で一服しつつ、縁日の方をぼんやり眺めていた。
それからいくらもしない内に、親父が来た。
雰囲気が妙で、煙草を始末する。
「どうした?」
親父は、俺を見、境内の闇を見据えながら言った。
「旭が居なくなった」
「は?」
それからは、捜索が始まった。
旭が居なくなったのは、ほんの一瞬、両親の手が離れた間だったらしい。
この祭りで迷子放送的なもんがあるのかは知らないが、そのへんは雅たちに任せ、俺は縁日の人波に潜る。
さっき旭と回った縁日を、もう一度回った。だが、旭は居ない。
掻き分けても掻き分けても人、人、人。面倒くせぇな。
「ことさん!」
「旭?」
不意に聞こえた声の方を向く。
縁日から外れ、本殿に続く道の脇。その暗闇の前に、旭が立っている。俺は走った。
「旭!」
旭の側まで来て、気付いた。旭は、真っ白な手に片手と片足を掴まれている。
「ことさん、」
必死にこちらへ手を伸ばす旭を抱き寄せ、白い手を振りほどく。やつらは、闇の中へ引っ込んだ。俺にしがみつく旭の背を撫でる。
「怪我は?痛いとこないか」
「ない……」
ひとしきり旭の頭と背を撫でてやり、俺はようやくこの場の異常さに気付く。
人が居ないどころか、音が無い。連なる提灯の灯りだけが、朧に俺たちを照らしている。
「どっか入り込んだか……」
面倒くせぇな。どうやって戻るか。
俺から離れた旭は、泣いてはいなかった。目に涙は溜めてたけど。泣き叫べば良いのに。
「泣いて叫んでいいんだぜ?そういう気持ちになったら」
旭は、こくんと頷いた。
瞬間。
やけに楽しげな声が、響いた。
「おお、よく連れて来てくれたね、坊。こんなに美味そうなご馳走を」
その声を聞いた瞬間、身体から力が抜けて、膝をつく。何だ?
旭は何ともないのか、振り向いて、俺と一緒に声の方を見た。ひゅっ、と息を呑む音がする。
俺たちの前に立っていたのは、艶やかな花柄の着物を着た、背の高い男だった。
長く美しい黒髪が、風に靡いている。
綺麗な顔が、俺と旭を見て笑みを浮かべていた。
声を出そうとして、出ないことに気付く。喉を締め付けられているような。身体も動かない。冷や汗が噴き出る。
こいつ、人間じゃない。
「ごちそう……?」
尋ねる旭に、男は優しく頷いた。
旭を、こいつと会話させたらまずい。なのに。
(旭っ!)
叫んだ名は、口から音にならない。
男はゆっくりと旭に近付き、旭の頬に触れる。
「そうさ。可愛い坊。後ろの男は、とても美味そうだ。食べたいから、我におくれ。そうしたら、坊のことは無事に帰してやろう」
後ろ姿でも、旭が震えているのがよく分かった。
こいつ、勝手なことばかり言いやがって……!
身体が熱くなるのに、動けない。
旭が俺の方を向いて、腕を掴む。
「ことさん、ことさんやだ……」
旭の泣きそうな声に、身体中が痛むような気になった。
男は、静かに笑う。
「その男は動けないぞ。声も出せぬ。ご馳走に、傷がついたらいけないからな」
旭はハッとしたように、俺の目を見る。
濡羽色が時を止め、俺はその目に吸い込まれそうになった。
旭は、俺と男を見比べる。何もするな。俺をやると言え。旭が動けるなら、恐らくは本当に帰すつもりなのかもしれない。分からんが。
旭は、震えていた手をパッと広げて、俺の前に立つ。まるで、盾みたいに。
そのまま、息を吸い込んで、叫んだ。
「ことさんは、どこにいっても、僕といっしょに帰ります!あげません」
は、と声が出ないまま言葉が漏れる。
男も目を丸くしていたが、やがて愉快そうに大笑いした。
「我に誓約するか。その心意気や良し。面白いな」
男は、旭へすっと手を伸ばす。
「ならば、坊が、そう出来るようにしてやろう。我に立ち向った勇気に免じて。その男、守れるかな」
(やめろっ!)
叫んだはずなのに、喉が苦しいだけで声にならない。
男が旭に手を翳すと、旭の身体が浮かび上がり、青白く光った。
だが、それは一瞬で、旭は再び地面に立っている。旭。
男は残念そうに息を吐き出す。
「坊も、ご馳走に化けるやもしれんな。仕方ない。今宵は見逃すか。貰えぬのは残念だが、面白い晩だった。これからが楽しみだ」
男は楽しげに笑うと、闇に滲むように消えた。
耳鳴りと共に、身体が地面に倒れ込む。
手をついて、元に戻ったことに気付いた。
「旭!」
叫ぶと、目の前の旭は振り向く。
「ことさん……?」
瞬きした旭を、掻き抱いた。小さな身体は、冷え切っている。怪我はしていない。
「ことさん、食べられない……?」
「ああ」
「僕も……?」
「ああ。旭のおかげだ。……ありがとう」
耳元で言うと、旭はぎゅっとしがみついてきた。
同時に、こんな声量出せたのかよ、というくらいの泣き声を上げる。
わんわん泣く旭を抱え、立ち上がった。
あの男は居なくなったが、まだ帰り道は分からない。
「帰る……ことさんと帰る……」
泣き声の合間に旭が呟いた途端、提灯の灯りが赤い欄干の橋を浮かび上がらせる。
「マジかよ……」
渡れば良いんだろうな。
俺は片手で後ろ頭を掻きながら、橋を渡った。
旭と二人、無事に帰った次の日。
旭は高熱を出した。それから何日も寝込んだ末、夏祭りの夜のことも俺のことも、綺麗さっぱり忘れてしまったのだ。
「それ、旭には話してねぇのか?」
BAR KOTO。
店内には、店主の弥命とその友人であるヤリハルしかいない。
何のきっかけか、ヤリハルに旭と初めて会った時の話をせがまれた弥命は、昔話を始めたのだ。
「話してねぇよ。……まだ。旭は、親父が亡くなった晩に初めて俺と会ったって、今でも思ってる。忘れてるなら、それに越したことねぇだろ。今のところ」
ヤリハルの問いに、弥命は怠そうに息をつきながら答える。
「この話するのも、身内以外はお前が初めてだよ」
「まだ、ってことは、話す気はあんのか?」
弥命は、ヤリハルを見て顔をしかめた。
「忘れたままで済むなら、それが一番良いが。本当に必要なら話すさ。あいつ、旭にも興味を示してた。旭と会った後、旭の住んでたアパートが不審火で燃えたんだよ。ただの偶然だろうが、タイミングがな……。あいつがもし動いてるなら、俺も遅れ取れねぇだろ」
ヤリハルは、しかめっ面の弥命を見て、目を丸くする。
「あんな大事故物件に居候させてる理由、旭を守るためかよ。逆効果じゃねぇか?勝算あんの?」
「大事故言うな。……勝算なんか、あるわけねぇだろ。俺はただの人間だぞ。それでも」
弥命は、遠くを睨む。
「俺の盾になった旭を、俺が分からないところで失いたくないだけだ」
「……それ、旭に言ってやれよ」
呆れた顔をするヤリハルを、弥命はじろりと睨んだが、自嘲気味に笑った。
「そんな機会があればな」
ヤリハルはグラスの酒を煽り、また尋ねる。
「でもよ、旭は約束した記憶失ってんだろ?それでも、まだ効力あんのか?」
弥命は、複雑な表情で頷いた。
「ある。そもそもその『どこにいっても、僕と一緒に帰る』って『約束』自体が、結果的に俺たちを守ってる。この『約束』があると、他のヤツは俺たちに、おいそれと約束や契約をふっかけられねぇみたいだからな」
腕を組み、ヤリハルは唸る。
「ははあ。ややこしいな」
「だから、話すのだりーんだよ。先の『約束』の効力が強いのか何なのか……理屈は分からん」
息をつく弥命を、ヤリハルはじっと見つめる。
「何でこの話したんだ?親父さんが亡くなった晩の話で、茶濁すことも出来ただろ」
弥命の目が、途端に凶悪になった。
「そもそも、お前が振ったんだろうが」
睨む弥命の目に若干の威勢の無さを見ながら、ヤリハルは頷く。
「そうだけどよ。俺を、何かあった時の伝言役にでもしたら、ただじゃおかねぇからな」
「何の話だか」
弥命は小さく笑った。
ヤリハルは、店内をぐるりと見回してから、弥命を見た。
「なあ。……この店の名前って、もしかして」
口元に人差し指を立て、弥命は苦笑いを浮かべる。
「それ以上は、お前でも許さねぇ」
「……弥命って、本当難義だよなー」
「うるせぇよ」
弥命が睨みながら言えば、ヤリハルは楽しげに笑い出した。




