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白い幼女は涙を袖口でそっと拭うと、気丈にも笑顔を見せる努力をする。
『ご挨拶もせず、申し訳ありません。遅くなりましたが、私はラプラスと呼ばれるものです』
セシルとダフネにラプラスは座ったまま深々と頭を下げた。あまりの健気さに胸が締め付けられる。
こんな暗く狭い場所にひとり閉じ込められていては、ラプラスでなくても精神を病んでしまうだろうとダフネは思う。こともあろうか、逃げられないように鎖で足を繋がれている。賢王と呼ばれていた彼女の主は、どうしてこんなことをしたのだろう。
ラプラスを捕らえているに鉄枷にダフネが触れると、巨大な氷にひびが入るような音を立て砕け散った。一体何で作られていたのだろうと疑問に思うが、とてもではないがラプラスの状態を考えると質問することはできなかった。
「動けるか?」
ランスロットの問いかけで、ラプラスは床に両手をついて立ち上がろうとするができない。
悲しげな表情になった彼女を、ひょいと抱き上げたのはセシルだった。ランスロットはケガを治癒したばかりなので当然の流れだったのだが、ダフネは少しほっとしてしまう。それから己の心の狭さに落ち込んだ。
「百面相、何をしている。行くぞ」
剣を華麗に操る大きな手がダフネの頭の上でポンと弾んだ。
『報い……ですね』
セシルに抱えられたラプラスは、切ない瞳でダフネたちに語りかける。
『未来を見る力を己のために使ってしまったから……。穢れと共に、力まで失って……』
本当のことは知らないままの方が幸せかもしれない。おそらくラプラスは、外の世界で起こっていたことに気づいていない。
『私を連れ出して、どうなさるのですか?』
「どうもしない。こんな暗い場所にひとりでいては気が滅入るから出した。それだけだ」
ランスロットもダフネと似たようなことを考えていたらしい。セシルもうんうんと頷いている。
『でしたら……ゴットフリートの元にお連れいただけますか?最後の挨拶をしたいのです』
「最後の挨拶って……。ひとりで動けないのにどこで暮らすつもりなの?」
ダフネはつい詰問するような調子になってしまい、しまったと口元を手で覆う。ラプラスは寂しそうに微笑んだ。
『故郷に帰ろうと思います。私はただあるだけの存在ですから動けなくても問題ありません。ですが……ランスロット。森に私を連れて行っていただけますか?』
「……承知した」
城内の明るい場所へ出ると、すれ違う人びとの視線が突き刺さる。謹慎中の近衛とその相棒が、白い幼女と見たことのない娘を連れて歩いているのだから無理もない。
ダフネは戸惑ったが、ランスロットとセシルは堂々としたものだった。胸を張って迷いなく国王の寝所へ向かう。
警備の兵士や侍女、執事に止められたが、彼らは振り切って歩み続けた。その迫力に気圧され、通り道ができる。
「ゴットフリート、いるか!?」
ランスロットが躊躇うことなく、勢い良く扉を開く。
部屋の中はしんと静まり返っていた。人避けされたようで本当に誰もいない。
無用心にずかずか上がり込むランスロットとセシルを見て、ダフネは若干不安になる。何か罠がないとも限らない。
だがそれは杞憂に終わった。広い部屋の隅に置かれた豪華で座り心地の良さそうな椅子に腰掛けて項垂れている人影がある。
長い手足と亜麻色の髪の青年がいた。
「……ランスロットか。セシルも」
顔を上げた国王は自嘲するような笑みを浮かべていた。しかしセシルに抱えられたラプラスに気づくと目を見開く。
「ラプラス……」
白い娘は怯えているのか、セシルの服の胸の辺りを握りしめた。だが赤い瞳は真っ直ぐに番であるゴットフリートを見ている。
「お前たちの顔をきちんと見たのは、いつ以来だろうな……」
「俺たちのことはどうでもいい。お前を信じて国を維持してくれていた宰相や大臣たち……なによりこの国の民に感謝しろ」
『ゴットフリート……』
「どうした?ラプラス」
憔悴した顔で微笑んだゴットフリートは、ラプラスの大好きな彼だった。
『ごめんなさい、ごめんなさい……!』
彼のすみれ色の瞳は、ラプラスの故郷にたくさん咲いている花の色を思わせた。ゴットフリートが幼かった頃、ふたりで遊んだ秘密の森。
あのときのままの、純粋な気持ちでいられなかった。
そのせいで呼び込んだ穢れが、番である彼をも蝕み国王としての名声を貶めた。敏いラプラスはランスロットの言葉でそれに気づいた。
「ラプラス……」
『ごめんなさい、ゴットフリート……。私のせいで』
「そなたの罪など何もない。全ては私の心の弱さだ」
セシルの腕の中にいるラプラスにゴットフリートは手を伸ばすが、彼女は白金の髪の魔導師から離れようとしない。
『お別れを伝えにきました。私は力を失い、もうあなたの役に立つことができません。番であることはどちらかが死ぬまで断つことが叶わないので、せめてあなたの邪魔にならぬよう森に帰ります』
近くにいれば、またふたりで堕ちていくことを望んでしまう。ラプラス自身は気づいていないが、無意識にわかっているのだろう。
ゴットフリートは立ち上がったが、澄んだ赤い双眸を前に足が一歩たりとも進まなかった。
『……さよなら』
頭の中に響いた女の子の声には強い決意が感じられた。
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ラプラスの故郷は、王宮の裏の森から彼女しか開くことのできない空間の扉を通って行くことができた。ゴットフリートは運命の相手だったため、自然に通過したらしい。
湖の畔の小屋には、古ぼけたベッドがあった。セシルがラプラスをその上に寝かせる。
『ワガママばかり言ってごめんなさい。ダフネ、そこにある石をひとつ、あなた持っていてもらいたいです」
ベッド脇のサイドボードの上に、カサンドラと共に消えたのと同じ石が数個、無造作に置かれていた。ダフネは言われた通りに1番手近なものをひとつ手に取る。淡い光が灯った。
『あなたの手は本当に素敵ですね』
誉められてダフネの頬は緩んでしまう。それから照れて、頭を掻いた。ダフネ自身は厭わしく思っていた力が、誰かの役に立つ。
『ときどき話し相手になっていただけると嬉しいです』
もしかしたら、ダフネが力を送り続けていればラプラスの足は動くようになるかもしれない。そう思いながら頷いた。
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「ひとつ相談なのだが」
王宮の森に3人で戻るなり、青い目の近衛が切り出した。
「ラプラスの言っていたダフネの『ふたつの未来』はまだどちらが選ばれたかわからないだろう?」
「そう言えば……」
セシルは顎に手を当てて考えるような仕草をする。
「ダフネさえ良ければ、俺のところへ来ないか?」
碧眼が柔らかく甘やかに細められる。ダフネの胸は高鳴った。
「その美しい力があのような男によって失われるなど、あってはならない。もちろん、ご両親にも承諾を得てからということになるが、ダフネが侍女としてここに残ってくれれば、俺はあのアップルパイがいつでも食べられ……」
言い終わらないうちに、セシルが呆れた顔でランスロットの口を手で塞ぐ。ちょっとでも期待した自分がバカだったと考えてから、期待って何だとダフネはセルフツッコミを入れた。