月に憑かれたピエロ
いまだかつてこれほど緊張する帰宅風景が存在しただろうか。いや、ない。
「……」
学園からの帰り道。太陽が赤く燃え上がりながら山の向こうに沈む中、ヒメは宣言通りに一緒に帰宅しているクランドをチラと見た。
「……?」
ヒメの視線に気付きクランドは不思議そうな顔をしたが、すぐに微笑みを浮かべる。
(……誰これ?)
クランドは普段笑わない。不機嫌そうというか不貞腐れているというか、目が半分死んでいるのがデフォルトなのだ。
確かにヒメ相手ならばたまに笑う。笑うが、今みたいな無防備な表情は見たことがない。
故にヒメは長い前髪の下で、百面相をしながら大混乱していた。
(何で? まだ私が落ち込んでると思って安心させようとしてるのかな? ……それっぽい)
そして見事に推理を外しながらも、一人勝手に納得した。
しかしそれも仕方ない。
ヒメの見た目は野暮ったいし、雰囲気も湿気っているというかじめじめしている。
目元を隠すほど長い前髪は、見ようによっては不気味ですらあるし、小柄な体は凹凸に乏しくお世辞にもスタイルが良いとは言えない。
自分のような女子を好きになるのは、どうしようもない変人にして変態の社会不適合者に違いないという、ある意味救いがない確信を持ってしまっているのだ。
「白山は寄り道とかしない?」
「……しない」
たまにクランドから質問がくるのだが、緊張のせいか一言しか返せない。
しかし緊張のせいというのは気のせいだろう。普段だって、一言くらいしか返答できていないのだから。
「あの……家もうすぐだから……ここまでで」
あといくらか歩けば自宅という公園近くに来たところで、ヒメはクランドに言った。
「大丈夫? 住宅街も結構暗くなってるぞ」
「大丈夫……です」
心配そうなクランド。その様子に罪悪感を覚えながら、しかしヒメはクランドを拒絶せざるを得なかった。
(……家を……お父さんを見られたくない)
クランドに自分の家族を見られたくない。自分の本質を見られたくない。
この人に軽蔑され、嫌われたくない。
だからヒメは、名残惜しそうなクランド相手に珍しく強く出て、街灯に照らされた公園を横切って家に帰り始めた。
「……」
どうやら諦めてくれたらしく、後を追ってこないクランドにほっとする。
しかし安堵はすぐに自己嫌悪へと変わった。
あんなに心配してくれたのに、ヒメは自身の都合ばかり考えてクランドを拒絶した。
クランドの優しさを踏みにじった。そう認識すると、ヒメは悲しくて悔しくて惨めで、暗い感情にまみれて泣きそうになる。
(……明日謝ろう)
何とか前向きに考えて、ヒメは歩き出す。
それでも、この時ヒメの心はぐちゃぐちゃだった。
後悔と自己嫌悪でいっぱいで、周りを気にする余裕など無かった。
だから気付けなかった。
自分の背後に音もなく近付く影があることにも、その影が腕を振り上げたことにも。
振り上げられた手に、街灯の光を反射して輝く刃が握られていたことにも。
・
・
・
「動くなあっ!」
「!?」
暗い公園に咆哮を思わせる警告が響き渡った。
突然のそれに、ヒメはビクと体を震わせて硬直し、ヒメの背後に居た「彼女」は予想外の事態に慌てて周囲を見渡した。
「武器を捨てろおっ!」
声の主は、先ほどヒメと別れたはずのクランドだった。
いつも冷静な彼らしさはなく、必死に走る姿は滑稽ですらあった。
だかそれ故に、クランドには躊躇いがなかった。
「っ……邪魔すんな!」
「彼女」がヒメに危害を与える暇も与えず一気に踏み込み、突き出されたナイフを左腕で弾くようにして反らし――
「ぅらあっ!!」
「ごふっ!?」
――飛び込んだ勢いそのままに頭突きを見舞わせた。
「……ぇ?」
目の前の光景に、ヒメは唖然とするしか無かった。
いつの間にか背後に人が居て、気づかないうちに殺されかけたが、クラスメートが突然現れ殺人未遂犯に頭突きをかました。
展開が早すぎて飲み込めない。自分は何故殺されかけたのか、それすら分からない。
「いつ……!?」
「あ、逃げ!?」
「いい白山」
襲撃犯が逃げ、ヒメはしばしアワアワと惑っていたが、クランドに言われて少し落ち着きを取り戻す。
そして何とか状況を飲み込むと、慌ててクランドに駆け寄った。
何せクランドは、ナイフを持った相手に素手で立ち向かったのだ。怪我をしてないかとヒメが不安に思うのも仕方ない。
幸い大事は無いようだが、さすがに頭突きは自分も痛かったのか、頭を押さえて蹲っている。
そもそも何故あそこで頭突きなのか。
「いや、殴ったら指を痛めるだろう」
「……あ」
疑問を察したらしいクランドが答え、ヒメも納得する。
「白山は怪我はないか?」
「あっ……え……と、無いです」
「ああ……大丈夫ならいい。すまない、あれだけ挑発したから来るかもしれないとは思ってたが、白山の方に来る可能性は低いと油断していた。
……本当に性格悪いなあの女」
「……あの女?」
話が飲み込めず、しかし何だか思い当たるような気がして、ヒメは改めてさきほどの襲撃犯を思い出す。
「さっきの……三科……さん?」
「ああ。計画狂わされた腹いせに、俺を殺しに来るんじゃないかと思って警戒してたんだが……」
襲われるのは自分で、ヒメが襲われる可能性は低いとクランドは思っていたらしい。
その低い可能性が実現してしまったため、クランドはあれほど慌ててヒメを救いに来たのだろう。
「じゃあ……あの事件の犯人は……やっぱり?」
「三科……なんだろうな。後がないと今更気付いて自棄になったか。手袋はしていたから、考える頭は残ってるみたいだが」
言いながら、クランドは犯人が落としていったらしいナイフをハンカチ越しにつまみ上げる。
「何にせよ、のんきに待つには相手がヤバいな」
虎の威を借るのは嫌なんだが。そんな事を漏らしながら携帯を取り出すクランド。
ヒメはクランドの言動からして、また何かやらかすんだろうなと思った。しかし自分にはどうしようもないので、赤くなったクランドのおでこを眺めつつ傍観することにした。
・次回解説編です