悲愴
昼休みの後、驚異的な速度で広まった噂によって、ヒメが犯人であるという認識は学園の生徒からは徐々に薄れていった。
そして代わりにというべきか、クランドの推理とヒメを庇ったことがあっという間に広がり、挙句の果てには「二人は付き合っている」という、噂に尾びれどころか突然変異を起こして翼を生やす勢いで間違った情報が広がっていた。
クランドは「ベートーベンの亡霊」として、学園全体に名前が知れ渡ったばかりである。
そんなクランドがあんな目立つマネをしたのだから、噂の拡散速度が相対性理論を超越し、さらに合体事故を起こしたのはある意味仕方が無かったのかもしれない。
ヒメはクランドのことが好きである。しかしそれは所謂憧れや崇拝に近いものだ。
恋愛感情が無いとは言わないが、恋人などといわれると恐れ多いというレベルの認識であり、噂が教室に届いたときはあまりのことにフリーズしてしまっていた。
もっともクランドはいつも通りに「気にするな」で済ませてくれたので、気持ちは幾分か楽になった。それでも恥ずかしさやらいたたまれなさは消えなかったのだが。
「……」
放課後の音楽準備室。珍しくクランドの方から誘われてお邪魔したヒメは、クランドが何も言わず弾きだしたピアノの音色に耳を傾けていた。
ゆっくりとした音色は、それまでクランドが聞かせてくれたどの曲よりも穏やかで優しい旋律となって辺りを包んでいた。
昨日から色々とあり、精神的に疲れきっていたヒメであったが、その音律に身を預けていると安らぎを覚え、力がみなぎるような気すらしてくる。
今までクランドが好んで弾いていた、ベートーベンの苦悩と覚悟、反抗にみちたそれとは違い、ただひたすらに暖かい。そんな音色だった。
きっと疲弊したヒメのために、クランドも珍し頼んでもいないのにベートーベン以外の曲を弾いてくれたのだろう。そうヒメが言うと、クランドは何度か瞬きした後、僅かに笑いながら言った。
「確かに白山の精神安定になればと思ったけど、今のもベートーベンの曲だ」
「え?」
思わず声が出たのは、先ほどの曲がヒメの思うベートーベンの印象とかけ離れていたから。
呆気にとられるヒメを見て、クランドは微かだった笑みを深くすると、どこか楽しげに説明してくれた。
「ピアノソナタ第八番『悲愴』 その第二楽章だ」
「悲愴……」
なんとも似合わない題名だとヒメは思った。
あの暖かく優しい音色から「悲愴」などという言葉は思いつけない。「安堵」だの「希望」だのという名前の方が、いくらかしっくりきそうだと思う。
「まあ『悲愴』は適切な日本語訳が無かったとも言われてる。それでも、ベートーベン自身が付けた名前だから何らかの意味はあるんだろう。悲しみの中の希望……そんなものじゃないかと俺は解釈してる」
なるほど、とヒメは思った。
何というべきか、クランドはただベートーベンが好きというわけではなく、彼の人生のありかたそのものに敬意を持っているように見える。
ベートーベンの音楽を深く理解するために、ベートーベンそのものまで理解しようとしている。いわばベートーベンマニアだ。
そんなクランドの解釈なのだから、きっとそれはベートーベンの本質に近いのだろう。そうヒメは勝手な信頼の上で納得した。
「よく母さんが弾いてくれた曲でな。白山が気に入ってなら良かった」
「……お母さんが?」
ピアノが弾けるお母さん。ヒメがそれを聞いただけで家庭的で優しい人だったんだろうなと思ってしまったのは、ある意味偏見かもしれない
しかし母の思い出を語るクランドの様子からして、良いお母さんであったのは間違いないだろう。
「深海さんは……ピアノお母さんから?」
「ああ。五歳くらいからだったかな」
「……早いね」
ヒメが五歳のときといえば何をしていただろうか。
少なくとも習い事などはしていなかっただろう。何せ義務教育すら始まっていないのだから。
しかしクランドは、ヒメの言葉をあっさり否定した。
「別に早くは無いぞ。むしろぎりぎりか」
「……え?」
「音感やら何やらみたいな感覚的な才能は、六歳ごろまでの経験で決まると言われている。それを過ぎてから音楽を始めても、例えば音感は絶対的な基準を覚えられずに相対的にしか判断できなくなるとか。
絶対音感とか聞いたことあるだろう。ああいうのは子供のころから音楽に触れてないと、遺伝や才能だけで得られる資質じゃ無い」
絶対音感についてはヒメも聞いたことがある。音楽に携わる者ならば垂涎の才覚だが、同時に厄介な力だとも。
算盤の熟練者が脳内で算盤を弾いて計算ができるように、絶対音感の持ち主は聞いた音を即座に脳内で楽譜にできてしまう。そしてそれはほぼ無意識に行ってしまうものだ。
故に日常生活では邪魔ですらある。何せ聞こえてくる音が全て脳内で楽譜に自動変換されるのだ。鬱陶しいだけならまだしも、神経質な人間ならばストレスすら感じるらしい。
「別に俺はそういうことは無い。楽譜も意識しないと出てこない」
どうやら全ての人がそうと言うわけではないらしい。
「さて、そろそろ暗くなってきたし、送っていく」
「……え?」
いきなり言われた言葉の意味が分からず、ヒメはこてんと首をかしげる。
そんなヒメにクランドは苦笑を向けると、言い聞かせるように言葉をつむぎだす。
「あんなことがあったばかりだろ。それに白山が犯人だという噂を本気にして、馬鹿な行動に出るやつがいないとも限らない」
「あ……で……でも」
ここでクランドがヒメと一緒に帰ったりなどしたら、もう一つの噂……「二人は付き合っている」が事実だと誤解されてしまうのでは。
「迷惑ならやめる。白山は俺と一緒に帰るのは嫌か?」
そんな聞かれ方をされたら、ヒメに断るのは不可能だ。
「お……お願いします」
「お願いされた」
どこか楽しげに言うクランドに、ヒメは自分の頬が赤くなってないかと心配になった。




