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きららさくさく番外編。‐ 少年の悩みと蝉の抜け殻 ‐

甚平長屋に暮らす大工の棟梁又八一家の長男新介は、家の前で転がり遊ぶ弟二人のはしゃぎ声を頭の端で聞きながら、だいぶくたびれた教本を捲り文字を目で追っていた。

この手垢の付いた教本は毎日飽きるほど読み込んでいるので目で見ずとも諳んじられる。其れを知った両親は将来は医者だ学者だと騒いでいるけれど、高い授業料を出して行っているのだ当たり前の事だろう。元は取らなければ。

我が家は貧しくは無いけれど俺の下に兄弟が三人もいるんだ。金の余裕は無いはずだ。


自分は勉学が好きだ。文書を読んだり書き認めたりの作業は向いていると思う。

でも、手跡指南所なんて町外れのもっと安い寺子屋で良かったんだ。何もあんな侍の息子ばかりが通う受講料の高い指南所じゃなくても学問は出来る。


父ちゃん、母ちゃんに期待されているのは嬉しい。

嬉しいけれど、どうやって答えれば良いのか分からない。だって俺は大工の息子だ。おまけに長男。長男は家を継ぐものだろう ? 例え家を継がなくても好いと言われても、あの手跡指南所で教えられるような事を活かせる仕事が思いつかない。


親からの漠然とした期待。

どうにもならない現実。


―――ー向いているとは思えない大工になるべきか、それとも自分にあった仕事を探すべきか。

後ろから追われる様な切迫感と型に嵌められる様な閉塞感。

・・・・・・・・・・・息が詰まる。

最近一人になるとそんな事ばかり考えていて溜め息ばかりが先に立つ。


「ぎぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーっっ ! ! ! 」


耳を劈く黄色い悲鳴に驚いて、口から出そうになっていた重い溜め息も引っ込んだ。


「なっ、 ! 」


長屋の薄い壁を通り越し、隣から物凄い悲鳴。思わず腰を上げた。



「ムカデ ! ムカデ ! ムカデェェェェ ! いるぅぅぅぅぅ ! ! 」


――――・・・・なんだ、隣のお十和か・・・・・


悲鳴の主を知って上げ掛けた腰を下ろす。

隣のお十和の奇行は今に始まった事じゃない。慌て、心配すると馬鹿を見る。


耳を澄ますと低く聞き取りずらい男の声が、「それはゲジだ。ムカデじゃねぇ」と言っている。どうやらムカデとゲジゲシを間違えているらしい。

田舎から出て来た癖にムカデとゲジゲジの区別も付かないなんて、やっぱりおかしな人だ。


お十和は黙っていれば新介が知っている女子(おなご)の中で一番美人だ。

指南所の学友達が綺麗だと騒いでいるお茶汲み女よりずっと美しい。

でも、口を開けば・・・・・・・


「ゲジ ! ? 何それっ ! 足が多いだけでやっぱりムカデじゃんっ ! うわっ ! きもっ ! って、こっち来たっ ! ぎゃゃゃゃゃーーっ ! 」


・・・・・・・・・・・これだ。

淑やかさの欠片も無い。


それからドタバタ床を踏み鳴らす足音が聞こえた後、普一に向かって「ゲジは足を取ったらムカデになるのか」なんて下らない質問をしていた。


「はぁ・・ 」

馬鹿馬鹿しさに脱力する。強張っていた肩の力が一気に抜けた。


あの人の歳は、確か二十歳。自分はあんな子供みたいな二十歳の女は見たことが無い。


――――最初はあんな人だとは思わなかったよな


この長屋に初めて十和が来た日を思い出す。

あの日は梅雨の長雨で朝から小雨がしとしと降っていた。その中を無表情な普一に背負われ運び込まれた所を偶然見たのだが、その時の十和は病院で着せられたらしい白い着物といい、青白い顔といい、はっきり言って限りなく死人に見えた。

それがあれよあれよと言う内に元気になり、今では近所の子供を集めて変な踊りを教えては何かの宗教かと長屋の主の甚平に目を付けられたり。井戸端の大木にふざけて登っては降りられなくなっていたり。(発見した普一に、反省しろと木の上に半日放置されたすえ本気で大泣きしていた)

今や、青白く美しい顔の病人は我が家の子鬼達より何をするか分からない危険人物に育ちつつあった。


「あんな大人も居るんだな・・」


呟きと共にまた教本を捲り始めると何時の間にか隣の声が止んでいた。

しんとした室内。聞こえるのは遠くで遊ぶ子供の声と虫の鳴き声だけだ。

中々人の居なくなる事の無い長屋では静寂は貴重だ。

これは好機と、集中力がいる漢学の予習でもしておこうかと筆を持ち立ち上がると、そこに弟二人が暖簾を跳ね除け駆け込んできた。


「なぁ兄ちゃん。これから筋違橋の向こうの森まで蝉採りに行って来る ! 」

「行って来る ! 」

「何言ってんだよ、子供だけで山の方へは言っちゃ駄目だって言われているだろ。今日は母ちゃんが居ないんだから静かにーーー」

「大丈夫 ! 私がいるから ! 」


戸口に引っ掛けた暖簾の隙間から十和が頭を出していた。


「な ? お十和がいるし良いよな」

「お十和は大人」


「絶対駄目だ ! 」


やっと静かになったと思ったら今度は、こう来たか・・・・・・・・。

ニノ助、三ノ助、とどめにお十和。

実に危ない組み合わせ。


「今日は家に居て母ちゃんが帰って来るのをって、おいっ ! お前らっ、待てよっ ! 」

「あ ! 待ってよ ! 」


言い終わる前に弟二人が駆け出し、その後をお十和が追いかけて行く。

俺の制止なんて聞きゃしない。

でもこのまま放って置くとろくな事はしないだろう。それに母ちゃんが恐い。

教本を手に取り、渋々と三人を追い掛けるために外に出た。



向かった先は神田の中心から少し離れた森の中。

夏の日差しが遮られるからかとても涼しい。ここに居れば汗を掻かずに居られそうだ。

新介は大きな木の根に座り持って来た本を読みながら周りの音を聞いていた。


虫を追いかける弟二人のはしゃぎ声。


延々と続きそうな蝉の声。


森の中に響く名も知らない鳥の尾を引く鳴き声。


そして女のうめき声。


――――うめき声 ?

不振な声に目線を上げると近くの木に十和が、ぶら下がっていた。


「あんた、何を遣っているんですか」

「うっ・・、蝉の抜け殻をね・・・探しているんだ・・・・」

「蝉じゃなくて抜け殻 ? 」

「そう。あれって薬になるらしいんだ。売れるかもしれないじゃん ? だから集めようと思って ! 」


「よっと」と木から飛び降り、でも何故か顔面から着地。それでも彼女は蔓延の笑み。

「いたた。あははは」と笑っている。


「お十和さん、あんた本当に大人ですよね」

「えぇー何それ。大人だよ ? 見れば分かるでしょ ? 」


いや、全然分からないから聞いているんだっっ ! ――と、声を大にして叫びたかったが、自分くらいは大人でいなくちゃと、何とか堪えた。

その間も十和はじっとしていず、藪の中へ四つん這いで潜り込んでいる。新介から見ると尻しか見えない。


「あ ! 抜け殻発見 ! めさめさいっぱいある ! 」


がっさがっさと藪を揺らし抜け殻を集める十和。もう籠の中は琥珀色の蝉でいっぱいだ。

思わずウジャウジャしている物から目を逸らす。

気持ち悪い・・・・・。男の自分でもそう思うのにこの女は平気なんだろうか。


「そんなもの集めてまで銭が欲しいんですか ? 何か欲しいものがあっても普一さんが買ってくれるでしょう ? あの人、銭はそこそこ持っていると思いますよ 」


普一はアレで結構な人気の飾り職人だ。品の発注が女髪結いや小間物やから引っ切り無しにあり、時には予約待ちになるらしい。

大体、表長屋に住んでいるくらいだ、ある程度の収入はあるはずだ。


「お願いしてまで欲しい物なんて無いよ。そうじゃなくて、この先何があるか分かんないじゃない ? その時使えればいいなって。それに余裕があれば出来る事の幅も色々と広がるしね」

「だから普一さんが持っているなら良いじゃないですか」

「それは普一さんが稼いだお金であって私のじゃないよ。私が使っていいものじゃないの」


十和が此方を見ずに、藪の中に身体半分入ったまま答えた。蝉の抜け殻を摘まむ音だろうか、シャリ、シャリという音も聞こえる。(いったいどれだけ有るんだ・・蝉の抜け殻)


新介は十和の答えが正直以外だった。もっとちゃらんぽらんな女だと思っていたのだ。

それこそ「欲しい物はお願いして買ってもらうの~ あはは」くらいは言うのではと。

なのに帰って来た返答がまともだったから少し驚いた。


――――ちょっとこの人を馬鹿にしすぎていたみたいだ。何だかんだ言っても大人の人なんだな。


「・・・・・・お十和さんは、仕事の事で何か悩んだ事ってありますか」

「あるある。ありまくるよ。うーん、定職に就くか就かないかって時が一番悩んだな。結局止めといたけど」

「女だから ? 」

「うぅん。私の居た所では、女だからとか男だからとかは職に就く事にはあんまり関係無いよ。・・・何かね、恐かったの」

「恐い ? 何が ? 」

「だって定職に就くとさ責任とか重い物が付いて来るでしょう ? それが恐いって言うか、窮屈って言うか・・・・だから止めたの。仕事の内容も向いてないと思ったしね。それからはずっとバイト・・じゃない、えーと、人の手伝い ? ばっかりだよ」

「・・・・・・・・・」


何だか、「駄目だよね私。こんなんだから子供っぽいって言われるんだよね。」と笑う十和が凄く身近に感じてきた。

彼女の感じていた悩みが自分のそれと少し被るのだ。

この、お十和だって悩んだんだ。もしかすると手跡指南所の学友達も同じ様な事を悩んだり感じたりしているのかも知れない。


『自分だけじゃない』


そう思っただけで現金だが、少しだけ視野が広がった。その広がった分だけ余裕が生まれる。

学友達と、ちょっと話しでもしてみようかなという気にもなってくる。

ちょっと、ほんのちょっとだが十和のお陰で楽になった気がした。


新介は、まだ四つん這いでガサガサやっている十和の後ろで肩の力を抜き目を閉じて深呼吸をした。

強い日差しに炙られた緑の濃い匂いが胸いっぱいに広がり、木漏れ日が閉じた瞼を優しく撫でた。

これから始まる厳しい夏本番の気配が直ぐそこに来ている。その夏を思うと独りでに顔に笑みが浮かんだ。


「兄ちゃんのスケベッーー ! 」

「すけべー」


清々しい風が吹き抜ける森の中を、我が家の子鬼達の小うるさい声が切り裂いた。

それも思いも寄らない内容で。


「兄ちゃん、お十和の尻見てにやけてる ! 」

「ずっと見てたーー ! 」

「なっなにをっ ! そんなわけあるかっ ! って、何あんたも本気にしてるんだよ ! ! 」


何時の間にか藪から出てきていた十和が、赤い顔でしゃがみ込みモジモジしている。


「普一に言ってやろう~。兄ちゃんがお十和の尻に触ってにやけてたって~」

「言ってやろーー ! 」

「馬鹿っ ! お前らは兄ちゃんを殺す気かっ ! だいたい俺が何時そんな物を触ったって言うんだよっ ! 」

「ちょっとまて ! そんな物ってなんだよ ! ? 」


けたたましい笑い声を上げ、逃げる弟二人を怒鳴りながら追いかける。その後ろを十和が文句を言い言いついて来た。

これから暫らく鬼ごっこが始まるようだ。


「ここまでおいでー! 」


森の入り口で芝を刈っていた翁が、それを見て笑った。

翁の目には子供四人が仲良くじゃれ遊んでいる様に見えたのだ。


今の悩みも先の不安も今は一時、夏の日差しに預けて白い御天等様の下に駆け出した。




* * *


その後。


「何だこれ」

目の前に置かれた尾頭付きの鯛や手の込んだ煮物。そして清酒。

正月だってお目にかかれないご馳走だ。

「祝いだ。祝い ! 今日はおめぇが男になった日だかんなぁ ! 」

「はぁ ? ! 」

「まだまだ子供だと思っていたが、大人になんのは速ぇなぁ・・・。父ちゃんは父ちゃんは嬉しいぞっっーーー ! 母ちゃん酒っ ! 」

「はいはい」


いったいこの親父は何を言っているのだ ? 男になったなんて言っているが俺は最初から男だぞ ?

全然状況が飲み込めない。

その時、背中に視線を感じて振り向くと弟二人が襖の端から顔を出して「にやっ」と笑った。

――――この子鬼どもめ・・・・・・・・






















今回は番外編です。次期としては十和が働きに出始めた頃でしょうか。

本編にはあんまり関係ないです。だいぶ前に名前だけ出て来た隣の家の長男の話です。本編のエピソードを削った関係で出番がなくなってしまったので番外で出してみました。はい。

それにしても今回、長い長い。蟻さんの行列に見えました。老眼でしょうか ? いいえ。疲れ目です。

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