1話 美しい白い悪魔の手
暗い廊下には緑色の照明がぼんやりと灯っている。もう何千年も、いや何万年も使われることのなかった非常事態用の照明が灯ったのだ。その明かりは弱弱しく、廊下に満ちている恐ろしい暗闇に対しては、頼りない。長い年月が機材を劣化させたのだ。この施設が戦争のため、いかに堅牢に作られていたとしても、何万年もの歳月は想定外だった。
当時の使用者たちの姿は、今となってはどこにもない。
だがこの廊下を進む人影がある。
金属製の廊下の壁に、勢いよく血まみれのこぶしが叩きつけられた。少女はその握りこぶしに額をつける。息は荒い。彼女が息を吐くたびに、彼女の背が大きく動いた。目は焦燥から、大きく見開かれている。口も息苦しさから開かれている。
少女は脚を一歩前に出そうとした。ゆるゆると足が一歩前に進められる。その太ももを、背中から滴った血がなめるように垂れてゆく。
少女は農民の貧しいドレスを着ていたが、背中が大きく開いている。そこに、背を割く酷い切り傷があった。ぼんやりとした緑色の照明の中で、その傷は開いていて、断面は赤黒い。黒々とした血が、そこから垂れている。
少女は背から血を流しながら、壁を手で触りながら、再び歩き始めた。ゆっくりはしていられないのだ。身体が、気が狂いそうになるほど痛む。それでも歩き始めた。
少女はこんな明かりを見たことがなかった。緑色の照明など、知らなかった。廊下の左右の天上際に、緑色の細い“明るいところ”が走っている。
少女は胸が苦しい。背中が痛い。もうずっとこの痛みを無視して走り続けたが、限界だった。もう一度壁に寄り掛かる。すると、背中の傷が痛む。少女は歯をかみしめ、苦悶に顔を歪めた。口を引き締めながら、声にならない声で叫ぶ。
少女は背後を肩越しに振り返る。廊下の先、さっき自分が通ってきた曲がり角がある。その奥から足音が、恐ろしい者たちのいきり立つ声が聞こえてくる。それらは少女の背の傷の元凶である。
少女は痛む身体を振るい起こして、壁から肩を離し、廊下を先に進む。
だが廊下をさらに進むと暗闇の先に行き止まりが見えた。廊下の奥は土砂でつぶれている。天井や壁の厚い金属の残骸が、土に混じっていた。一方で少し向こうに扉が見えた。少女は扉を目指す。それは両方に扉があった。右側の扉はひしゃげていて、下部が廊下側に折れた形になっている。
少女は扉の壊れた方の下部を両手で掴んで、ひっぱろうとした。当然扉は厚く固いし、少女は背の傷が痛んで悶絶した。地面に力なく転げまわり、血糊で身体を赤くしながら、ほとんど気絶するように伏した。意識が茫然とする。
――あいつらが来る……。
その恐怖心だけが、少女の意識を、茫然ながらもまだあらせていた。
少女は地面に這いずりながら、右扉がひしゃげることで開いていた空間に身体を滑り込ませた。
背後から男たちの足音が聞こえたような気がした。
扉下の空間を、なんとか少女は通り抜けることができた。
少女は極度の疲労感を感じながら膝を立て、意識は茫然としながら、見たこともないような部屋を歩いた。部屋は暗い。廊下と同じく緑色の照明が灯っているが、あたりは判然としない。部屋にはたくさんの、少女の知らないものがおいてある。部屋の中央は開けていて、台座があって、そこから筒が天井まで伸びていた。中は見えない。
少女はわけもわからず、部屋の端側に走っていた腰程度の高さの物に、体を支えるために腕を立てようとした。その時、手が何かを押した。押されたそれが物の中に沈みんでゆく感覚が手の内でした。
それは研究室の作業用コンソールだった。研究室の壁際にいっぱいに並べられたそれの一つに、少女は手を置いてボタンを押した。それを切っ掛けに研究室は最低限の機能だけの再起動を果たした。施設が敵の衛星爆撃を受けて、施設の上にあった山脈ごと地面に沈められてから五万年が経過していた。実際のところ、少女はどのボタンを押してもよかったのだ――。
少女はいよいよ力尽きて地面に倒れていた。
「お前、よくここへ邪魔ものを連れてきたわね」
冷たい女の声だった。
少女は眼を開けようとした。目の前、上の方で、明かりがともっていた。緑の色ではない。台座の上に鉄の箱があって、それが光っている。箱の中に、黒い薔薇の髪飾りを付けた、人形のような少女がいて、こっちを見ていた。
倒れ伏した少女は眼に涙を浮かべた。誰でもよかった。不思議な光景だが、それもどうでもよかった。
彼女の背後、廊下から男たちの声が聞こえた。扉を壊そうとしているようだ。その音が部屋の中にうるさく響き始めた。
箱の中の少女は、美しい黒いドレスを着ていた。彼女のひだ飾りはとても上品で、美しい。
美しい少女の眼は黒々としていて、辺りを覆う闇よりも一層暗く、純粋な色だった。その大きい丸い目が、冷然と少女を見下ろしていた。彼女は口の端を心なしか上げて、上品に笑んだ。




