第六章 王都クロンシュタット
ブランデルから王都クロンシュタットまでは、馬車で五日の道のりだった。
街道は整備されており、途中にいくつかの町を経由する。セリアの馬車には王都の紋章がついているため、関所もスムーズに通過できた。
道中、セリアは柏木に綻びに関する知識を惜しみなく共有してくれた。
「三十年前、最初の綻びが確認されたのは、大陸の中央にあるエルデンの古戦場です。かつて大きな戦争があった場所で、魔力の残留濃度が高い地域でした。最初は小さな亀裂でしたが、放置しているうちに拡大し、周辺の土地が瘴気に侵されました」
「それ以来、各地で綻びが?」
「はい。現在確認されている綻びは、大陸全体で百を超えます。大半は小規模ですが、中には町を一つ飲み込むほどの大規模なものもあります。毎年新たな綻びが発生し、既存の綻びは少しずつ拡大している。このままでは——」
セリアは言葉を切った。
「このままでは、どうなるんですか」
「百年以内に、大陸の三分の一が瘴気に覆われると試算されています。人が住める土地は大幅に減り、文明そのものが存亡の危機に陥る。それが、現在の学院の予測です」
百年。長いようで、文明のスケールで考えれば一瞬だ。元の世界でも、環境問題について似たような話を聞いたことがある。問題が目に見える形で顕在化したときには、もう手遅れになっている。工場の設備だってそうだった。異音に気づいた時には、内部で致命的な損傷が進んでいる。だからこそ、予防保全が重要だった。
「だからこそ、あなたの修繕術は希望なのです」
セリアの目が真剣だった。
「世界で唯一、綻びを縮小させた力。それがどこまで伸びるか——それを調べることが、私の、いえ、世界の最優先事項です」
旅の途中、二泊目の宿場町で、柏木は一つの修繕を行った。
宿屋の隅に、壊れたオルゴールが置かれていた。蓋は外れ、内部の歯車が錆びつき、もう音が出なくなっている。宿の主人に訊くと、亡くなった奥方の形見だという。
「もう十年も前に壊れちまってね。直す金もなくて、そのままにしてあるんだ」
柏木は黙ってオルゴールを手に取り、修繕した。
金色の光が包み、錆びた歯車が蘇り、外れた蓋が元に戻る。蓋を開けると、澄んだ音色が宿屋に響いた。小さな金属の櫛が歯車に弾かれ、美しい旋律を奏でる。
宿屋の主人は、音を聞いた瞬間、顔を覆って泣いた。
「この曲……女房が好きだった曲だ……」
柏木は何も言わず、オルゴールを主人に返した。
「ありがとう……ありがとう、修繕師さん……」
翌朝、宿を発つとき、主人は宿代を受け取らなかった。
「金なんかいらねえ。あんたにはもっと大事なものをもらった」
セリアが馬車の中で言った。
「柏木さんの修繕には、不思議な力がありますね。物を直すだけでなく、人の心も——」
「俺はただ、壊れたものを直しただけだ」
「それが、どれだけ人を救うことか——あなた自身はわかっていないのかもしれませんね」
リーナが横から口を出した。
「わかってないんです、この人は。だから私がいるんです」
「なんだそれは」
「リョウイチさんの価値を、リョウイチさんの代わりにわからせる係です」
「そんな係は募集してない」
馬車の中に笑い声が広がった。
旅は順調だった。道中の風景は穏やかで、街道沿いの村々は秋の収穫を控えて活気づいていた。しかし、遠くに目をやれば、空にいくつかの紫色の光点が見える。綻びだ。この大陸のあちこちに、まだ傷口が開いている。
五日目の昼過ぎ、馬車の窓から王都が見えた。
クロンシュタットは、大陸最大の都市だった。高い城壁に囲まれた広大な市街地に、石造りの建物が立ち並んでいる。城壁の内側には運河が巡らされ、水路を使った物流が活発に行われていた。中央には王城の尖塔がそびえ、その東側に王立魔法学院の白い建物群が見える。
ブランデルの何十倍もの規模に、柏木は圧倒された。
「すごいですね……」
隣のリーナも、窓に張りついて目を輝かせていた。
「リーナは王都に来たことはあるのか?」
「いいえ、初めてです。ずっとブランデルで暮らしていたので……。父が若い頃に王都で冒険者をしていたと聞いたことはありますが」
馬車は城門をくぐり、大通りを進んだ。石畳の通りには店が並び、行き交う人々は多種多様だった。人間だけでなく、ドワーフ、エルフ、獣人の姿もある。鎧を着た騎士、ローブを纏った魔法使い、色とりどりの荷物を抱えた商人。
「王立魔法学院の研究棟に向かいます。まずは学院長にご挨拶を」
セリアの先導で、一行は学院の敷地に入った。
白い石造りの建物が整然と並ぶ学院は、静謐な空気に包まれていた。中庭の噴水の周りで学生たちが本を読んでいる。
研究棟は学院の東端にある、やや古びた四階建ての建物だった。ここが綻びの研究の中心地らしい。
三階の学院長室に案内された。
「おお、セリア君。戻ったか。して、そちらが報告書にあった修繕師殿か」
学院長は白髪の老人だった。しかし背筋はしゃんと伸びており、目の光は若々しい。
「ヘルムート・ヴァイス学院長です」
セリアが紹介した。
柏木は頭を下げた。
「柏木遼一です。このたびはお世話になります」
ヘルムート学院長は柏木をじっと見つめた。
「異界人か。久しいな。わしの師の師が、最後の異界人を記録している。二百年前のことだ。その異界人は創造師のクラスで、この世界に多くのものをもたらした。お主は修繕師——壊すのではなく、直す者か。今の世界が最も必要としている力だ」
学院長は窓の外を見た。王都からでも、遠くにいくつかの紫色の光点が見える。大陸のあちこちに存在する綻びの光だ。
「セリア君から聞いておる。お主がブランデルの綻びを縮小させたと。それが事実であれば、三十年来の大問題に光明が差したことになる」
「ただ、今の俺のレベルでは不完全な修繕しかできません。もっとレベルを上げなければ」
「うむ。それについては、セリア君に全面的に協力させる。学院の設備も自由に使ってよい。ただし——」
学院長の表情が引き締まった。
「一つ注意しておく。お主の存在を知れば、さまざまな者が近づいてくるだろう。善意の者ばかりとは限らん。綻びをめぐっては、この国の貴族間でも複雑な利害が絡んでおる」
「利害?」
「綻びの浄化には莫大な利権がある。瘴気に侵された土地を回復できれば、広大な領地が手に入る。お主の力を独占しようとする者、利用しようとする者が必ず現れる。気をつけることだ」
学院長の警告は、柏木の胸に重く響いた。
セリアは柏木とリーナを、研究棟の四階にある客室に案内してくれた。柏木の部屋はブランデルの鍛冶場の二階よりも広く、書斎机とベッドのほかに本棚までついていた。
翌日から、柏木の王都での日々が始まった。
午前中はセリアの研究室で、修繕術の計測実験。柏木がさまざまなものを修繕する過程で放出される魔力パターンを、セリアが専用の器具で記録する。
「通常の魔法は、魔力を外部に放出して効果を発揮します。火の魔法なら、魔力を熱エネルギーに変換して放出する。しかし、あなたの修繕術は違う。魔力が対象の内部に浸透し、対象の構造を再構成している。これは既存の魔法理論では説明できない現象です」
セリアは興奮しながらノートに書き込んだ。
「仮にこのメカニズムを『構造再編魔法』と名付けましょう。この体系は、既存の『効果発現魔法』とは根本的に異なる原理で動いている。もしこの原理を解明できれば——」
「もしかして、他の人にも修繕術を使えるようになる?」
「可能性はあります。少なくとも、理論的基盤が確立されれば、類似のスキルを持つ者が現れる可能性が高まります」
午後はリーナとともに、学院の訓練場でレベル上げに励んだ。
学院には、訓練用のダンジョンが地下に設置されていた。瘴気に侵された物品や、弱い魔物が配置された模擬環境で、実戦さながらの訓練ができる。
柏木は毎日ダンジョンに潜り、瘴気に侵されたものを修繕し続けた。石壁、金属の扉、魔法陣、防護結界——修繕の対象が多様になるほど、経験値の蓄積が加速した。
ダンジョンでの訓練は、戦闘面でも大きな成長をもたらした。
リーナは学院の剣術教官から指導を受け、基礎技術に磨きをかけた。ブランデルでの自己流の戦い方に、体系的な剣術の理論が加わることで、彼女の実力は飛躍的に向上した。
「リーナちゃんは筋がいいねぇ。お父さんの教え方が良かったんだろう」
教官の老剣士がそう褒めると、リーナは嬉しそうに頬を染めた。
柏木自身も、戦闘面で進歩があった。
戦えないことは変わらないが、【鑑定眼】の精度が上がり、戦場全体を俯瞰的に把握できるようになった。魔物の弱点だけでなく、地形の利用法、仲間の疲労度、最適な撤退ルートまで瞬時に判断できる。
「柏木さんの指示があると、戦闘の効率が格段に上がります」
セリアがデータを分析してそう結論づけた。
「修繕師は直接戦闘には参加できませんが、情報支援と装備修繕の面で、パーティの戦力を実質的に倍増させています。これは新しいパーティ編成の形です」
「難しい言い方をするな。要するに、俺は裏方ってことだろう」
「裏方は大事な仕事です。表で戦う人がいて、裏で支える人がいて、初めてパーティは機能します」
王都での生活には、思わぬ発見もあった。
ある日、柏木は学院の図書館で古い文献を読んでいた——正確には、セリアに言われて読まされていた。先史文明の魔法理論に関する解説書だ。
「これ、日本語じゃないのに読めるのか……」
異世界の言語は、転移した時から自然に理解できていた。しかし、文字を読む能力も自然に身についていることに、柏木は今さらながら驚いた。
文献の中に、興味深い記述を見つけた。
「修繕とは、破壊の逆行ではない。修繕とは、対象が本来あるべき姿を見出し、そこに向かって導く行為である。修繕師は、壊れたものの中に眠る『完成の記憶』を読み取り、それを現実に顕現させる者である」
先史文明の魔法理論家が書いた一節だった。
「完成の記憶」——壊れたものが、かつて完全だった時の状態を記憶している。修繕師はそれを読み取り、再現する。
柏木は自分の修繕体験を振り返った。確かに、壊れたものに触れるとき、そのものが「どうあるべきか」が直感的にわかる。短剣を直したとき、水路を修繕したとき、リーナの暁光を蘇らせたとき——いつも、対象の「本来の姿」が見えていた。
「これが、修繕術の本質か」
柏木は本を閉じ、窓の外を見た。
世界の綻びも同じだ。世界には「本来の姿」がある。綻びのない、完全な状態。修繕師は、その記憶を読み取り、世界を本来の姿に戻す。
——俺がこの世界に呼ばれた意味が、少しわかった気がする。
訓練と研究の日々は充実していたが、平穏なだけではなかった。
王都には柏木の評判を聞きつけた人々が次々と訪れた。
武器の修繕を頼みに来る冒険者。農具の修理を依頼する農家。壊れた家宝を直してほしいという貴族。中には、怪しげな依頼もあった。
「柏木殿、我が家の家宝の壺を修繕していただけないか。先祖代々の品でしてな」
ある貴族が持ち込んだ壺を【鑑定眼】で見ると、「家宝」どころか、贋作の安物だった。しかも、わざと割ってから持ち込んでいる。修繕して「品質向上」させた壺を、本物として高値で売りつけるつもりだったのだ。
「すみません、この壺は修繕の対象外です」
「なぜだ!」
「贋作を直しても贋作のままです。俺の修繕は、嘘を本当にする力じゃない」
貴族は顔を真っ赤にして帰っていった。
「かっこよかったです、リョウイチさん」
横で見ていたリーナが目を輝かせた。
「かっこよくはない。当たり前のことを言っただけだ」
しかし、こうした出来事を通じて、柏木は自分の力の使い方について深く考えるようになった。修繕の力は、使い方次第で善にも悪にもなる。壊れた武器を直すことは、それを使って人を傷つける者を助けることにもなりかねない。
「力を持つということは、それをどう使うかの責任も持つということだ」
ヘルムート学院長が、ある日の会話でそう言った。
「お主は正しい心を持っておる。だからこそ、世界がお主を呼んだのだろう」
柏木は学院長の言葉を、胸に刻んだ。
二週間で、レベルは六に。一ヶ月後にはレベル七に到達した。
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レベル7到達
スキル更新:
【修繕術】Lv.6
【鑑定眼】Lv.5
【構造理解】Lv.4
【強化修繕】Lv.3
新スキル獲得:
【領域修繕】Lv.1
一定範囲内の対象を同時に修繕できる
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【領域修繕】——範囲内のものを一度に修繕するスキル。これまで一つずつ修繕していたものを、まとめて修復できるようになった。町のインフラ修繕や、戦場での装備修理に絶大な効果を発揮するスキルだ。
レベル七への到達は、柏木に大きな変化をもたらした。
修繕の感覚が、根本的に変わったのだ。以前は「壊れた部分を元に戻す」という感覚だったものが、今は「対象全体の構造を把握し、最適な状態に導く」という感覚に進化していた。
それは、工場での経験と重なる部分があった。新人の頃の柏木は、壊れた部品を交換するだけだった。しかし十年以上の経験を積むうちに、機械全体の状態を感じ取り、壊れる前に手を打てるようになった。今の修繕術も、同じ段階に来ている。
【領域修繕】のスキルは、その進化を象徴していた。
個別の修繕を超え、空間全体を一つの「対象」として捉え、まとめて修繕する。工場で言えば、一つの機械ではなく、生産ライン全体を管理する視点だ。
セリアとの研究で、もう一つ重要な発見があった。
「柏木さんの修繕術が発動するとき、あなたの意識状態が通常とは異なるパターンを示します」
セリアが計測データを見せながら説明した。
「通常の魔法使いは、魔力を外に放出する際に意識を『対象に向かって拡張』します。しかし、あなたの場合は逆です。意識が対象の内部に『浸透』している。対象と一体化するような意識状態です」
「一体化?」
「はい。修繕中のあなたの脳波——に相当する魔力波は、対象の固有振動数と完全に同期しています。つまり、あなたは修繕中、文字通り対象と一つになっている」
柏木は考え込んだ。確かに、修繕に集中しているとき、対象の状態が手に取るようにわかる感覚がある。まるで自分自身が壊れた剣や水路になったかのように、どこが痛んでいて、どうすれば治るかがわかる。
「それは——共感か」
「共感?」
「壊れたものの痛みがわかるから、直せるんだ。機械も、武器も、空間も——壊れているものには、壊れた理由がある。その理由を理解して、寄り添って、元に戻す。それが修繕なんだと思う」
セリアはペンを止めて、柏木を見つめた。
「……それは、魔法理論ではなく、哲学ですね」
「すまん。理系的な説明が苦手で」
「いいえ。素晴らしい洞察です。『壊れたものへの共感が修繕の本質である』——これは論文に引用させていただきます」
「勝手にしてくれ」
「レベル七。ヴァルデの森の綻びを修繕するのに必要なレベルに到達しましたね」
セリアが記録を確認しながら言った。
「ああ。でも、ブランデルの町の綻びはレベル八が必要だった。まだ足りない」
「焦る必要はありません。あなたのレベル上昇速度は、一般的な魔法使いの三倍です。この調子なら、数週間以内にレベル八に——」
そのとき、研究室の扉がノックされた。
入ってきたのは、見知らぬ男だった。
三十代半ばの、端正な顔立ちをした貴族然とした男。金糸の刺繍が施された上着を着て、指には宝石のついた指輪が光っている。
「失礼。セリア研究員に会いに来たのだが——おや、この方が噂の修繕師殿かな」
セリアの表情が硬くなった。
「ヴィクトル卿。アポイントメントなしのご訪問はお控えいただきたいと、以前にもお伝えしたはずですが」
「堅いことを言うな、セリア。私は学院のパトロンとして、研究の進捗を確認する権利がある」
ヴィクトル・レーヴェン侯爵。セリアの研究資金を提供している有力貴族だ。学院長が警告していた「近づいてくる者」の一人かもしれない。
「柏木遼一殿だね。ブランデルの綻びを縮小させたという話は聞いている。素晴らしい能力だ」
ヴィクトルは柔和な笑みを浮かべたが、その目は冷静に柏木を値踏みしていた。
「実は、私の領地にも綻びがあってね。領民が苦しんでいる。ぜひあなたの力をお借りしたいのだが」
「ヴィクトル卿」とセリアが口を挟んだ。「柏木さんはまだ研究の途中です。個人的な依頼をお受けする段階ではありません」
「もちろん、研究を妨げるつもりはない。だが、実際に綻びを修繕する実地経験は、研究にも役立つだろう? 私の領地の綻びで実験させてもらえれば、お互いに得るものがある」
論理的に聞こえるが、柏木には何か引っかかるものがあった。この男の提案は、善意だけでは説明がつかない。
「検討させてください」
柏木は曖昧に答えた。
ヴィクトルは微笑んだ。
「もちろん。急がせるつもりはない。ただ、私の屋敷にはいつでも歓迎するよ。王都にいる間は何かと不便もあるだろう。困ったことがあれば、何なりと」
ヴィクトルは優雅に一礼して去っていった。
彼が去った後、セリアは深いため息をついた。
「あの人には気をつけてください。ヴィクトル侯爵は表向き綻び研究の支援者ですが、本当の目的は綻びを利用した領地拡大です。瘴気に侵された土地を浄化できれば、広大な土地が手に入る。それを狙っているんです」
「学院長も同じことを言っていた」
「ヴィクトル卿だけではありません。綻びの浄化利権をめぐって、貴族間の争いは激化しています。あなたの存在が広く知れ渡れば、もっと露骨な働きかけが来るでしょう」
柏木は頭を掻いた。政治的な駆け引きは苦手だ。工場では機械と向き合っていれば良かった。人間相手の複雑な利害関係など、考えたくもない。
「俺にできるのは、壊れたものを直すことだけだ。政治のことはわからない」
「だからこそ、私がついています」
セリアがきっぱりと言った。
「研究者としても、あなたの能力が政治的に利用されるのは看過できません。あなたの修繕術は、世界のためのものです。特定の誰かの利益のためのものではない」
その言葉に、柏木は少し安心した。この世界にも、信頼できる人間がいる。




