正夢を越えてきた君
「コーチ?」
十六歳の秋、月曜日の朝。
ここ数日で急に冷たくなった、色なき風がすり抜けるホーム。
学校へ向かう電車を待っていたら、斜め下から声をかけられた。
視線を下ろすと、一年ほど前から僕がコーチをしている少年野球チームの男の子がいた。
たしか、小学五年生だったと思う。
「……あれ。学校は?」
今日は普通の平日だ。
この時間に駅にいる彼を不思議に思って、尋ねる。
「運動会の振替休日〜」
彼はそう言いながら、駅前のコンビニで買ったばかりらしい白い小さなビニール袋から、カラフルな小粒のグミを取り出した。
「コーチの高校って、そういう制服なんだ」
「おー」
「いつもジャージだから、初めて見た」
二年前、中学三年の夏。
肩を壊したことで、県外にある甲子園常連校への推薦の話は白紙になってしまった。
今は、ここ地元の最寄駅から五駅先の公立高校に通っている。
「ねえ……コーチ」
「ん?」
少し神妙な声で切り出されたので、耳を傾ける。
「今日、彼女とデートなんだけどさ。何喋ったらいいと思う?」
「……はっ!? 彼女!?」
(小学五年で彼女!?)
シンプルに驚いてしまった。
「なに。他にも付き合ってるやつ、普通にいるけど?」
「……へえ」
僕の時は、たぶんいなかったと思う。
中学でさえ、ポツリポツリとしかいなかった気がするのに。
「で、何話したらいいかなあ」
色とりどりのグミを次々に口に放り込みながら見上げてくる。
「……俺に聞かれても」
高校生だから的確なアドバイスをもらえると思ったら大間違いだ。
だって僕は、ただ遠くから見つめるだけの、あの『臆病な憧れ』しか知らないんだから。
ふと、改札とホームをつなぐ階段のほうに目をやる。
昨晩、夢を見た。
あそこから彼女が現れて、僕に気づく。
『瀬川くん……だよね? 久しぶりだね』
そう言って、柔らかく微笑みかけてくれる。
――そんな、途方もなく幸せな夢。
彼女の通っているらしい女子校は、一応同じ方面にあるから、このホームを使っているはずだ。
だけど、高校に入ってから一年半、彼女の姿を見かけたことは、一度もない。
「なに? コーチ。ほしいの?」
ぼーっとして彼の手元のグミを見つめてしまっていたようで、黄色の一粒を差し出された。
「……あー、サンキュ」
なんとなく断らずにそのまま受け取って、口に入れた。
色の通り、甘酸っぱいレモン味だった。
「美味いな」
「うん。これ好きで、いつも買っちゃうんだよねー」
お小遣いで買ってるから値下げしてほしい、などとぶつぶつ呟きながらも、その手は止まらない。
やがて、電車がホームに滑り込んできた。
僕が見送る予定の、急行列車だった。
「コーチ、乗らないの?」
「俺、各駅だから」
「ふーん。じゃあバイバイ」
ピョンッと軽い足取りで車両に乗り込んだ彼は、「あ、そうだ」と振り返った。
「コーチ、先生にでもなれば? 教え方うまいって、みんな言ってるよ」
「……えっ」
「じゃ。デート行ってきまーす」
プシュー、とドアが閉まる。
「…………」
なかなか嬉しい言葉を残して、彼は去っていってしまった。
ホームに一人佇む僕の足元には、いつの間にか秋の柔らかな陽だまりが落ちていた。
◇
「祥ちゃん?」
大好きな声で名前を呼ばれ、僕の意識は現在へと引き戻される。
週末の午後、スーパーのお菓子コーナー。
棚に並んだ、あの時のカラフルなグミが目にとまり、懐かしい記憶にトリップしてしまっていたようだ。
「……あ、ごめん。ぼーっとしてた」
「これ、ほしいの? 美味しいよね〜」
美絵が、僕の視線の先にあるグミを手に取りながら微笑んだ。
「……高校生の時にコーチしてたチームの子が、これ好きだったんだよね。駅で会った時、夢中で食べててさ」
「へー! そうなんだ。私も好きだったよ。久しぶりに食べたいな」
そう言って、買い物カゴの中にそっと追加した。
再び歩き出すと、隣で「あっ」と小さく声を上げた。
「私も高校生の時、駅のホームでこのグミを袋からぶちまけちゃった男の子見かけて、一緒に拾ってあげたことある」
「え」
「同じ子だったりして?」
思わず顔を見合わせ、ふっと笑う。
「……ありえるよな。同じ駅だし」
「ねー」
僕がカートを押し、二人並んで歩く。
「それで、祥ちゃん。今日の夜ご飯、何のメニューがいい?」
「んー……本当に何でもいいの?」
「もちろん。祥ちゃん、誕生日なんだし」
少しだけ迷ったあと、素直な希望をこぼした。
「……じゃあ、ビーフシチュー」
それは付き合って間もない頃、美絵が初めて振る舞ってくれた手料理であり、あの日以来ずっと、一番の大好物だ。
「はい、《《先生》》っ!」
そのリクエストを聞いて、とても嬉しそうに目を細めながら、おどける彼女。
僕の世界のすべてを照らしてくれるようなその笑顔に、相変わらず何度も恋に落ち続けている。
「……『先生』はダメ」
「なんで?」
「美絵に呼ばれると、ドキドキするから」
「えっ、なんで?」
「……わかんない」
不思議そうにケラケラ笑いながら、カートを押す僕の腕に甘える美絵を見つめた。
僕は、長い夢でも見ているのだろうか?
高校生の時に見た夢の遥か上をいく、溶けそうなくらい幸せな現実を、いまだに疑ってしまう。
もう何度目かわからない、彼女に祝ってもらう誕生日の夜。
僕は今日も、眩いほどの幸福に酔いしれたのだった。
―― エピローグ・完 ――
この作品をお読みいただき、本当にありがとうございました。
初めて書いたものだったので、拙い部分がたくさんあったと思います。
また、ここまで長くなってしまいましたが、最後までお付き合いいただいたことに、感謝してもしきれません……!
気が向きましたら、またいつでも読みに来ていただけると嬉しいです。




