第8話
「でさ、今のスライダー、キレあんだけど落ちが早すぎない?」
「そうですね。バッターの目線が切れる前に落ちてるから、見極められやすいかも」
真希さんの野球談義は鋭く、そして止まらない。
先輩の隣で相槌を打ちながら、僕は内心、落ち着かない気分でいた。
視線の先、通路を挟んだ向こう側に、森さんの姿を見つけたのだ。
照明を弾く栗色の髪が、天使の輪のように艶めいている。
正人や、同期のいずみという子と話しているようだが、その表情はどこか曇って見えた。
(……本当は、あっちに座りたかったんだけど)
そんな本音が喉元まで出かかり、球場に入る直前に買った麦茶で強引に流し込む。
彼女が野球観戦を楽しめていれば、それでいい。
そう自分に言い聞かせても、ふと長いまつ毛を伏せる彼女の横顔が気になって仕方がなかった。
「おーい、祥くん。聞いてる?」
「あ……すみません。聞いてます」
「もー。あ、私ちょっとビール買ってくるわ」
真希さんが席を立ったタイミングで、森さんも席を立って通路へ出ていくのが見えた。
手にはハンカチを持っている。
トイレに行くのだろうか。
ここから行くには、酔っ払いでごった返すコンコースを抜けなければならない。
さっき、いかにもナンパしそうな男たちの集団を入り口で見かけたばかりだった。
あんなに目立つ彼女が、一人で歩いていたら……。
「……ちょっと、すみません」
僕は考えるより先に腰を上げていた。
「あれ、どっか行くの?」
すぐに戻ってきた真希さんに、「すぐ戻ります」とだけ告げて、僕は通路へ飛び出した。
◇
コンコースに出ると、グラウンドの爆発するような歓声はコンクリートの壁に遮られ、「ゴーッ」という低い地鳴りのような音に変わった。
油の匂いと、紫煙の匂いが強く鼻をつく。
人混みをかき分けるようにして進むと、ちょうど女子トイレの方から歩いてくる彼女が見えた。
人波に酔ったのか? 少し顔色が白い。
案の定、近くを通りかかった赤ら顔の男たちが、ジロジロと彼女を値踏みするように見ている。
「……森さん」
声をかけると、彼女は驚いて顔を上げ、僕に気づいた。
その瞬間、大きな瞳に、ふわりと安堵の色が灯る。
「あっ……瀬川くん」
人混みから守るように、彼女と通路の間に立つ。
彼女が少し口角を上げて、僕を見た。
その笑顔を見ると、ざわついていた心が凪いでいくのがわかる。
「瀬川くんもトイレ?」
「あ……いや、飲み物買おうかなと思って」
『森さんがナンパされないか心配で追いかけてきた』とは言えなくて、咄嗟に適当な嘘をつく。
「今日、すごく暑いもんね」
二人の間に、不思議な静寂が流れる。
周りはこんなに騒がしいのに、彼女の声だけが、鮮明に耳に届く。
「……野球観戦、楽しめてる?」
さっき遠くから見えた彼女の曇り顔を思い出し、尋ねてみる。
「うん! 球場で見るの久しぶりで、楽しいよ」
(よかった)
じゃあ、さっきの浮かない顔は勘違いだったんだろうか。
その時、小学校高学年くらいの男の子たちが五人くらい、ワイワイと騒ぎながら僕たちの横を通りすぎていった。
その背中を目で追いながら、彼女が切り出した。
「……瀬川くん、コーチのバイトって、週末にやってるんだよね?」
「え? ああ、そうだよ」
「あのくらいの子たち?」
「あー、そうだな。ちょうど同じくらい」
「みんな可愛い?」
「うん、可愛いよ。ちょっと生意気だけど。一緒にランニングすると、『もうおじさんなのに体力あるんだね』とか言われる」
彼女がクスクスと笑う。
「私たちって、小学生から見たら、もうおじさんおばさんなんだ」
その笑顔を見て、僕の口元もだらしなく緩んでしまっていたらしい。
ふとガラスに映った自分が、あまりにも「彼女が可愛い」と顔に書いてあるような締まりのない表情をしていて、焦って引き締めた。
「……見てみたいな。」
森さんが足元の床を見つめながら、小さく呟く。
「何を?」
「……瀬川くんが教えてる野球チーム」
驚いた。
(彼女が? 見に来る?)
泥だらけで汗臭い、やんちゃ盛りの少年たちが野球をしているグラウンドに、彼女が立っている姿。
脳内がその光景を処理できず、若干混乱しながら聞き返す。
「え……見に?」
「あ、ごめん! 普通に無理だよね!?」
僕が驚いて言葉に詰まったのを、拒絶だと受け取ったのだろうか。
彼女は顔を赤くしながら、慌てて両手を振った。
「いや……あ」
「おーい、祥太郎! あ、森さんも! 何してんのー?」
言いかけた言葉が、売店かトイレから戻ってきたサークルの男子連中の大きな声に遮られてしまった。
「戻ろうぜー! 攻撃始まるよ!」
「……じゃあ、またね!」
会話の腰を折られたまま、彼女は足早に先に席に戻ってしまった。




