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第49話

「初めて見たときから、ずっとだよ」


 私の思考は一瞬、完全に停止してしまった。

 パチリと瞬きをして、彼が紡いだ言葉を反芻しながら、その意味を頭の中でゆっくりと考える。


『初めて見たとき』――。


 私たちが出会ったのは、大学のサークルの新歓じゃない。


「え!? 初めてって……じゃあ、中学生の時……ってこと?」


 驚きのあまり、声がひっくり返りそうになる。


 祥ちゃんはやや気まずそうに視線を泳がせたけれど、すぐにまた私を見つめ返した。


「うん。……重いよな。引くかもしれないけど。でも、本当のことだから」


 その瞳の奥に宿る、嘘偽りのない真剣な熱。


 中学の頃から、ずっと。

 あの、泥だらけでマウンドに立っていた孤高のエースが。

 手の届かない場所で闘っていると思っていた彼が、ずっと私を見ていてくれたの?


 胸の奥から、甘い炭酸のような感情が、シュワシュワと音を立てて込み上げてくる。


「俺はそんな感じ……。美絵は?」


 祥ちゃんは、照れくさそうに目を逸らしながら尋ねてきた。

 私は熱くなった頬を両手で包み込み、答える。


「……私も、祥ちゃんと同じで、はっきり恋愛として自覚したのは合宿。……その前からだいぶ予兆はあったんだけどね」


 付き合う前からやきもちを焼きまくり、一喜一憂していた自分を思い出し、苦笑する。


「……でも……」


 ふと、過去の記憶の糸を辿るように、少し考え込んだ。

 マグカップから立ち上る薄い湯気の向こうに、当時の光景が浮かんでくる。


「よくよく考えてみたら……私、中学に入るまでは、野球に特に興味があるわけではなかったのに。なんでずっと、祥ちゃんの練習を目で追ってたんだろ」


 ぽつりと、自分自身に問いかけるようにこぼす。


「祥ちゃんが怪我したときも。落ち込んでるところを見かけたとはいえ、なんでこんなに人見知りの私が、いきなり話しかけられたんだろ……」


 あの夏、夕暮れの公園。

 傷ついた彼を見て、勝手に身体が動いていた。


 差し出したサイダーだって、実は――。

 彼に声をかけるために、慌てて近くにあった自販機で二つ買ったものだった。


「自分の気持ちに疎すぎて、全然気づいてなかったけど……。もしかしたら私、ずっと前から、祥ちゃんのこと気になってたのかな」


 言葉にしてみて、すとんと腑に落ちた。


 尊敬や憧れという名前の箱に隠していたけれど、あれはきっと――恋の始まりの蕾だったんだ。


 顔を上げると、祥ちゃんは驚きと喜びが入り混じったような顔で、私を見つめていた。


「……だとしたら私たち、すごすぎない? 六年越しに両思いとか」


 私がたまらなく愛おしい気持ちで笑いかけると、彼もクシャッと表情を崩した。


「……たしかに、奇跡だな」


 二人の間に流れる、穏やかで優しい時間。


 この幸せな空気に包まれていると、今日ずっと胸の奥に引っかかっていた小さな棘の存在を、自然と受け入れられた。


 私は、少しだけ声のトーンを落として言った。


「……ごめんね」


「え?」


「真希さんのこと、勝手に不安になって。祥ちゃんが私のことを想ってくれてるのはわかってるのに……。私自身の問題なの。私がもっと、自信を持てるように、自分で頑張る」


 彼を疑っているわけじゃない。

 ただ、自分に自信がないだけ。


 私の言葉を聞いた祥ちゃんは、何かを言おうと少し身を乗り出した。

 けれど私は、彼が口を開くより先に、ずっと言えなかった本当の気持ちを付け足した。


「あと……私が祥ちゃんを大好きすぎて、他の女の人にくっつかれるのが、単純にイヤなだけ!」


 言い切った瞬間、自分の口から出た言葉のあまりの恥ずかしさに、顔から火が噴き出しそうになった。


「…………っ!」


 もう、彼の顔をまともに見ていられない。

 みるみるうちに熱くなっていく顔を隠すように、隣に座る祥ちゃんの広い肩に、コツンと頭を乗せた。


 合宿の明け方、無意識に寄りかかってしまったあの時と同じように。


 彼の右肩の体温が、服越しに私の頬にじんわりと伝わってくる。

 トクトクと少し速い彼の心音を感じて、私だけがドキドキしているわけじゃないんだと安心した。


 ◇


「他の女の人にくっつかれるのが、単純にイヤなだけ!」


 そう言い捨てて、真っ赤になった顔を誤魔化すように、僕の肩に頭をすり寄せてきた美絵。

 あまりの可愛さに、僕の理性の防波堤は音を立てて崩れ去りそうになる。


 首に触れる柔らかな髪の感触と、少しだけ震えている美絵の体温。

 夏合宿の夜、夢現の彼女がこうして寄りかかってきた時の記憶と重なる。


 あの時は、触れることすら躊躇われたけれど。

 今は、僕の恋人として、くっついて甘えてくれている。


「……美絵って結構、甘えん坊だよな」


 喉が震えそうになるのを抑え込み、なるべく平坦なトーンを装って呟く。

 すると、肩に乗せられた頭が少しだけ動き、美絵が不安そうに僕を見上げた。


「……子どもっぽくて、イヤ?」


 イヤなわけがない。


「いや、そのままがいい」


(めちゃくちゃ可愛いし)


 その本音は、さすがに胸の内に留めておいた。


 僕の言葉を聞いてホッとしたような美絵の瞳は、なぜか少しだけ潤んだように見えた。


 そして、僕をまっすぐに捉え、離さなくなった。


 オレンジ色の間接照明に照らされた唇が、ほんの少しだけ開く。

 引力が生まれたように、僕の身体は自然と吸い寄せられていった。

 ゆっくりと顔を近づける。

 長いまつ毛が微かに震え、やがて、彼女もそうしたかったかのように、静かにその美しい瞳を閉じた。


 今はもう、自制する理由を見つけられなかった。


 静まり返った秋の夜の部屋。

 六年の月日を経て、僕たちというふたつの弧は、ようやく静かに重なり合った。

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