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第43話

 厚手のカーディガンを羽織っていても、首元をすり抜ける冷たい夜風に、思わず肩がすくむ。


「うう……東京の秋って、こんな寒いの? 今からこんなんじゃ、私、冬になったら凍っちゃうよ……」

 南国育ちのいずみが、もこもこのパーカーのフードを被りながら、弱音を吐く。


 いよいよ明日から文化祭。

 最終日の事前準備を終え、今日はこれからキャンパス近くの居酒屋で、サークルのみんなで決起会を予定している。

 そこへ、いずみ、正人くん、そして祥ちゃんと一緒に向かっていた。


「今年の秋は、例年より寒いんだとさー」

 自分のベージュのキャップを指でクルクルと回しながら「今朝、テレビで言ってた」と正人くんが言う。


「北国育ちの美絵と祥太郎くんは、全然へっちゃらな感じ?」

 いずみが身震いしながら尋ねてくる。

「うーん。福島と東京の寒さって、また違った厳しさがある気がしない? 祥ちゃん」

「あ、わかる」


 私が彼を呼ぶときの、呼び名。

 付き合う前は、彼の希望で『祥くん』にしていた。

 後から理由を聞いたら、『祥ちゃん』はどうしても顔が緩むから……ということだったらしい。

 恋人になった今は、照れながらもこの呼び方を許してくれていて、彼に甘えるようにそう呼ぶのが心地いい。


 ◇


 お店に着き、狭くて急な階段を上りきる。

 和風の重たい引き戸を開けた瞬間、風で冷えた体が急激に温まった。


「いやー! 準備お疲れー!」

「買い出し忘れ、なさそう!?」

 サークルのメンバーがわらわらと集まってきて、乾杯の時を今か今かと待ちわびていた。


 店内はすでに、イベント前特有の熱気と喧騒で飽和している。

 香ばしく焦げた焼き鳥のタレの匂いと、お酒の甘苦い香り。

 別のサークルと思われる人たちも周囲に何組かおり、店内で数十人の大学生が発する熱が、もわっと頬を撫でる。


「いやー、無事に準備終わってよかったねー!」

 いずみがホッとしたように言いながら、奥の座敷席へと進んでいく。

 私たちは、すでに着席している先輩や同期たちに「お疲れ様です」と挨拶を交わしながら、空いていた四人分のスペースへと腰を下ろした。


「美絵、荷物こっちに置く?」

 隣に座った祥ちゃんが、私が抱えていた少し大きめのトートバッグを見て、座布団の脇のスペースを指差した。

「あ、うん。ありがと。祥ちゃんの上着も重ねちゃっていいから」

「ん、わかった」


 やりとり自体はごく自然で、何気ないものだったと思う。


 けれど、ふと視線を感じて顔を上げると、向かいに座る先輩たちが、ニヤニヤとあからさまに怪しむような目でこちらを見つめていた。

「……ねえねえねえ」

 三年生の先輩が、先に配膳されたお通しの小鉢を手に持ちながら、身を乗り出してきた。


「最近ずっと気になってたんだけどさ。……祥太郎と美絵ちゃん、もしかして付き合ってたり?」


 ピタリ、と。

 私たちの周りだけ、一瞬音が消えたような気がした。


 いずみと正人くんが「あっ」という顔をして息を呑む姿を、視界の端に感じる。


 隠すつもりはなかったけれど、こんなに唐突に、しかも大勢のいる前で聞かれるとは思っていなかった。

 何て答えよう……と、膝の上に置いた手に緊張が走った時。


「……はい。付き合ってます」


 隣から、低く、けれど迷いのない声が真っ直ぐに落ちた。

 祥ちゃんが、少しだけ照れくさそうしながらも、しっかりと頷いていた。


「うおおおおおっ!! マジか!!」

「やっぱりなあ?!」

「おめでとうーーっ!!」


 先輩の歓声を皮切りに、周囲のメンバーがドッと沸き立った。

 囃し立てる声と、バンバンとテーブルを叩く音で、座敷のボルテージが一気に跳ね上がる。


 恥ずかしくて小さくなる私に向かって、いずみが「いえ〜い!これで公式〜!」と言いながらピースサインを見せる。


 そのお祭り騒ぎの中、熱くなった頬を両手で冷ましながら、ふと顔を上げた時のことだ。

 少し離れた席で、こちらの盛り上がりを見つめている真希さんの姿が目に入った。

「なになに? 何の話ー?」

 不思議そうに、隣にいる同期の先輩に尋ねている。

「祥くんと美絵ちゃん、付き合ったんだって!」


 その言葉を聞いた瞬間。

 真希さんの顔に貼り付いていた明るい笑顔が、ほんのわずかに、ピシリと凍りついたように見えた。

「……え! そうなんだ……!」

 すぐにいつものサバサバとした笑顔を取り戻し、こちらに向かって「おめでとー!」と手を振ってくれたけれど。


 その大きな瞳の奥が、隠しきれない動揺でかすかに揺らいでいるのを、私は見逃さなかった。


 胸の奥が、チクリと痛む。


(……やっぱり、真希さんは祥ちゃんのことを……)


 彼女の秘めた思いに気づいてしまい、少しだけ視線を伏せる。


 ◇


「明日から楽しむぞー! かんぱーい!」

 幹事の音頭とともに、無数のジョッキやグラスが派手な音を立ててぶつかり合う。


 炭酸の弾ける爽快な音と同時に、祥ちゃんの席の周りには、さっそく悪絡みを楽しみにしている先輩や同期の男子たちが群がってきていた。


「おいっ祥太郎! こんな可愛い彼女作りやがって、許されると思ってんのか!」

「中学の同級生で再会して付き合うだと? 漫画か! 調子乗りすぎだろお前!」

「いいからとりあえず飲め! 今日はお前のターンな!」

 次々と押し付けられそうになるグラスの山。

 祥ちゃん「いやいやいや」と半分本気で苦笑いしながら、目の前に突き出されるジョッキを両手で押し返した。

「明日朝一からクラスの出し物のシフト入ってるんすよ!」

「そんなん知らん!」


 ため息をつきながらも、彼の横顔はどこか楽しそうだ。

 いつも私には、壊れ物を扱うように――たまに少し過保護すぎるくらい――優しくて、穏やかな彼。

 でも、正人くんや先輩たちにウザ絡みされて、ちょっとダルそうに適当にあしらう時はなんかは、年相応の普通の男の子に見える。

 私に向けられる顔とも、少年野球で指導している時の顔とも違う。

 その無防備で少し雑な一面に、キュンとしてしまう。


(……私も今度、二人きりの時にちょっとウザ絡みしてみようかな)


 彼がどんな風に困って、どんな顔で私をあしらうのか、見てみたい。

 そんないたずら心が、炭酸の泡のようにぷくぷくと湧き上がってきた。



 賑やかな笑い声の波の中で、私は誰にも気づかれないように、もう一度だけ真希さんのほうをチラッと盗み見た。


 ジョッキを片手に同期と談笑している彼女の笑顔は、心なしか、いつもの太陽のような明るさではなく少しだけ曇って見えた。

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