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第29話

 電車が私の最寄り駅に着く頃には、空はすっかり群青色に沈み、街灯がポツリポツリとオレンジ色の光を落とし始めていた。


 大学の外で二人きりで会うのは、今日が初めてだった。

 緊張してしまい上手く話せないのではないか、と心配していたが、彼といると、会話が途切れた時でさえも、不思議とずっと心地のよい時間が流れていた。

 もっとずっと、この時に留まりたくなってしまう。


 電車の速度が落ち、まもなく駅に着くことを知らせた。

 名残惜しくも「それじゃあ……」と言って立ち上がると、彼が窓の外に目をやりながら、一緒に立ち上がった。

「暗くなってきたし……マンションの前まで送るよ」

「えっ、でも」

「そうさせて」

 有無を言わせない、少しだけ強引な彼の言葉に、私は大人しく頷いた。

「……ありがと」


 ◇


 駅から五分ほど歩いた先にある、私の住む単身者用のマンション。

 夜の足音が近づく住宅街の道を、彼と並んで歩く。

 靴音が二つ、アスファルトに重なって響く。


(わー……私の生活空間に、彼がいる……)


 いつも一人で歩く見慣れたコンビニ、クリーニング屋、小さな公園。

 そのすべてが、隣に彼がいるというだけで、映画のセットのように特別でキラキラしたものに見えた。

 歩幅も私に合わせてくれていることに気づき、胸が温かくなる。



 マンションのエントランスが見えてきた。

 自動ドアの光が、二人の影を長く伸ばしている。


「疲れてるのに、送ってくれて、ありがとう」

「いや、こっちこそ。暑い中来てくれてサンキュ。それじゃあ……」

 彼が軽く右手を上げて、踵を返そうとする。


 その背中を見ていたら、また名残惜しさが込み上げてきた。

 まだ、もう少しだけ……一緒にいたい。


「あっ、あの!」

 思考より先に、口が動いていた。


「上がって、お茶でも飲んでいく!?」


「……えっ!?」

 彼は目を見開き、一瞬硬直した。

「あ、いや、それは……」

 腕で口元を隠しながら、言葉を濁し、視線を泳がせている。

「そ、それは色々とまずそうだから……また、今度」


 絞り出すように言った彼の言葉を聞いてハッとした。

 一人暮らしの女の子の部屋に――夜、男の子を誘う。

 それがどれだけ不用意で、色々な意味を含んでしまうことか。


 自分の発言の破壊力と無防備さを完全に察してしまい、全身から火が出そうになった。

「わーごめん! そうだよね、ごめんなさい! 変な意味じゃなくて……!」

「わかってる、わかってるから! ……じゃあ、また」

 彼も慌てた様子で、それでも最後には優しく微笑んで、手を振ってくれた。

「……おやすみ」


 私も、熱くなる頬の熱を冷まそうと、ぶんぶんと手を振り返した。

 彼の広い背中が、夜の闇に溶けて見えなくなるまで見送る。


 エントランスの冷房が効いた空気の中に足を踏み入れると、ようやく深呼吸ができた。

 鍵を開け、暗い部屋の電気をつける。


「……カッコよかったな」


 今日一日の彼の姿が、走馬灯のように蘇る。


 マウンドで投げる姿、子どもたちに優しく教える姿。

 優しい彼だけでなく、学校に通いながらもしっかりと自分で働く、芯のある姿。

 誰かのために、汗を流している彼。

 そのすべてが、恋愛としての好きを超えて、一人の人として、心から尊敬できた。


 私も、ただ彼を好きな女の子じゃなくて、彼にふさわしい人になりたい。


「……よし」

 冷たいお茶を冷蔵庫から取り出し、一口飲んで気合いを入れる。


 窓の外からは、夏の終わりの夜風が吹き込んできた。

 胸の中に灯った小さな決意は、私を強く前へと押し出してくれるような気がした。

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