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第28話

 グラウンドの端で、私は夢中になってその光景を見つめていた。


「肘、もう少し上げてみて。あ、そう。その角度」

 瀬川くんが、ボールの握り方を一人の少年に教えている。

 自分の大きな手で少年の小さな手を包み込むようにして、目線を合わせるために片膝をついている。

 その横顔は驚くほど優しくて、見ているこちらの胸が締め付けられるほどだった。


(あんな顔で、子どもたちに接してるんだ……)


 私に向ける笑顔とも、友達といる時の顔とも違う。

 頼りがいのある、指導者の表情。

 そのギャップに、胸の奥がときめきっぱなしだ。


「じゃあ、一回俺が投げてみるから、フォーム見ててな」

 瀬川くんが立ち上がり、キャッチャー役の子に向かってマウンド付近に立つ。


 その瞬間、私の周りの空気がピタリと止まった気がした。

 ゆっくりと振りかぶる。


 中学時代、遠くから何度も何度も見つめていた、あのしなやかなフォーム。

 肩を壊しているから、もちろん全力ではない、軽く、力みのないフォームだけれど。


 指先から放たれたボールは、糸を引くような軌道を描いて、キャッチャーミットに「パーン!」と心地よい音を響かせて収まった。


「うおー! すっげー!」

「コーチ、今の球はやい!」

 少年たちが目を輝かせて歓声を上げる。

 瀬川くんは「いやいや、しょっちゅう見てるじゃん」と照れくさそうに笑った。


 けれど、私の目頭は不意に熱くなっていた。

 もう二度と見られないと思っていた、彼がマウンドでボールを投げる姿。

 全力じゃなくても、その姿はやっぱり、私の世界で一番かっこいい人だった。



 試合形式の練習が始まると、少年たちの真剣な姿にも心を打たれた。


 内野ゴロに飛びついて、盛大に転んで泥だらけになっても、すぐに立ち上がって一塁へボールを投げる。

 三振して悔し涙を拭いながらベンチへ戻る子に、瀬川くんがポンと肩を叩いて励ましている。


 汗と泥の匂い、土の匂い。

 一生懸命な彼らの姿と、それを温かく導く瀬川くんの姿から、目が離せない。


 見学時間はあっという間に過ぎていった。


 ◇


「ありがとうございました!」

 元気な挨拶が響き渡り、今日の練習が終了した。


 道具の片付けを終え、監督や保護者に挨拶をして回った後、僕は急いで水道で顔と手を洗い、森さんの待つ木陰へと向かった。


「……ごめん! お待たせ。暑かったよな」

 タオルで首の汗を拭いながら声をかけると、彼女はパッと花が咲いたような笑顔を向けた。

「ううん! すっごく楽しかった! みんな一生懸命で……感動した」


 その言葉に嘘はないようで、彼女の瞳はキラキラと輝いている。


「瀬川くんのコーチ姿も、ほんとすごいなって思ったし……それに、少しだけど、ボール投げてる姿、また見られた」


「……っ」

 ストレートな言葉に、さっき水で冷やしたはずの顔がカッと熱くなる。


「あ、いや……昔みたいには投げられないから。あのくらい緩くしかできないんだけどね」

 小さく笑いながら言うと、彼女は首を横に振った。

「ううん……すごく、か、かっこよかったよ」

 セミの鳴き声すら耳に入らなくなるほどの破壊力。


 この子は、自分がどれだけ心臓に悪いことを言っているのか自覚があるのだろうか。


「……ありがとう」


 ◇


 土手を下り、駅へと向かう道。

 日は少し傾き始め、彼女のワンピースと同じオレンジ色を帯びた光が住宅街を照らしている。

 暑さはまだ残っているけれど、時折吹き抜ける風には、夕暮れ特有の涼しさが混じっていた。


 どこかの家から、夕ご飯の匂いが漂ってくる。

 並んで歩く僕たちの間には、絶えず心地よい沈黙と、ぽつりぽつりとした会話が続いていた。


「……そういえば」

 駅が見えてきた頃、ずっと胸につかえていたことを口に出す決心をした。

「うん?」

「合宿の……最後の夜のことなんだけど」


 彼女の肩が、ビクッと跳ねたのがわかった。

 歩調が少し遅くなる。


「あの時……『名前で呼んで』って言ってたの、覚えてる? もしかしたら、寝ぼけてたのかなって思って……」


 名前で呼べたら嬉しいけど、夢現での言葉なら、忘れてくれた方がいいと言われるかもしれない。

 彼女は立ち止まり、俯いたまま日傘の柄を両手でぎゅっと握りしめた。

 頬が赤く染まっているのが、横顔からもわかる。


「……お、覚えてるよ」

 消え入りそうな声。

「あの時はなんか……馴れ馴れしくて、ごめん」

「いや、全然そんなことないよ」

 僕は咄嗟に否定した。

「長年『森さん』呼びだったから、時々間違えちゃうかもしれないけど……じゃあ『美絵』でいい?」


 彼女はゆっくりと顔を上げ、琥珀色の瞳で僕を見つめ返した。

「……うん」

 静かな、けれどはっきりとした声だった。


 ひぐらしのカナカナという鳴き声が、遠くの神社から聞こえてくる。

「……私も」

 彼女が、足元に視線を落とす。

「私も、『祥ちゃん』……でいいかな」

「っ!」


 顔にブワッと血がのぼる。

 咄嗟に、彼女と反対側の方を見る。


 やっぱり、ダメだ。なぜか『祥ちゃん』は……。


 僕の顔面は今、間違いなく締まりのない、だらしないくらいにニヤけた顔になっているはずだ。

 こんな顔、彼女にも、ましてや他のサークルの連中にも絶対に見せられない。


「……『くん』とかの方がいいかも」

「えっ? ……『祥くん』?」

 彼女が不思議そうに聞き返す。

「うん……いつもは『くん』付けで……。『ちゃん』付けは……他に誰もいない時ならいいよってことで……」

「……?」


 彼女は、『何が違うんだろう?』と言いたげな顔で、少しきょとんとしていたが。

 深追いはせず、「うん、わかった」と了承してくれた。

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