第10話
六月の東京は、水槽の中にいるみたいだ。
福島にいた頃の梅雨は、もっとこう、しとしとと静かに降るイメージだったけれど、コンクリートに囲まれたこの街の雨は、逃げ場のない湿気を孕んで肌にまとわりつく。
ビニール傘を叩く雨音が、ザーザーと耳障りなノイズを奏でていた。
キャンパスの銀杏並木も、今は濡れて重たい緑色をしていて、私の気分を少しだけ憂鬱にさせる。
「はあ……」
講義棟の軒下で、私は傘を畳みながらため息をついた。
湿気を含んだ風が、私の髪を撫でる。
今朝、時間をかけてブローした髪も、もううねり始めている気がして、指先で毛先を掴んで眺めた。
視線は無意識に、人の波の中を探している。
背が高くて、肩が広い、あの優しい背中を。
(……いない)
瀬川くんを見かけなくなって、もう三週間が経つ。
同じサークルだし、キャンパスも同じなのに、神様が意地悪をしているのか、タイミングが合わない。
メッセージを送ろうか迷ったけれど、用事がないのに「元気?」などと送っていい関係なのかはまだ自信がないし、既読がつかなかったらどうしよう、なんて考えているうちに、スマホの画面は何度も暗転した。
「おーい、ヨッシー!」
湿った空気を切り裂くような明るい声。
自動販売機の前のベンチから、正人くんが手を振っていた。
その隣にはなんと、いずみもいる。
「正人くん、いずみ。お疲れー」
「お疲れー。今日もジメジメしてんなー。ここでボーッと休憩してたら、偶然いずみんに会ってさー」
正人くんは炭酸ジュースのペットボトルを額に当てて涼をとっている。
ベンチの脇に咲く紫陽花だけが、この鬱陶しい天気の中で鮮やかに咲いている。
「そういやヨッシー、最近祥太郎と会った?」
不意に投げかけられた名前に、心臓がトクンと跳ねた。
「ううん、見かけてないよ。もう、……しばらくの間」
『もう、三週間くらい』と言いかけてやめた。
会えない日を指折り数えていることがバレたら、恥ずかしい。
瀬川くんは、サークルの集まりもこのところ顔を出していないし、広いキャンパスですれ違うこともない。
『元気かな。風邪とかひいていないかな』そんなことばかり考えていたのを正人くんに見透かされたようで、少しドキッとした。
「あいつさ、今バイト漬けなんだってよ」
「えっ、バイト?」
「おう。あいつ、バイト掛け持ちしてるじゃん? ファミレスの方、人手が足りないらしい」
それに、と正人くんは続ける。
「三姉弟の真ん中でさ、下の弟もこれから金かかるから、あんま仕送りに頼りたくないんだと」
いずみも驚く。
「大人だなあ。仕送りしっかりもらって、自分の洋服代と遊びのためだけにバイトしてる自分を、少し省みちゃった」
(そんな事情があったなんて)
胸の奥がキュッと締め付けられた。
私は一人っ子で、『アルバイトは、まず大学生活に慣れてからだね』と言って、充分な仕送りをしてくれている両親の好意に、甘えてしまっている。
のん気に「会いたいな」なんて考えていた自分が、急に恥ずかしくなった。
「でさ! 今からヨッシーといずみんと俺の3人で、祥太郎のバイト先、行かね? 驚かそうぜ!」
身振り手振りで提案する正人くんに驚く。
「えっ、迷惑じゃないかな……?」
「平気平気! ランチタイム過ぎてるし、客として行けば売り上げ貢献だろ?」
正人くんが悪戯っぽく歯を見せる。
迷惑かもしれない。
でも、会いたい。
その二つの気持ちが天秤にかかる間もなく、私は「……うん、行く」と小さく頷いていた。
◇
「四番テーブル、ハンバーグセット入りましたー!」
「はい!」
鉄板の上で肉が焼けるジューという音と、油の跳ねる匂い。
食洗機の回る蒸気と、ホールの冷房が混ざり合った独特の空気が充満するキッチンで、僕は額の汗を手の甲で拭った。
ピークタイムは過ぎたとはいえ、店内はまだ賑やかだ。
「瀬川くん、ホールお願い! 三番さんの呼び出し!」
「了解です」
エプロンの紐を締め直し、トレイを片手にキッチンを出る。
重たい扉を開けた瞬間、客席の喧騒と、有線のJ-POPが鼓膜に飛び込んできた。
冷房の効いた涼しい空気に、熱った体が少しだけ生き返る心地がする。
「お待たせいたしました」
呼び出しベルが鳴った三番テーブルへ向かう。
伝票を取り出し、顔を上げる。
「ご注文をお伺い……」
そこまで言って、言葉が詰まった。
「……うふふ、来ちゃった!」
そう言いながら、メニュー表の影から、ニヤニヤした正人の顔が覗いている。
その隣には、サークルの同期のいずみ。
さらにその向かいには――。
「……あ、お、お疲れさまです……」
申し訳なさそうに、けれど少しだけ嬉しそうに目を細める、森さんがいた。
その瞬間、ファミレスのありふれた照明が、スポットライトみたいに彼女だけを照らし出したように見えた。
「え……お前ら、なんで」
素の声が出そうになるのを、慌てて接客用トーンに戻して飲み込む。
心臓が、早鐘を打ち始めた。
(汗臭くないか? 前掛け汚れてないか? 髪、ボサボサじゃないか?)
突然の女神の登場に、僕は焦りまくっていた。




