勇者のこころえ4
いつまでも、その場に立ち尽くすわけにはいかない。
リグレットの元を離れてから、レイに引き止められて、随分と時間が経っていた。
そろそろ彼女も心配し始めるころだろう。早く戻らないといけない。そう思って足を速めたが、その途中で全てが狂った。
「ライザじゃねえか」
ライザは、彼をダンジョンに放り込んで置き去りにした悪餓鬼たちに出会ってしまった。
青ざめたのは、一瞬。今は泣きはらしたリグレットが待っていた。早く戻らなければならない状況で、ライザには彼らに構っている暇などなかった。
「おー、おー、おう。レベル5じゃねえか」
立ちふさがった、彼らは三人。うち一人は、主犯格の少年で、年は十五。レベルは20。まともにやり合ったところで、ライザに勝算はなかった。
相手にしては、駄目だ。そう考えて、ライザは立ちふさがった三人の横をすり抜けようとした。しかし。
「無視すんなよ」
その肩を、一人が掴む。そのまま、重心を傾けて、ライザの体が吹っ飛び、折角買ったジュースもこぼれてしまった。
「…………っ!!」
その上、転ばされたときに手を突いた拍子に、石で手を切ってしまった。血が流れて、ライザの顔が苦痛で歪む。
「お前、まだ生きてたのかよ」
地面に沈んだ体を起こそうとしたところで、その顔を蹴られた。
「まじゴミだな。もう一回、ダンジョンに突き落としてやろうぜ」
それでも、何とか立ち上がると、立ち上がったライザを見て、主犯格の少年が嗤う。
「モンスターにやられて死ぬなんて、名誉なことなんだろ」
にたにた笑いが鼻についた。
「そうしたら、お前も、『英雄』になれるぜ」
「!!」
視界が怒りに染まり、気がついたら、手が出ていた。握り締めた拳には、殴りつけた確かな感触が残っている。
はっと、青ざめたときには遅かった。
悪餓鬼たちの目つきが変わる。それまでの、気持ちの悪い下卑た笑みが、怒りを伴う。彼らはこぶしを握り締めて、その照準をライザに定めた。
逃げろ。逃げろ。
結局のところ、ライザにはそれしかできない。
悔しさに涙がこみ上げて、それでも泣くものかと唇をかみ締めた。ライザは、身を翻して狭い路地に逃げた。
*
逃げることには慣れていた。走ることにも、当然。生まれ育った村の地理は熟知して、逃げ足には自信があった。
しかし、相手は三人だった。先回りや待ち伏せを繰り返され、気付いたときには時には全てが遅かった。逃げ込んだ路地は行き止まり。ライザの前には重く分厚い壁が立ちふさがっていた。
しまった。
振り向いた背後にはすでに、少年たちがライザを追い込んでいた。
「やっと、はぁ、つかまえたぜ」
彼らは呼吸を整えつつ、ライザに近寄ってくる。その目は嗜虐に興奮していた。
「……ライザ。てめえ、むかつくんだよ」
そういったのは、先ほどライザに殴られた主犯格の少年。彼は血走った目で、衣服からナイフを取り出した。
「『英雄』の息子だからって、調子にのりやがって。そのすかした面、めちゃくちゃにしてやるよ」
調子に乗った? そんなことは、一度もない。
そんな暇さえ、なかった。『三年前』から、一度として、そんな余裕はなかった。
三年前、世界の北に住む魔王が『気まぐれ』に一万の人間を殺した『血の祝杯』。あのときから。ライザの運命は大きく狂った。
「調子になんて乗ってない!!」
「黙れ!!」
振り上げたナイフは、ライザに向かって一直線。
ライザは思わずぎゅっと目蓋を閉じて、襲う衝撃を覚悟した。
しかし。
そのとき、悲鳴がこだました。
*
ライザに届くはずだったナイフは地面に転がっていた。
目の前にうずくまるのは、手を抱える少年。ナイフの傍には、石が落ちていた。状況から考えると、この石が少年の手に当たって、ライザは助かったようだった。
しかし、これは。一体――
「……?! 何?! 何、なの」
「そこまで、だっと!!」
その声とともに、頭上の人影は、大きな網を広げて飛び降りる。
ばさりと大きく広がった網。それにかかったのは、三人の子どもたち。途端に彼らは地面にはいつくばって、網の中でもがいた。
目の前に降り立った人物。その背に――正しくは、その背に背負った鋼の大剣には見覚えがあった。
「アベル!!」
叫んだライザを横目に、アベルは子どもたちを見下ろして、にやりと笑った。
悪餓鬼たちはその笑いを不愉快に思ったのか、顔を真っ赤にして騒ぎ出した。彼らは口々に汚くアベルを罵ったが、勇者はそれを楽しげに聞き流した上で、もがく少年の腕を踏みつけた。
「うがっ!」
「暴れんなよ」
見下ろす瞳は、ぞっとするほどの冷たさを持っていた。
「この網はな、『バラ蜘蛛』ってモンスターの糸で編まれた特別な網なんだ。バラ蜘蛛の糸は粘着性が強い上に強固で大人でさえ引きちぎるには力がいる。それに加えてな」
そのとき、アベルの目を掻い潜って脱出を試みようとした子どもの一人が、大きな悲鳴をあげて、腕を抱え込んだ。
「いてぇっ!!」
「無理に引き剥がそうとすると、糸に生えた棘が肌に突き刺さるんだ」
抵抗を封じられた子どもたちは、自分たちを陥れた人物の正体を突き止めようと躍起になった。そして彼らが凝視した、『視界の右下』。彼の職業欄を眺めて、悲鳴を上げた。
「勇者ぁ?!」
「は? え? カインヘルド?! は? レベル1??」
「つーか、なんで勇者がこんなことすんだよ! 離せよ、正義の味方の勇者様だろ。俺らにつくせよ」
「あー、うっせーぞ」
アベルは抵抗できずにいる三人の少年たちの顔を、ブーツの先で蹴り上げた。
「カインヘルドだぁ? 俺をあのへたれ鬼畜と一緒にすんなっつーの。俺はアベル。勇者アベルだ」
「ぎゃあああ!」
そして、無慈悲に――棘の突き刺さった腕を踏みつけられる。
「ああ、そうそう。俺は勇者になりたてだから――ちょっと加減が分からなくてなあ。なあ、これ、痛い?」
踏みつけた足に、力を増して。血が滲む傷口に塩を塗りこむように、アベルは少年たちを踏みにじった。途端に上がる悲鳴に、アベルは笑う。
その顔は、嗜虐的な笑みに歪んでいた。
「痛いか? 痛いよなあ!!」
続く哄笑が、その場を冷たく支配する。青ざめた子どもたち――主犯格をのぞいて――は、正体不明の男に突然の暴行を受けて、やがて泣き出した。彼らは鼻をすすってアベルを恐れる。その中で、青ざめたライザだけが、声をあげた。
「あ、あ、ああああああああ、アベル!! 何してんだよ!!!」
「言ったろ、レベル上げだよ」
得意げににやにや笑う男は、視線で悪餓鬼どもを指した。
「別にモンスター倒すだけが、レベル上げじゃないだろ」
社会のゴミを掃除することが、レベル上げに繋がるなら、最高じゃねえか。アベルは笑う。笑って、ライザに『それ』を手渡した。
「ほら、ライザ。殴れよ。鬱憤たまってんだろ、ぼこぼこにしてやれ」
そう言って、手渡されたのはライザのものだった『ひのきのぼう』。
その意図を理解した少年たちは目をむいて、今度はライザをにらみつけた。その目は『殴ったらぶち殺す』と言っている。言っているが、正直今は勇者アベルの方が恐ろしい。
ライザは『ひのきのぼう』を握り締めて、少年たちの前に立った。
もうライザに何を言っても、無駄だと判断したのだろう。そこで青ざめた少年たちは、矛先を変えた。
「……て、てめえ! 勇者のくせに、卑怯だぞ!!」
睨んだ先は、勇者アベル。
「卑怯?」
勇者の体がゆらりと揺れた。
「卑怯ってのはな、三人で一人をぼこったり、モンスターの穴蔵に押し込めたり……」
アベルは、背中の剣を鞘からすらりと抜きとった。鋼の大剣は太陽の光を受けて、あやしく輝いた。
「この状態で、こうすることじゃねえか?」
そういうと、男はにやりと笑って切っ先で、主犯格の頬をなでた。途端に一筋血がこぼれ落ちる。
「ひっ!!! ひいいいいいい」
勇者のまさかの凶行に、少年はがたがたと震えながら後ずさる。
「どうだ? あ? 俺は、卑怯か? 卑怯だったら、もっとやらないといけねえこと、あるよな」
「……ひ、卑怯じゃないです!」
「あ? 聞こえねえなあ、あ”?」
「卑怯じゃあ!!!! ないです!!!!」
それは、もはや悲鳴だった。
ライザはそれを眺めて、逆に冷静になった。ああ、もう。十分だ。
「……もう、いいよ。離してあげてよ、アベル」
「は? いいのか? 殴らなくて」
「もうこれ以上ないくらい、痛くて、怖い思いはしたと思うんだ」
ライザがそういうと、アベルは舌打ちをして、腰につるした道具袋から小瓶を取り出した。人差し指程度の、小瓶だ。その中には白い粉末が入っており、アベルは網に絡めとられた少年たちにそれを振り掛ける。
すると、見事に網だけが溶けてなくなった。
がたがた震えていた少年たちは身柄を解放されると、誰も彼も逃げ出そうと立ち上がった。そのとき、
「まてや!」
勇者が叫んだ。
「忠告だ。知ってるか? 勇者ってのはな、移動魔法が使えるんだ」
「……・・・?!!!!」
「だぁかぁらぁな、いいか、今度こいつをいじめてみろ。俺が飛んできて、こんどこそ、この剣のさびにしてくれるぞ」
「ひいいいいいいい!!!」
子どもたちは悲鳴をあげて、一目散に四方へと逃げていった。
それを、見送ってライザは一言呟いた。
「……なんていうか、お前。最悪だな」
「最高の褒め言葉だ」
そう言って剣をおさめたのは、世界を救うはずの勇者だった。呆れて見つめるライザの視線を、彼は笑って受け止める。
「どうして、あいつら叩かなかった?」
「あれで叩いたら人間じゃないよ」
「まあ、いい。あれが、正解だ」
「え?」
「カインヘルドだったら、叩かなかったさ。お前は、正しいことをしたんだ。ライザ」
ああ、疲れた。そう言って、男は路地を出て広場に向かおうとする。リグレットを探すつもりなのだろう。しかし、ライザはそれを追わなかった。その場に立ち竦んで、顔を伏せていた。
「なんだよ、いこうぜ。ごりら探さねえと」
「……・・・わかんない。正しいことって何さ」
「は?」
「だって、勇者はお前だろ! 勇者のお前が、どうして正しくないんだよ!!」
混乱している。その問いかけが、その場に相応しくないことは分かっていた。けれど、ライザは叫ばずには居られなかった。
「勇者って、何だよ!!!」
「……ぷ」
しかし、ライザの叫ぶような問いかけに、答えた声は笑い声。睨みつけるライザの前で、アベルは腹を抱えて笑い出した。
「……なんで、笑うんだよ」
ライザの怒りが増す。真剣な話をしているというのに、この男は本当に空気を読まない。
苛立ちのまま、次の言葉を続けようとしたとき。
「……く、ぷ…………ああ、わるい。お前が――カインヘルドと、同じこというから」
「……は?」
「昔、あいつ――カインヘルドも俺にそれを尋ねたことがある」
「は? え? 勇者が? 勇者カインヘルドが、お前みたいなのに、勇者が何か聞いたの?」
そんな馬鹿なと、瞠目するライザに向かって、アベルは笑いに耐えて肯定した。
よほど壷に入ったらしい、なかなか笑いが収まらないまま、アベルは穏やかな笑みを浮かべた。
「お前らが思っているほど、あいつは完璧じゃないし、綺麗なわけでもないさ」
「だけど」
「完璧じゃなかったからこそ、あいつは俺を救ってくれた」
そう言った男は、リグレットと同じ。遠くを眺めて、過去を憂い懐かしむ、優しく――そして悲しい目をしていた。
「ライザ、カインヘルドに返した答えを丸ごとお見舞いしてやるよ」
「……」
「思い悩め。お前が願う、それが勇者だ」
「…………」
「お前は、勇者になりたかったんだろ。お前がなりたいと、理想に思った勇者の姿がそこにはあった。なら、それが。それこそが、勇者だ」
アベルの目が、ライザを見据える。
「ま、お前が勇者に失望して、なるのをやめた、とかだったら違うか」
そう言って、自嘲する男は、勇者。
「失望なんて……しない!」
この男には呆れはしたが、失望するわけがない。この男は、手段はどうあれ、ライザを救ってくれたのだ。そう、真実は。
「ただ……俺が諦めただけだ」
「あ?」
「勇者になるのを、諦めた」
「ライザ! アベル!!」
そのとき、走るリグレットが追いついてきた。その後ろには何故か、ライザの母が付き添っていた。
「ああ、よかった。戻ってこないから心配していたの。無事だったみたいね」
ほっと息をつくリグレット。彼女に向かって、ライザは言った。
「ねーちゃん、こいつ勇者じゃないよ! 卑怯だもん」
「……アベル、また何かしたのね」
「あ? ちょっと思い知らせてやっただけだぜ、悪餓鬼に」
「もう、貴方ってひとは」
ぺしりとアベルの頭を叩くと、ついで腰をかがめてライザに視線を合わせた。
「いじめっこたちに連れて行かれたって話を聞いて、心配していたのよ」
その頭を撫でたのは、母親だった。
「ライザ」
彼女はライザの頭を撫でて、そのあと手のひらに出来た切り傷に気付いた。母親はひどく悲しそうな顔をしたあと、その手を握り締めようとして、手に持ったものに気付いた。
「母ちゃん」
「これ、捨てないでくれて、ありがとう」
開いた手のひらの上には、『ひのきのぼう』。
『ひのきのぼう』は少年の夢。三年前に捨てたはずのそれを、拾った人間がいたとしたら、ライザの母親である彼女以外に考えられなかった。
「ライザ」
名を呼ばれて、ライザは母親の顔を見た。彼女の顔をまともに見たのは、三年ぶりだった。母親の顔には記憶のものより皺が増えて、目の下の隈は分厚い。けれど、その目は――色褪せることなく輝いていた。
「母ちゃん。俺……」
彼女に言わないといけないことがある。ずっと言えずにいた、ライザの本心。
しかし、いざ彼女の前に立つと、やはり心がすくむ。
「俺、そのっ!!」
怯えた心は、言葉を閉ざす。
そのとき。
「さっさと話せよ、諦めた理由」
思わぬ横槍にライザの頭ががっくり下がった。
「ちょっ、空気呼んで黙ってろよ!!」
その先は、勇者アベル。彼は鼻くそをほじくって、ライザに言った。
「俺が空気読めると思うなよ!!」
「うるせーー!」
「あーあーあー、はいはい。で、何で諦めたんだよ」
むかっと来て、ライザは叫んだ。
「父ちゃんが、死んだからだよ!!!」
「俺の父ちゃんは、三年前! 魔王の『血の祝杯』から皆を守って、殺された! だから!」
勢いのまま叫ぶと、目の端に涙が浮かんだ。
「俺はっ、母ちゃんを守って……、宿屋を継がなきゃいけない! 勇者にはっ! なれないんだ!!!」
ぼろぼろと涙をこぼして、ライザは叫んだ。
ずっとずっと、言えなかった。魔王から村人たちを守りきって父親は、死んで『英雄』と呼ばれた。しかし、そんな称号に何の意味がある。
思い出すのは、父親の棺を前に途方にくれた母親。
それでも悲嘆せずに、ライザの前で明るく振舞った彼女の苦労と苦悩を知っていた。
だからこそ、言えなかった。能天気に勇者になりたい? そんなこと言える筈が無かった。そして諦めた少年は、『ひのきのぼう』を捨てた。
父親を失ったライザの体は成長を止めて、彼のレベルは上がらなくなった。
「ねえ、ライザ」
「ごめんね。ずっとずっと忙しくて、気付いてかまってあげられなくて」
母親は、言った。
「ライザが、そんな風に思ってくれていたなんて、お母さん、とっても嬉しいの。だけどね」
ふわりと、両頬を包んだ手は、節くれだって荒れていた。父を失い苦労した母。たった一人で、宿屋を切り盛りして、ライザを育ててくれた母。彼女は言った。
「ライザには、やりたいことをやってほしい、だって、お父さんと一緒に素振りしてたライザは、さいっこうに輝いてたわ。ねえ、ライザ、勇者になって」
「お母さん、全力でサポートするから」
笑ってくれたその人を見て、涙が一層零れ落ちた。
「かあちゃん、かあちゃん…………」
ひしと抱きついたその体は、あたたかい。暗闇が、はれていく。ライザの奥底に沈着していた深い澱が、消える。ライザはぬくもりに包まれて、思う存分泣き声をあげた。
けれど。
「それに、勇者の宿屋なんて、大ヒット間違いなしよ」
最後の一言はいらなかった。
*
思い切り泣きはらした目は、腫れぼったかった。
照れくさそうに、ライザは鼻をすすって、アベルとリグレットに向かい合っていった。
「…………結局、お前ら何? 本当に、勇者なの?」
「残念ながら、ライザ。これが、勇者よ」
リグレットが楽しそうに笑った。その背後に、一人の男が立っていた。
見上げた先、大きな背中に背負うのは、帝国の紋章が入った剣。
勇者アベル。神殿で十五の試練に立ち向かった男は、ライザに振り返って不適に笑う。
「そう、俺が、勇者だ」
ライザを見下ろして、彼は言った。
「勇者になる、か。なってみろよ、宿屋の息子。おまえごときが、勇者になれるもんならな」
その態度は余裕綽々。お前になれるはずがないだろう。ひどく嬉しそうな目が、そういっていた。
「うっせー、卑怯勇者!!! おまえなんて、勇者じゃない!」
ライザは、ありがとうという言葉を飲み込んで、叫んだ。
「俺が、勇者になって、お前なんか倒してやる!! それまで、首洗って待ってろ!!」
それがきっと、この男には一番相応しい、見送りの言葉だったから。
「待っていろよ! 勇者アベル!!」
勇者アベルは腹から笑う。楽しげに笑って、ライザを投げ飛ばした。
*
日が暮れる。高く上った太陽は終わりのときを迎える。世界は夜に包まれる。その狭間。紅く染まった世界で、アベルとリグレットは楽しそうに笑っていた。
「楽しかったね、アベル。いい、村だったね」
「ああ」
そう答えるアベルの声は明るい。
前の街は散々だった。リグレットは魔女と罵られ、子どもたちに石を投げつけられた。
リグレットは泣いて、アベルは怒り、それは最悪な記憶となった。
「だから! 俺がカインヘルドだってば!」
そのとき、声が聞こえた。
夕焼けを背景に、聞こえたのは子供たちのはしゃぐ声。村の子供たちだろう。ライザよりも幼い、四、五歳ほどのかわいい盛りの子供たちが、紙で作った剣を手に、声をはりあげる。
「なに言ってるんだよ、さっきも勇者だったろ。次は、ぼくだよ!」
「あたし! あたし!」
「おまえは、女だろ。幼なじみの僧侶かお色気魔法使い!」
「だめ! 私が僧侶セス!」
「……僕、闇の貴公子やりたい」
「あ、私も!」
「俺も、アーベンルーシュ!」
「誰か、戦士ダイアン役やれよー」
言い争う声は、やがてくじ引きへ。そして、笑い声に変わる。
こどもの好むごっこ遊びだ。
そう、ただの、ごっこあそび。
それを、リグレットはまぶしそうに眺めた。眺めて、その目に涙が滲んだ。
「『血の祝杯』」
かみ締めた唇、苦しげに閉じられた目蓋は、彼女の苦悩を映していた。
「こんな僻地にまで、犠牲が出ていたなんて。ライザのお父さんも……」
「お前のせいじゃない」
はっきりと、男は言った。
「お前は、悪くない」
断言する男。少女はそれにすがりつくように、その背を見つめた。
「倒せるかしら……魔王」
「やるしかないだろ、ぐじぐじすんな。あきらめたら、終わりなんだろう」
アベルは力強くリグレットの手を握る。
「ほらいくぞ」
ぐっと唇をかみしめて、アベルは言った。
「魔王カインヘルドを倒すんだ」
後悔の名を持つ女は涙を浮かべて、強くつよく杖を握りしめた。
次で終わりです。