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endless  作者: 藤沢藤秋
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2

 カメラに焦点のない黒髪の男が、写真の片隅にたたずんでいる。

 しかしその目線には、しっかりとちからが宿っていて、うみの底のような深さをたたえているのが、時代錯誤の白黒写真でもわかる。男はなにを見ていたのだろうか。風景写真の、うつくしい景色の片隅でどこかを見ている彼の視線が、いちどでもいい、こちらに向くことがあるのなら―――どれほどいいだろう。祖父が、そう思っていたのがうかがえる。はりつめた心地よい緊張感のある姿勢、いさぎのよい足運び。写真のなかで、彼が動く。おれはそれを目で追う。何度も祖父の書斎にあしをはこぶ、そのたびにおれはだんだんと祖父とシンクロしていく。こいをする―――この黒髪の男に。

 男は、生きていたらいくつぐらいだろうか。写真のなかには学校関連らしきものもあるし、制服を着た初々しい祖父のあどけない笑顔もあるから、おそらくふたりはおなじ学校にいたのだろう。同じ学年だろうか、それとも年上だろうか年下なのか。男はアジア人のようだから、留学生だろうか。祖父は、いつどこで、彼をみつけたのだろう。そのとき、どんな心持がしたのか。写真の日付をたどりながら、ゆっくりと想像をめぐらせる。写真の日付を追うごとに、男の背がすこしずつ伸びていくような気がした。祖父はそのすがたをどう思っていたのだろう。なにか気づいたりもしたのだろうか。

 昼下がり、仕事をきりあげてはこの書斎に通って、もうずいぶんたつ。祖父がなくなってからというもの、ルーチンワークのようになっていて、親族からは未だに祖父の死をかなしんでいるのだとなぐさめの視線をなげかけられることが多々あった。ほんとうのところはまた違っているのだけれど、祖父の死をかなしんでいるのは真実だ。祖父が生きているうちにこの写真を見せてくれれば、この男との顛末も聴けたのだけれど。しかしそれはかなわない。祖父はもうなくなったのだ。しかもきっと、生きているうちでは、祖父もおれもこころをひらくことはなかっただろう。孫とはいえ、祖父とはあきらかに遠い距離があった。それは孫のおれがもったのではなく、祖父がのぞんで開いたものだった。おれは、祖父に抱きしめられたこともない。死んでからおたがいようやくこころの交流をしているかんじだ。この写真のかたすみを通じて、おれたちはあの世とこの世の間で、音のない言葉のやりとりをする。祖父はけして質問にこたえることはないけれど、カメラのファインダーごしに見る男への目線は、あきらかな感情をものがたっている。

 あの男は、祖父に気づいていただろうか。その感情にも。

 写真の中でこちらをちっとも見ることがない男を、おれは見つめた。

 何十年という時を越えて、幾度となくこの写真の男と逢瀬を重ね、写真がなくとも目を閉じれば、いちまいいちまいの写真の輪郭が、おぼろげながらもよみがえってくるようになった。落ち葉のしきつめられた公園、パーティー会場のかたすみ、同級生たちが笑い合うその肩越し。そこにいたわけではないのに、アニメーションのようにすべてが動き出し、まるで自分自身の記憶をたどるかのような錯覚におちいることさえあった。すべては過去のはずなのに、おれの頭の中で、それはだんだんと現在と並行するようになっていく。不思議な感覚だった。おさないころから、想像力はたくましいほうだと自覚してはいたが、こうまでいくと、もう重症だと思う。しかしそれを、俺はけしていやに思っていない。祖父は亡くなった。言葉で、ほんとうのこの写真の時間のことをつづられることはなかったからこそ、おれはこの写真の時を、現在にいながら感じることができるのかもしれない。

 それを、俺は、いやに思うことなどないのだ。


……


 日本からの留学生だった。

 ある朝、教室のどこを向くにしても、みんな同じ話題だった。私は戸惑いながら着席し、そしてそこへ近寄ってきた友人にそのこたえを聞くことになる。寄宿舎学校でのたのしみなんて、たかが知れている。ふしだらな恋愛のはなしや、教師の悪口、わるいまじないを行ったり、しきたりをこっそりやぶること。そんなちいさなたのしみだけが、全員が全員身につける、この狭い空間にいてこころをなぐさめるすべだった。なにしろこの空間はほんとうにせまかった。どこもかしこも視線にさらされ、規則や罰則にこてこてにしばりつけられ、あげく神にまですべてをみすかされる。なにがたのしくてここにいるのかはわからない。しかしここしか居場所がなかった。

 そんな空間に舞い込むたのしみは、大きいものだとたとえば、あたらしい人間がくるというしらせだった。

 そしてその朝、彼はやってきた。

 黒い髪、黒い眼、黄色い肌。われわれとは色を違えている。しかしひときわ、彼のもつ黒は不思議な魅力を持っていた。黒い眼はともかく、黒髪の人間はそこらじゅうにいる。しかし多くの人間がつややかである程度光をもっているのにたいし、彼の髪は真っ黒だった。まるでしっとりと雨にうたれてきたような色であった。睛は、闇にしずんでいた。てりかえしはなく、底の底のほうまで見えない沼のような、どっぷりと闇につかったような―――、そんな、黒。

「こんにちは、日本から来ました」

 落ち着いた声の、発する英語は、よどみなく、流れていく。

「はじめてで、いろいろわからないことがありますが、」

 黒い睛が、空間をすべてのみこんでいく。彼の睛はどんなふうに色を映すのか、うすく闇でもかかっているのだろうか。

 ふと、睛がこちらを向く。

「よろしくお願いします」

 そのとき、はじめてその黒を、こころのそこからこわいと思った。


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