マナー講習
アンバーに連れられて初めて入った執務室は広々としていた。調度品は少なく、実務的な机と椅子。後は来客用のソファや長机があるだけだ。
書類とかは見当たらないけど、私が来るから片づけたのかもしれない。
「お連れしました、殿下」
「ああ、ありがとう。アンバー」
アンバーが声をかけるとグレイ隊長と何事か話していたクロッカス殿下はこちらを向いた。
形式的な礼を取って、殿下に話しかけられるのを待つ。
「昨日は大変だったな。私の時間がなくて送るだけになってしまってすまなかった」
「いえ、とんでもございません。送っていただいてありがとうございます。助かりました」
「お腹を空かせたまま帰したのは申し訳なかった。良ければ今度一緒に食事でもどうだ? 昨日はあまり話せなかったからな。お前と気兼ねなく話がしたい」
殿下の前でお腹を鳴らしたせいで、腹ペコキャラだと思われてるのだろうか。
しかし王族と一緒に食事だと?
無理無理無理。緊張で胃が死ぬ。絶対に食事の味がわからないよ。
「私は庶民で食事の作法もなってないと思います。一緒に食事をされると殿下が不快な思いをされると思いますので……」
なんとか辞退する口実を探したが、それにクロッカス殿下が首を傾ける。
「そう言った事はお前の保護者が教えていると言っていたが?」
院長ーーー!! そんな事まで殿下に話してるの!?
確かに院長に貴族的なマナーとか作法とかも教わったけど、使う機会なんてないと思ってた。人生何があるかわからないものだ。
具体的に言えばジェードが妙な勘違いしてた夜間のお菓子パーティとか、お菓子に釣られてたけどほとんど作法の勉強会だったからな。
1つでも間違えると食べさせてもらえないスパルタ講習だった。
『院長~。こんなのどこで使うんですか? 絶対に必要ないと思うんですけど』
『そんなことないよ。サクラは可愛いから、突然現れた王子様に見染められたりするかもしれないじゃないか』
『そんな御伽噺みたいな事、あるわけないじゃないですか』
『本当にあるんだよ! 実際に君のは―――』
『は?』
『…………。とにかく! ちゃんと覚えるんだよ!』
『えー!』
そんな話をして強制的に押し切られてしまった。
しかしそんな細かい話まで殿下にしてるなんて、院長は相当殿下と親しいのでは?
「そんなに形式ばった物にはしない。居るのは私たちだけだ。私は口うるさく指摘したりしないから、安心すると良い」
殿下が凄く優しい目で見つめてくる。
うっ、断れない。
いや、待て。まだだ。
「殿下。その、私とのことで噂になっていますので、個人的に食事等は問題なのでは?」
「そうなのか?」
殿下が側近二人に視線を向ける。
それを受けてアンバーが話し始めた。
「はい。ですが気にするほどの事ではないのでは? 殿下のお気に入りにちょっかいかけてくるお馬鹿さんは早々いませんよ」
にこやかに言っているが、それってフラックスはお馬鹿だと言ってるような物では? やっぱりアンバーってフラックスが嫌いなのでは?
「そういう問題ではない。私のせいで不快な思いをさせてしまったか?」
「いえ、私は特に。フラックス様以外からはそんな話聞いたこともありませんし、特に問題があったわけではありません」
噂はあくまで噂で、そんなに大したことじゃないのかもしれないけど、フラックスが心配してたくらいだしなぁ。
私の言葉に殿下が何か納得したように頷く。
「そうか。お前に何かあればお前の保護者が黙っていないし、そもそもお前に噂が届いていない時点で何か関与してるだろうな」
「嬢ちゃんに関して意識が向かないように何かの術で城ごと干渉してんじゃねーの。アイツ」
「そうかもしれない」
殿下とグレイ隊長は納得して頷いているが、私は納得していない。
人の深層心理に作用する術を城全体に?
それは何かしらの法で裁かれるべきでは?
そもそも人の心に作用する術は禁術では?
数々の疑問が脳内を駆け巡ったが、私が関わることなので黙っておくことにした。
私まで巻き添えで罰せられそうなので。