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穴の底  作者: 野狐
2/2

その二





 昌隆は疑問に思った。一番下を流れる水が太陽の光を浴びて僅かながら輝いている。その横の影の中にブレイブはいた。青鹿毛の毛並みは影の中に溶け込んでいる。その中から変わらない凛々しい二つの瞳が光っている。その瞳に昌隆はゾクリと恐怖を覚えた。背中を幾本もの指が這い上がっていくような感覚がした。冷たい空気が脇の下を踊るように駆け抜けた。耳の後ろを一筋の汗が伝い、顎を通って落ちる。

「なんだその目は、お前の主人に対する目か!」

 叫びはしたが恐怖のあまりブレイブを直視することが出来ない。そうして自分の腰に目をやるとあることに気がついた。腰に付けたウエストポーチのジッパーが空いている。両手が塞がっているのではっきりとは見えないが中にはとっておいたササミのジャーキーがなくなっているではないか。確かに自分は食べてはいない。昌隆は影の中のブレイブを見た。するとブレイブは暗がりの中で何かを口にしている。昌隆は咄嗟に「やつめ俺のジャーキーを!」と思った。

 ぶら下がったまま昌隆の中に怒りが込み上げてきた。飼い犬に対する恐怖などはいつの間にかどこかへすっ飛んでいってしまっていた。ただただ自らの家来に裏切られたという感情が怒りとなって込み上げてきたのだ。自分よりも下のものに一杯食わされたという感情が怒りとなったのだ。

 全ての、これまでの忠誠心が嘘偽りであったという感情。昌隆は自分の瞳が熱くなっていくのを感じた。奥歯がガチガチと音を立てるのを聞いた。

「てめぇ、この野郎・・・それは完全に裏切り行為だぜ、犬の分際で・・・この俺を図ったとでも思っているのか!」そう叫んだときには昌隆は木の根を離し、穴の底へ飛び降りていた。

 叩きつけたように水しぶきを上げて穴の底へ落ちると、昌隆はブレイブへ躍りかかった。そしてブレイブの首を素早く両手で掴むと、首を絞めながら持ち上げた。

「捕らえたぞ、この裏切り野郎が、俺のメシを返しやがれ!」昌隆は狂気にも似た声を張り上げた。「てめえの名前はブレイブなんかじゃねえ!グレイブだ!この場所をお前の墓場にしてやるぞ!」

 ブレイブはバタバタと四本の足を振り、前足の爪を昌隆の二の腕に引っかけたりしたが、昌隆は動じなかった。爪の食い込んだ肌からはじわりじわりと血が溢れる。昌隆は気にも掛けずブレイブの体を振りながら力を込める。

「さぁ見せてみろ!泥棒猫・・・違うな、泥棒犬め!お前が盗人みたいにこの俺からくすねたものを!」

 昌隆はブレイブの体を光の下へと連れ出した。しかし勝ち誇っていた昌隆の表情は一変、信じられないといった表情へと変わった。子供が始めてF-1を見たときの表情のような。もしくは宝くじが当たったときの一瞬の表情にも。

 光の下、ブレイブがくわえていたものは昌隆が思いこんでいたササミジャーキーなどではなかった。三日前、あのとき昌隆がブレイブに取ってくるように言って投げた楡の木の枝でしかなかったのだ。あっけにとられている昌隆に対して、ブレイブはくわえた楡の枝を吐き出した。楡の枝はすとんと昌隆の顔の上へ落ちて、それは丁度昌隆の右目に直撃した。途端に赤い鮮血が目から飛び出す。

「ぎゃああ!」昌隆は悲鳴を漏らし、あまりのことにブレイブの首から手を離して両方の手で右目を押さえた。

 昌隆の頭の中に何か得体の知れないものが一筋、まるで電気が走るように通り過ぎた直後、その声はふいに聞こえた。

「ちゃんと枝はあんたの元へ届けたぜ、ご主人様」

 その声は低い声だったかも知れないし、何かのアニメの声に似ていたのかも知れない。もしかしたら全く聞いたことのない初めて聞く声だったかも知れない。映画スターウォーズのハンソロの声にも似ている気がした。だが確かなのはその声がはっきりと昌隆の耳に聞こえたことだ。

 驚いた昌隆が振り向こうと体を起こした瞬間、ブレイブは昌隆の肩を蹴り上げて、巧みに穴の入口まで登っていった。一番上まで登り切ったブレイブは顔を出し、一番下でうめいている哀れなご主人を見つめた。

 穴の下では昌隆が絶望の表情でブレイブを見上げている。左目からは涙を、右目からは涙と血の混ざった赤い液体を流しながら、その声は神に助けを求めながら地獄へ堕ちる罪人のようなものだった。雲がまた太陽を覆い隠して光を遮る。穴に蓋をするかのように影が昌隆を覆った。

「もうこれまでだな。俺は精一杯に勤めてきた気でいたが。恩恵のない主従関係は成り立つことはないな」

 ブレイブは昌隆に向かってそう言い放った。昌隆がこれを聞いていたのかどうかは分からない。ただ穴の側を離れるブレイブの耳にはしばらくの間、昌隆の助けを求める声が聞こえていた。

 草の流れる音に溶けていく空しい声。

 地面の下から聞こえてくる奇妙なすすり泣き。

 哀れな愚者のそれ。


 一陣の強い風がキャンプを駆け抜けて、パラソルがけたたましく音を立てた。テーブルの上のプラスチックのコップは数メートル風に飛ばされて、音もなく草原に落ちた。風が木々を轟々と鳴らし、森全体が揺れる。

 木之本は新聞をたたんでそれを脇のテーブルに置く。それから原っぱでサッカーをして楽しんでいる滝下と吉岡に目をやった。ふと脇に目をやると遠くから犬が一匹、自分の所へ向かって歩いてくるのを見つけた。それがブレイブだと木之本には一目で分かった。木之本は、八賀昌隆は自分が一番偉いと思っていて横暴で、つまりは自分の事を馬鹿にしているのであまり好きではなかったが、ブレイブは頭がよく、従順な犬だったので気に入っていたのだ。自分の方がブレイブとはいい関係が築けるとも思っていた。木之本が手を叩くと、ブレイブはすぐによってきた。

「ブレイブ、どこに行っていたんだ?体が濡れているし、随分と腹を空かせた様子じゃあないか?」

 木之本はクーラーボックスから足を降ろすと、中から昼飯のときに余った生肉を数切れ取り出してブレイブにやった。ブレイブはそれを勢いよく食べた。

「お前、まるで何日もまともに飯食っていなかったみたいな食べっぷりだな。主人に餌をちゃんと貰っていないのか?」木之本は笑いながらそう言った。

 食べ終わったブレイブは木之本の椅子の横に伏せて眠りだした。疲れたように小さな寝息を立てている。木之本はブレイブの背中をさすって、雲の流れる空をのんびりと眺めていた。遠くに巨大な入道雲があり、シルクのように柔らかそうで、しなやかで。風が吹く度に草が流れ、それにサッカーをしている二人の声が乗ってくる。

「なぁブレイブ」木之本は言った。「俺と一緒に暮らすかい?」






「穴の底」了いです。

ありがとうございました。

もしも説明できないような状況に陥ったときに、自分は果たして冷静なままでいられるでしょうか?皆さんはどうですか?

昌隆は終始自分のことばかりを考えている、言ってみれば自己中心的な男ですが、本当にブレイブのことを信じていたのかもしれません・・・

感想を聞かせてもらえたら嬉しいな。

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