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穴の底  作者: 野狐
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その一




「あぁ、どうしたらいいんだ。くそ、水が、くるぶしの所まで来てやがるぞ・・・くそ、くそ、くそ」

 男は壁に手をついて空を見上げた。空は青く澄んでいて、男はこれほどに美しい空を見たことはなかった。白い雲は千切れながらゆっくりと流れていく。足下を流れる水の音と、風に流れる草の音が聞こえる。いや、それだけしか聞こえない。他には・・・そう、蝉の声。

 男の足にまとわりついてくるものがあった。それは五歳くらいのオーストラリアン・キャトルドッグで、名前をブレイブといった。凜とした瞳に筋肉質の体、ブルーの毛並みを持つブレイブは飼い主の男を見上げた。男はブレイブを見下ろすと、それまで強ばっていた表情をふっと緩ませ、優しく唇の端を持ち上げながらブレイブの頭に手を置いた。

「よしよし、大丈夫だぞ、ブレイブ。きっと誰かが助けを呼んでくれる。上には滝下さんだって、吉岡君だって、いるじゃないか。おっ、もしかしたら気づいてくれるのは木之本さんかも知れないぞ、ははっ、それはないかな。お前も知っているだろう?あの人はもう歳だぜ。まだ四十五かそこらだけど、アレは頭の中は八十過ぎのじじぃだね。朝飯喰ったかどうかさえいつも忘れてる。その内に助けが来るさ、きっと」男はそう言ってブレイブの前に座り込むと、両手で彼の頬をそっと掴んだ。「お前は可愛いヤツだなブレイブ。それにその名前、ブレイブ、俺に凄い勇気をくれるよ。ブレイブお前は勇気の象徴だな。こんな状況に陥っても、ちっとも怖くなんかないぞ。逆にアレだ、お前といると楽しくなるものな。可愛いヤツだ。もっと近くでその顔を見せてくれよなぁ、おお、よしよし」

 男はブレイブに頬ずりしてきつく抱きしめた。ブレイブはその締め付けの強さから逃れようともがいたが、男は離そうとしなかった。ブレイブは小さく唸りを上げながら、結局十数秒の間男の抱擁に耐えた。足下を水がサラサラと流れていく。


 男の名前は八賀昌隆。仕事はプログラマーをしている。歳は先月、七月で三十五歳になったばかり。都会の喧騒から逃れるために、夏の休暇を利用して仕事場の仲間数人とキャンプへ来ていたのだ。場所は山の中だし麓の村から車で二時間もかかるところだが、言わば隠れスポットだった。近くに小川も流れているし、空気も上手い。都会暮らしの長い昌隆にとって(他のメンバーにしてもそうだが)都会で飲む水とこういう場所で飲む水、これらを同じ水という種類でまとめてしまっていいものだろうか、とついつい考えてしまうのだった。

 一人と一匹がこの今の状況へ陥ったのは三日前のこと。昼飯のバーベキューで胃を満タンにした二人は落ちていた楡の木の枝を持って、原っぱで遊んでいた。昌隆が思い切り楡の枝を投げ、それをブレイブが追い、そして拾う。犬と人間の遊びとしては最もポピュラーな遊びではあるが、昌隆はその遊びこそが最も犬が飼い主に対しての忠誠心を体現するものだと信じ込んでいた。

 二人は幾度となく同じ行為を続けていたが、そのときは違った。昌隆が思いきり楡の枝を投げると、それはサーカスの空中ブランコ宜しくクルクルと回転しながら、少し草の伸び出した原っぱの端へ飛んでいったのだ。ブレイブはじっとその行方を見送った後、ひらりと体を翻し跳ねるように落下地点へ走っていった。いつもなら俊敏なブレイブはほんの数秒で枝をくわえて戻ってくる。しかしそのときばかりは違った。ブレイブがなかなか戻ってこない。昌隆は心配そうにブレイブの名前を呼びながらその方向へ走っていった。

 ちらりと振り返ると日よけのパラソルの下で、木之本がリクライニングチェアーに腰を掛け、クーラーボックスに両足を乗せた態勢で、老眼鏡のように眼鏡を少しずらし新聞を読んでいる。その木之本が振り返った昌隆のことをマネキンのように無表情で見ていた。昌隆はそんなことは気にもせず、顔を前へ戻してブレイブの消えた原っぱへ向かって走っていった。

「ブレイブ、おい、どこだ、ブレイブ」

 そう叫んだときだった。突然足下にぽっかりと穴が現れたのだ。穴は昌隆を飲み込まんと口を開けて構えていて、声を上げる間もなく昌隆はその穴の中へ落ちていった。不思議なことだが昌隆は落ちていく間「あぁ、分かったぞ、ブレイブはこの穴に落ちたんだな。犬のくせに間抜けなやつめ。もう歳なのか?いやあいつはまだ四歳・・・いや五歳じゃないか。人間の歳に直すと・・・どうやって計算するんだっけかな?三十四五歳ってとこかな?じゃあ俺とあまり歳は変わらないってことになるな」とこれだけのことを考えてのけたのだ。

 昌隆が穴に足を取られ、一番下に落ち着く僅か一秒程の間に。

 穴の底は直径一・五メートル程の結構な広さがある空間で、五、六メートルはある縦穴だった。手を触れるとしっとりと水分を含んだ土壁はぼろぼろと崩れてきて、夏だというのにひんやりと涼しかった。太陽の光が穴の一番下まで差し込んできていて、足下に水溜まりがあるのが分かる。影の中に何かいるのを昌隆は気配で感じ取った。そこにはブレイブが待っていた。口には楡の枝を加えている。

「ブレイブ、こんな所にいたのか。でも、くそ、なんだこの穴は。落ちちまったじゃないか。でも、おっ、怪我はないみたいだぞ」昌隆はそう言いながら体をさすった。「運がよかったと言えばそうか。結構深い穴だものな。ブレイブ、どうだ?お前は怪我はないか?」

 ブレイブが一度吠えるのを聞いた後、昌隆は立ち上がって穴の入口を見上げた。

「井戸って訳じゃなさそうだな。おい!誰か!聞こえないか!ここだ!ここだ!」

 叫び声は穴の中に跳ね返りながら消えた。ブレイブもまた大きく吠えた。不審者を見つけたときの吠え方、雄叫びを上げるときの吠え方、幾度吠えても同じように穴の中にかき消えてしまう。そしてその音が止むと突然やってくる静けさ。ぱらぱらと穴の側面から土が落ち、昌隆の肩にかかった。

「水だ!冷たい、靴が濡れてる。地下水か何かかな。三万もした靴だってのに。でも井戸じゃないならこの穴は何だ?自然の穴ってことか?どこかで聞いた話でもあるまいし・・・何だったっけかな?何で見たんだ?思い出せないが・・・何だっていいさ、誰か!」

 叫びながら、穴の口から見える空は黒く染まり、また陽が昇り、黒くなり、青くなり、そうして三日が経った。恐ろしさは何もなかった。別に一人ではないし、恐れたってどうしようもないと思ったからだ。食料は昌隆のウエストポーチに入っていた。ブレイブにあげるための犬用ビスケットやササミのジャーキーだ。それで何とか凌いだのだ。それを二人で分け合っていたのだが、昌隆はジャーキーを一枚ポーチのすみへ隠しておいて、いざとなったら食べようと考えていた。

 穴の底から見える空を見て、昌隆は思った。都会のゴミゴミとしたうるささから逃れるためにみんなでこのキャンプを計画した。あの街で見上げる空はどこもかしこもビルで切り取られた正方形か長方形の空ばかりだ。それが本物だと知っていても作り物のようにしか思えないような空。本物には見えなかった。今見えるのは正方形ではないし・・・それに長方形でもないな。駄作の四角形だが、無理に言ってみれば平行四辺形、そうとも言えるような形だ。その切り取られた空を雲がフラフラと流れていく。雲の流れる音っていうのはどんな音なのかな?今まで見て来た雲には決まって自動車のエンジン音やクラクションのバックコーラスか、それに人間どもの歩く足音が付いてきていたが・・・本当は音なんてないのかも、と。


 話は戻る。昌隆はブレイブの両頬に置いた自分の手をそっと離し、それから立ち上がった。それからびくんと体を震わし、自らの尻に手を置いた。

「あぁ、濡れてやがる、俺の尻が、くそう、冷たい。どうにかして、登れないのか?」そう言って壁の土をガリガリと削った。「おい!どうして誰も助けに来ないんだ!市は!警察は何をやってるんだ!こんな時のために税金を払ってやってるし、保険料だって払ってるのに!」

 そう言いきったとき、太陽の下を一際大きな雲が横切って、穴の中に影を落とした。昌隆は口を大きく開いたまま声にならないような声、悲鳴じみた声を上げた。その影は彼にとって絶望にも似た、恐怖を感じさせる影だったのだ。

「そうだ、思い出したぞ、似たような話・・・そうだ、あの話だ。ブレイブ、思い出した。エジプトの話なんだ。新婚の夫婦がいた。二人は何だったかな・・・そうだ映画だ、映画を見て家へ帰る途中だった。二人が連れ立って十字路を曲がると大きな水たまりが出来ていた。夫は妻を先に行かせようとした。すると突然地面が裂けて大穴が口を開いたんだ。妻は大声で叫んだがすでに遅くて・・・それでその穴の中に飲み込まれていった。地震が起きたわけでも何でもない。いきなりの出来事だ」昌隆は体を震わせながら眉を心配そうに落とし、ブレイブにしがみつくようにして続けた。「その妻っていうのが結局見つからなかったんだ。地元の人間がみんなでその場所を掘り起こしても、泥を取り除いても、全く見つからなかった。妻は死んだのだろうって。俺たちも、もし、そう、見つからなかったらどうしよう・・・死んでしまうのか?」

 徐々に穴の中には太陽の光が戻ってきた。肌を焼く夏の日差し。あの日差しを昌隆は首筋に感じ始めていた。ブレイブは一度高く吠えると、依然凜とした目つきで昌隆を一心に見つめていた。動じる様子もなく、まるで飼い主を慰めるかのように。昌隆はそんなブレイブを見てはっと我に返った。そして水の中に膝を落としてブレイブの首を抱いた。

「そうか、そうだな、ブレイブ。全くお前はこの俺に勇気を与えてくれるな。その名前だブレイブ。格好いい名前。その名前にしてよかったとほんとに思ってるよ。お前をペットショップで見つけて、ははっ、十万もしたがね、いい買い物をしたよ」昌隆はニヤリと笑った。「俺は生きるさ。エジプトの花嫁みたいな結末になんてなりゃしない」

 昌隆は立ち上がって壁に手をついては移動し、手をついては移動し始めた。そして一周、穴の中を一通り歩き回ると確信したように薄ら笑いを始めた。

「思った通りだ、なぁブレイブ。ほら見ろ、木の根っこだ。そいつらが土の中から出てる。これを上手く使えば俺は出られるかも知れないぞ。いや出られるね」昌隆は大きな声で言った。「腹が減ったぜ。穴から出たら、そうだな、バーベキューの肉がまだ残ってたはずだ。あいつらまだ残してるかな。もしあったら、冷凍でも、生でも全部食いきってやるぞ。それに俺の大好きなヨーグルトだ。あの酸っぱさがたまらないんだよなぁ、ふぅ、早く食いたいなぁ。ん、ブレイブ?そうか?お前もヨーグルト好きだものなぁ。お前も食えたらいいな」

 ブレイブは嬉しそうに後ろ足二本で立ち上がり、昌隆の足にしがみついた。主人と共に出られる。そう感じたからに他ならない。だが次の瞬間、ブレイブには思いもよらないことが起きたのだ。昌隆は鬱陶しそうにブレイブを振り払った。ブレイブは何が起こったのかは分からなかったが、もしかしたら自分が何か主人を怒らせるようなことでもしたのではないか、とも思った。だが違った。

 昌隆はじっとブレイブを見下ろして言った。

「おいおい、勘違いしちゃ駄目だぜ、なぁブレイブ。お前に根っこを掴む指でも付いているのか?付いていないだろ?それに俺はお前をおぶって上まで登るだけの力なんて持っていないんだ。ほら、見えるか?」

 ブレイブは昌隆の指さす場所を見た。そこには陽の光に照らされた太い根っこが土壁の中から覗いている。人一人がぶら下がったとしても決して切れることなどないような立派な木の根が。

「理解できるか?ん?ふぅ、服従することしかできないお前たち犬にな。お前は立派な犬だった。本当に俺に勇気をくれるし、もしお前がいなかったら俺なんて、ふぅ、どうなっていたやら」

 ブレイブは昌隆を見たが、昌隆はブレイブを見ようとしなかった。薄ら笑ったままで両手を中空に翳して、時折奇妙に息を漏らす。

「理解できたか?ブレイブ、お前も、つまりはね・・・こういう事だ!」

 そう突然に声を荒げた昌隆はブレイブの背に足を掛けると、ブレイブを踏み台にして飛び上がった。ブレイブは蹴られた衝撃で端へ飛び、ゴロゴロと転がった後、伏せるようにして昌隆を見た。昌隆は根っこにしがみつき、足を土壁に引っかけていた。

「はははっ、悪いなブレイブ。運が悪かったと思ってくれよ。それにお前のご主人様は助かるんだ。使えるお前としては最も光栄な事じゃないか。そうだろう?」

 嫌らしく笑いながら昌隆は少しずつ登っていった。ブレイブは何度か吠えながら昌隆を呼んだが昌隆は応えようともしない。

「間に合ったら助けを呼んでやるよ、安心しなよ。取りあえずは俺が助からないと、な」

 笑い声が縦穴を響いて下っていく。昌隆はブレイブを見下ろした。狂気じみた笑いを、不安に包まれた声で吠える優秀な飼い犬に向けるためにだ。だが昌隆は笑うのを止め、逆に不思議そうな面持ちで穴の底を見た。

 どういうことかブレイブは全く吠えていない。

 ぴたりと吠えるのを止めてしまったのだ。






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