第四話
そしてその言葉が効いたのか、その日の夜、案の定いま近くに来ているから出て来れないかという香取さんからの連絡が入った。
官舎から出ると見たことのない赤のRAV4。ちょっと意外な車に乗っているなあと思いつつ運転席を覗き込むと、やはり乗っていたのは香取さんで助手席側のドアを中から開けてくれた。
「俺の部下を脅したそうだな」
私が助手席に座ってドアを閉めた途端に開口一番、そんな言葉が投げかけられた。
「脅したのはそっちじゃ? 一ヶ月であのやつれようは尋常じゃないですよ」
口元がニヤリと歪んだ。悪人の顔だ、間違いなく悪人面だ……。
「何のことを言っているのか分からんな」
そんな悪魔みたいな笑みを浮かべておいてしらばっくれるつもりなのか、この人は。
「磯貝さん、一ヶ月間誰かに監視されて追い回されたって言ってましたよ?」
途端に無表情になった。
「俺達は何もしていない。この一ヶ月間は市街戦向けの訓練をしていただけだ」
「何処で?」
「それは機密事項だ」
「訓練内容は教えてもらえないんですか?」
「対テロ作戦の訓練だから詳細は話せないが監視、追跡、潜行、諸々といった一般的な訓練内容だな」
はーっと溜息をついた。
「それを一ヶ月間も民間人相手にやったんですか、信じられない」
「民間人? 何のことだ」
何を今更な言葉だ。
「一体お面さん何人使ったんですかあ……」
「だから何のことかさっぱり分からんな」
「今更ですよ香取さん。私は情報分析官です。色々な情報の断片を組み合わせれば、磯貝さんを追い回したのが貴方達だってことぐらい分かります!」
フンと鼻で笑う香取さん。笑っている場合じゃないでしょと言いたい。
「俺は自分の縄張りに踏み込んできた奴を追い出しただけだぞ」
専守防衛だろうがと不機嫌そうな口調で付け加えた。
「縄張りって……野生動物じゃないんだから」
「取り決めが終わるまではあんたは俺の縄張りの中の人間だ。それを好き勝手に追い回されるのは気に食わん。あんたこそ迷惑していたんだろうが、あの男には」
「そりゃそうですけど」
そう呟いてあることに気がついた。
「もしかして香取さんが電話で変わったことは無かったかって聞いていたのって」
「奴があんたに接触しようとしていないか確認していただけだ」
やっぱり。
「とにかく、お面さんにも言いましたけどこれ以上は深追いしないで下さいね。ただでさえ香取さんの所属しているところは色々と風当たりが強いんですから」
「こちらの正体が分かればの話だろう。奴は俺達の事をただのヤクザかチンピラだと思っているらしいからな」
確かにあの様子だと最後までヤクザだと信じて疑っていなかったと思う。まさか自分を追い回していたのが特別国家公務員とは思わないだろう。ニヤニヤ笑っている横顔を見ていると私も実はこの人、ヤクザじゃないかって思えてくるのだから。
「何て言うか、とにかく付き纏われなくなった事に関してはお礼を言っておきます、一応。けどやり過ぎじゃないかって私は思いますよ? いくらその、訓練でも……」
「もう暫くは監視下に置く。本当に寄ってこないか確認して終了だ」
容赦ないな、この人は。決して敵には回したくない。
「部下の人が可哀想……」
「そうでもないぞ。皆、楽しんでやっている」
「それは貴方もでしょ……」
だからそのニヤリはよせと言いたい。
「……俺、実はバツイチなんだ」
「え?」
いきなり話が変わったの香取さんが何のことを言っているのか理解するのに少し時間がかかった。
「入隊してから直ぐに結婚したから二十歳前の若造だった頃だ。嫁になった女は訓練で不在がちの俺との生活に耐えきれなくなったらしく同じ官舎に住んでいた事務屋の男と浮気をしやがった」
そこで一度言葉を切るとタバコを取り出し、吸っても?とこちらを伺ったので、どうぞと頷いた。
「同じ基地内の男と浮気をしてばれないと思っている辺りがバカな女だとは思うんだがな。で、案の定バレた訳だが、あっちも既婚者でしかもその嫁さんが偉いさんの娘だったらしくそりゃもう上へ下への大騒ぎさ」
バカな女だよなあと呟く。
「だが不思議なもんで俺は全く腹が立たなかった。相手の男に対してもだ。慰謝料ぶんどって叩き出せ、相手の男も半殺しにしてやれと言う奴もいたんだが結局はそのまま何もせずに離婚、あっさりしたもんだったよ」
「今その人は?」
「さあ。興味ないから全く分からん」
そう言って香取さんは肩をすくめた。
「俺も若かったんだろうなあ。それから何人かの女と付き合ってみたが大体そんな理由で長続きしない。それを見かねた森永のオヤジが今回の見合い話を持って来た訳だ、結婚した方が腰が落ち着くとか何とか訳の分からん理由をこじつけて」
車内に煙がこもってきたのが気になったのか、窓を少し開けてそこから煙を吐き出す。
「で、あんたの元見合い相手のあのストーカーだ」
「?」
「元女房や付き合った女に何人男がいようと腹立つどころか気にもしなかった俺が、あいつだけには無性に腹が立ったわけさ、この手で叩きのめしたいと思うほどに。しかもこの関係を解消した後にあんたが付き合うであろう見たこともない男にもだ。我ながら頭がどうかしたとしか思えん」
ハンドルを軽く叩いていた指の動きが止まった。
「どうやら俺はあんたに惚れているらしい。そうでなければたかだか民間人の一人が自分の縄張りに踏み込んできただけで、一ヶ月も部隊の連中まで使って追い回したりするか?」
視線は真っ直ぐ前を向いたまま。
「とは言うものの、最初に話した通り訓練が立て込んでいて当分は今まで通りな状態が続くわけだが、それでもあんたが構わないと言うならば、俺はあんたを俺のものにしたい」
こちらに向けられた目はまさに捕食者の目だ。背中がゾクリとする。
「どうだ? 俺のものになるつもりはあるか、絢音?」
「……そこで名前を呼ぶなんてズルイです」
「ここにくる時までは逃げるチャンスをやろうと思っていたんだがな、あんたの顔を見たら気が変わった、いま逃げたらきっと死ぬまで追い続ける」
それってストーカーじゃ?
けど捕食者の目に悪人の笑みをプラスされたら逃げられる気がしない。完全に退路を断たれた気がする。
「諦めて俺んとこに来い」
「……大事にして下さいね?」
「任せろ」
そう言ってニヤリと笑う表情はやっぱり怖かった。
まさか嘘から出た真になるとは。今から伯母達四人の小躍りする姿が浮かぶようだ……。