第1話 宝物
暖炉の火が、ぱちりと小さく弾けた。
外では風が吹いている。
フェルン村の夜は静かだった。
「続き」
グランは母の袖を引っ張った。
エレナは手元の裁縫を止め、困ったように笑う。
「また?」
「うん」
「昨日も読んだわよ」
「読んだ」
「その前の日も」
「読んだ」
「その前もよ?」
「読んだ」
真面目な顔で頷くグランに、エレナは吹き出した。
「本当に好きなのね」
そう言いながら、本を開く。
少し古びた冒険譚だった。
表紙は擦り切れている。
何度も読んだから。
何度も読んでもらったから。
グランにとって、その本は宝物だった。
本は高かった。
裕福ではないウォーカー家にとって、決して安い買い物ではなかった。
それでも父と母は買ってくれた。
誕生日の日。
包みを開いた時の嬉しさを、グランは今でも覚えている。
「――冒険者達は新たな階層へ足を踏み入れました」
エレナの優しい声が部屋に響く。
願いの塔。
天を貫く巨大な塔。
その頂へ辿り着けば願いが叶うと言われている。
けれど。
誰も最上階へ到達した者はいない。
だから人は憧れる。
グランもその一人だった。
冒険者になりたい。
願いの塔へ行きたい。
まだ幼い胸の中には、そんな夢があった。
「お母さん」
「なに?」
「願いの塔って本当にあるの?」
エレナは本から顔を上げた。
「あるわよ」
「見たことある?」
「ないわ」
「じゃあ誰も見たことないの?」
「見た人はたくさんいるの」
エレナは少しだけ遠くを見る。
「でも、頂まで辿り着いた人はいないそうよ」
誰も辿り着いたことのない場所。
そんな場所が本当にある。
不思議だった。
そして少しだけ胸が高鳴った。
グランは首元のペンダントへ触れる。
小さな銀色のペンダント。
森で拾われた赤ん坊だった自分の傍らに置かれていたもの。
その話は聞いていた。
自分が拾われた子供だということも。
けれど。
父は父だった。
母は母だった。
この家は、自分の家だった。
「僕なら行けるかな」
エレナは少しだけ目を丸くした。
そして優しく微笑む。
「そうねぇ」
「行けるかもしれないわね」
「本当に?」
「ええ」
温かな手が頭を撫でる。
「だってグランは頑張り屋さんだもの」
「そうかな」
「そうよ」
「いつも一生懸命でしょう?」
グランは少し考える。
自分ではよく分からなかった。
でも。
お母さんがそう言うなら。
そうなのかもしれない。
「願いの塔も?」
エレナは小さく笑った。
「ええ」
「願いの塔もよ」
その時。
玄関の扉が開いた。
冷たい風が少しだけ流れ込む。
「ただいま」
低い声が響く。
ルークだった。
狩りの帰りらしく、大きな鹿を担いでいる。
「おかえりなさい」
エレナが笑う。
ルークは小さく頷き、グランの持つ本を見る。
「また読んでもらってたのか」
「うん」
「好きだな」
「うん」
グランは本を抱き締めた。
好きだった。
冒険者が。
願いの塔が。
この本が。
そして。
この時間が。
ルークは暖炉の前に腰を下ろす。
狩人の大きな手だった。
森へ入り。
獲物を狩り。
家族を養う手。
エレナはその隣で、また針を動かし始める。
父は狩りをして。
母は裁縫をして。
そうやって家を支えていた。
裕福ではなかった。
けれど温かかった。
十歳の春。
グランは初めて、自分が他の子供達と違うことを知った。
恩恵の儀。
神から力を授かる日。
誰もが何かを得る。
それが当たり前だった。
けれど。
グランには何も現れなかった。
恩恵なし。
スキルなし。
誰も見たことのない結果だった。
悔しかった。
悲しかった。
自分だけ何も持っていない気がした。
その日の夜。
エレナは頭を撫でて言った。
「グランはグランよ」
ルークはいつも通り言った。
「飯だ」
それだけだった。
何も変わらなかった。
父も母も。
グランを見る目を変えなかった。
だからグランも諦めなかった。
十一歳の春。
一人の冒険者がフェルン村へ立ち寄った。
滞在したのは数日だけ。
けれど、その数日が宝物になった。
木剣を振るグランを見た冒険者は言った。
「剣は好きか」
グランは迷わず頷いた。
そして。
初めて剣を教わった。
握り方。
構え方。
足運び。
木剣の振り方。
ほんの基礎だけ。
それでも嬉しかった。
夢へ少し近付いた気がしたから。
冒険者が去った後も。
グランは木剣を振り続けた。
朝も。
昼も。
夕方も。
何度も。
何度も。
何度も。
願いの塔へ行くために。
冒険者になるために。
暖炉の火が揺れる。
父がいる。
母がいる。
手には宝物の本がある。
明日もきっと、同じ朝が来る。
そう信じていた。




