港町・社崎にて その三
夕食までの間、娯楽室でビリヤードをしたり、盤を囲んで将棋の駒をあれやこれやと動かしていた二人は、遠くの埠頭から中型の貨物船が出てゆく汽笛で、あたりがとっぷりと暗くなっているのに気付き、いそいそと大食堂へ向かった。
ホテルの大食堂は、三階の北側、よく日本海が見渡せる位置にあった。地方の宿屋でよくある、バイキングスタイルの夕食会場は風呂上りらしい浴衣姿の客でごった返し、一種独特の喧騒の中にあった。すぐそばの漁港で荷揚げされた活きのいい刺身の盛り合わせに舌鼓を打ちながら、真樹と坂東医師はよく冷えた地酒を酌み交わしていた。
「夕映えは杏色……とはよく言ったものですが、間近でこんなショーを見られるのだから、この辺の人たちは幸せでしょうね」
真樹の手にした猪口へ地酒をさしながら、坂東医師は振り返って夕日を一べつする。だが、真樹は別段関心があるというそぶりも見せず、
「どうでしょうねえ。案外間近にありすぎて、なんとも思っていなかったりするかもしれませんぜ。我々にとっては生活の足である市電が、他の件から来た連中にはヨダレが出るほどありがたいものに見えたりするのと同じなのかもしれませんよ」
と、そんなことを言いながら猪口の地酒を飲み干すと、真樹は合いの手に釜飯をつまんで、通りがかったボーイに生ビールの中瓶を運んでくるように命じてから、ちょっとおかずを取りに……と言って、ふらりと料理の並んだテーブルの方へ離れていってしまった。
「よく食べる人だなあ」
留守番を頼まれた坂東医師は、刺身を肴に、しばらく手酌で酒を飲んでいたが、料理を取りに出た真樹より先に、ボーイがビールを持って戻ってきたので、それを受け取るべく、箸をおいた。
「お待たせいたしました。グラスはお二つで――」
ふと、坂東医師はボーイの視線が自分の手元ではなく、背後の窓ガラスの方に向いているのに気付いて後ろを振り返った。見れば、かろうじて水平線が見える程度の明るさの海上を、煌々と明かりをともしたヨットが帆も立てず、こちらに向かってゆっくりと近づいてきている。手前にヨットハーバーがあることを考えれば、別段珍しい光景でもあるまい、と思いながら、坂東医師はボーイに質問を投げた。
「――あれがどうかしたんですか」
ボーイはちょっとたじろぐと、お盆を小脇に抱えたまま、
「あ、ああ、申し訳ございません。いや、何度注意勧告をしてもやめない人間がいるものだなあ、と思いまして……」
「というと、あれはなにか危険な行為なわけなのですか」
さらに坂東医師が尋ねたところへ、新しい皿へこんもりと料理を載せて戻ってきた真樹が、二人の様子を見てどしたの、と首をかしげながら腰を下ろしたので、ボーイは改めて、ヨットハーバーの方を指しながら説明を始めた。
「この辺りには、N市との境界線になっている岬の方から、隣の楢ヶ崎市にかけて、ゆっくりと流れてくる潮流があるんです。その流れがちょうど、この社崎ではあそこのヨットハーバーに差し掛かるような位置にあるものですから、横着な船主が燃料をケチって、ああして潮の流れに乗って戻ってくることがあるんです。当然、その間は当然ノーハンドルの状態になるわけですから、桟橋でほかの船とぶつかるトラブルもあって、町から禁止令が出たばかりなんですよ――」
「なるほど、そりゃキケンだ」
西洋わさびを利かせたソースをローストビーフにからめながら、真樹は眼下の船着き場についたヨットが補助エンジンで自分の定位置へ動き出したのを認めると、栓抜きを王冠へかけ、ボーイにありがとう、と声をかけた。
「――盲点だったなあ」
グラスの中のビールをなめていた真樹が声を上げたのは、ボーイが離れていってから数分ほど経った、そろそろ七時半に差し掛かろうという頃だった。
「盲点といいますと……?」
ナプキンで口元を拭っていた坂東医師が顔を上げると、真樹はグラスの残りを飲み干してから、例の腕ですよ、とあたりを憚ってつぶやく。
「坂東先生、あなたがもし蓮鳥教の関係者だったら、あの死体の始末はどこでつけます?」
「死体の始末! ……林を掘るのはリスキーだから、場所がここなら当然海に――!」
手前まで言いかけたところで、坂東医師は口を手で覆ったまま、真樹の両目をまじまじのぞき込む。
「土の中なら誰かに見つけられる懸念があるが、大海原なら波にもまれてどこかへ消えてしまう――。桟橋にたどりつく潮流に出くわさない限りは、ですがね」
「となると、例の腕は上流のどこかで捨てられた、ということになるわけですか」
黙って首をしゃくると、真樹は右手の人差し指を二度動かしてから、食堂からの撤退と、自分の部屋への集合を呼び掛けた。
「――つまり、海岸線沿いのどこかに、蓮鳥教の関係者が集うような場所が存在する可能性が高いと……こういうわけですか」
売店で買ったハイボールの缶を開けながら、坂東医師は真樹の説明を神妙に聞いている。煙草を吸わない真樹の部屋は、坂東医師が火をくべたキャメルの甘い香りが霧のように渦巻いている。
「あのボーイくんの話が、物言わぬ腕に口を与えてくれたわけです。そもそも、人の出入りがあるあの桟橋で直に処理をするのはいくら手練れでもリスキーすぎる。そう考えれば、ここよりはるか上流の、潮流の出発点になるような場所から投げ捨てた方が得策というわけですよ。ただ、そうなると一つ問題がある。それは……」
「いったいどこから捨てたのか、ということですよね」
坂東医師の言葉に、真樹はその通り、と言いたげな背中を見せたまま、部屋の机の中に入っていた、社崎町の観光用マップをテープ代わりの絆創膏で壁に貼り付ける。地図には、隣町であるN市の南端から、海岸線沿いに社崎町の港、楢ヶ崎市の北端も含まれた中に、点々と交通案内や旅館の名称、オートキャンプ場や海水浴場などが盛り込まれた豪華版だったが、今の真樹と坂東にとっては、地図の持ち合わせている本来の目的は単なるおまけに過ぎなかった。
「Nの南端にある岬はサーファーのたまり場になっている海水浴場が近くて、人の出入りも多い。数に紛れてやりきるという手もあるが、あの腕だけ、というわけではなさそうだから除外したほうがよさそうでしょう」
ハイボールをやりながら真樹がつぶやくと、坂東医師はキャメルをもみけしながら、いや、それはどうでしょう、と反論する。
「闇夜に紛れて、という方法がとれないわけでもないでしょう。第一、今の季節はまだシーズン本番ではない。大して人の出入りもないだろうから、きっと可能なはずです」
「何をおっしゃいます。サーファー連中は海さえあれば冬だって飛び込んでいくんですよ。晩秋の新聞に、タフなサーファー軍団の記事が載っているのを見たことがある。きっとこの、郵便保険の宿と、それに付随する小さな遊園地があった北社崎のあたりが怪しい――」
酔いが回ったせいか、真樹の口調はいつにもまして熱を帯びている。それにアテられた坂東医師もいつしか、
「あなたこそどうかしている。あの郵便保険の遺産は、今富山の観光会社が買い付けて工事中のはずです。一般人こそいないが、工事関係者の出入りでこの辺りも随分潤っているそうですよ!」
テーブルを叩く坂東医師の拳骨につられて、ガラスの角張った灰皿がカタリ、と宙に浮きあがる。もはや議論の余地など無く、そこにはただ二人の男の、酒気に赤く染まった実に大人げない表情がならんでいるきりだった。
「……今夜はいったん、お開きにしましょう」
「そのほうがよさそうですな。では、これにて」
うっすらと煙を立てる、キャメルの吸いさしへハイボールを数滴かけまわすと、坂東医師は足取りも粗く、自分の部屋へと戻って行ってしまった。
残された真樹は、窓の錠をあげ、水面から建物に沿って吹き上げる潮風を部屋の中へ取り込み、自分の顔へ浴びせつけた。安いハイボールでほてった顔は少しずつ平静を戻し、真樹はだんだん、自分の言動の幼稚さが恥ずかしくなり、いたたまれない気持ちに包まれた。
――議論の場で酒なんざやるもんじゃないな。いつものクセで、つい呑まれちまったか……。
空になった缶をスリッパで踏みつけ、机の脇の屑籠へ放り込むと、真樹はまだ大浴場が開いているのを思い出して、タオル片手に部屋を飛び出していった。
満月まであと一歩、小望月の鈍く輝く宵のことである。