邪宗滅びて…… その三
話し合いの末、社崎で真樹が撮影した八ミリ映画のフィルム二本と、掲示板に上げられた写真のプリント、データを収めたUSBは、坂東医院の薬品庫の、換気の良くない棚の中へ厳重な封印ののちに仕舞われることとなった。真樹曰く、どうあがいても蒸散する各種の薬品が、長い年月をかけてフィルムや写真などを侵してくれるから、というのが、封印場所に選ばれた理由であった。
もっともこれは、危険を顧みずに写したフィルムや、好奇心に駆られて集めた写真にガソリンをかけて燃やす勇気と、それを促す気力を二人が持ち合わせていなかったために決まった、やや消極的な理由であったが、両者の間に遺恨などは微塵もなかった。
七月の上旬、二人はあの晩自分たちを助けてくれた仙田運転手とその夫人へのお礼の品を携えて、再び社崎の土を踏んだ。地元でも、あの出来事は単なる老朽建築の崩落事故としてとらえられており、ほんのひと月前のことのはずが、ずいぶん前にあったかのように、すっかり忘れ去られつつあった。
「あの時、同僚が気を回してくれなかったら、あんたらどうなっていたかねえ」
と、仙田運転手も笑いながら、崩落事故の直前にもたらされた一方を懐かしんでいたが、そんな彼を前に、実際は崩壊の当事者である二人は、少しバツの悪い思いをしながら、愛想笑いを返していた。
世間話ののち、真樹の頼みを引き受け、車を宿があったあたりまで出してくれた仙田運転手は、こんなになっちまってなあ、と、車の窓ガラス越しに眼下の日本海をあごでしゃくって指し示した。
かつて、郵便保険の宿の壮麗な建屋があった場所は、あの夜に起こった崖崩れのために、高速道路の待避線程度のスペースを残し、跡形もなく崩れ去っていた。窓から身を乗り出し、転落防止のために作られたガードレールと、以前は洞窟風呂があったらしい場所を見下ろしながら、真樹はしばらく、岸壁に打ち付ける、波の飛沫と音をじっと見つめていたが、そのうちに首を引っ込めると、仙田運転手に、もう出してください、と伝え、駅の方へと向かうのだった。そして、ホームまで見送りに来てくれた仙田夫人と、主人である仙田運転手の手を順繰りに握り、お世話になりました、ありがとう、と、通り一辺倒な麗句を述べると、二人は発車ベルに送られて発車した普通列車の窓から、遠ざかる夫妻の顔へいつまでも手を振るのだった。
大河内で、西傘岡へ向かう急行列車に乗るべく下車した二人は、行きに入った軽食スタンドへ上がり、同じようにコーヒー牛乳を購った。
「――すべてはみな、海の藻屑と消えたわけかあ」
キャメルをふかし、乾いたのどへコーヒー牛乳を流しこみながら、坂東医師は窓から見た、宿の成れの果てを思い浮かべて感慨深い胸の内をつぶやく。が、真樹はその一言に反応するでもなく、しきりに眉をひくつかせ、露にまみれた牛乳瓶を握っていたが、やがて、しわの一つもない額の下でまばたきをすると、まさか……と、うなだれながらつぶやいた。
「真樹さん、どうかしたんですか……?」
現場を見て気がふれたのではないか、と心配する坂東医師へ、真樹はややためらいがちに、
「……なんとなく、あの奇妙なやつの正体がわかったような、そんな気がしましてね……」
「えっ……?」
隙間だらけのよしずで簡単に囲っただけのスタンドの中を、川の方から上がってきた南向きの風がそっと駆け抜けてゆく。ようやく、握りしめていた牛乳瓶から右手を離すと、真樹は掌へハンカチをあてながら、おもむろに口を開いた。
「坂東先生、信心深い登山家や旅行者が、普段吸いもしない煙草をわざわざ買うことがある、というのをご存知でしたか」
初耳だ、と言いたげに首を振る坂東医師に、なおも真樹は話を続ける。
「深山幽谷で突然、祭囃子と縁日の屋台に出くわすような、いわゆる『狐に化かされ』たような時に、彼らは懐から煙草を出し、気を落ち着けながら一服する。と、不思議なことに目の前は元通りの藪深き山奥である……てなことになる。煙草にはあなたが大学で習うような薬理作用の他に、一種のまじないを解くような効果があったりもするんです。そして、民俗学の、ことに怪談めいた話においてときにそれは――」
反対側の貨物専用ホームを、化学薬品の詰まったタンク貨車の行列が轟音とともに過ぎていく。その音が風に溶け込むように聞こえなくなると、真樹はそっと、
「――魔の物を刺激する場合もあり、有効な武器ともなりうる。もしかすると先生、あの惨劇はそのキャメルが引き起こしたものなのかもしれない、というわけなのですよ」
「そ、そんな……」
灰皿へ押し付けていた吸いさしをまじまじと見つめ、坂東医師は眼鏡越しにぎょろりと目を回す。
「じゃあ、あの時我々の前には、我々の知らない未知の生物がいた、ということですか」
「――人の目に見えない、未確認生物も魔の物と呼べるんなら、そういうことでしょうね。……そして、フィルムはその姿をとらえ、我々がこの二つの目で見ることの出来なかったあの梔子色の触手の持ち主こそ、邪宗・蓮鳥教の唯一神である『蓮鳥』の正体だったんじゃあないか……そんなような気がしてならんのですよ」
「あの触手が……『蓮鳥』……、そ、そんなことって……」
医者という、科学の側の立ち位置から動くことのできない坂東医師は、顔へためらいの色を浮かべて、真樹と対峙している。
「なに、無理に信じろとはいいませんや。ただ、あの晩見た、バラバラになってゆく信徒の姿を見てるうちに、そんなような気がしましてね……」
「すると、なんですか。あの絵巻に描かれていた、箱に収まった四肢は『蓮鳥』が切り刻んだものって……」
「――かもしれないし、そうでないかもしれない。当時描かれたものは、もしかしたら信徒が『蓮鳥』に倣って、人身御供を切り刻んだものなのかもしれない。なにせ、写真に撮られたもんじゃあありませんからね。確証はありませんや」
坂東医師の手元からピンを引き寄せると、真樹はようやく、コーヒー牛乳へ口をつけ、のどを潤した。
「――ただ、あの奇々怪々な、人の目に見えざる何かを崇める一団がいたのは、まぎれもない事実でしょう。その一団をまとめる何者が、いかなる目的を持ってあの『蓮鳥』を……」
そこまで言いかけて、真樹は瓶をテーブルの上に置き、いや、止しておこう、と、口を閉ざしてしまった。
「呼び出されたのか、どこかにいたのかわからないが、おそらくあの崖崩れでは『蓮鳥』とて無事ではあるまい。先生の言う通り、みんな海の藻屑と消えたんだ、詮索はもうやめましょう……」
遠くから、急行列車のねぼけたような警笛がこちらに向かって近づいてくるのを悟ると、真樹はコーヒー牛乳を飲み干してから、坂東医師を連れて、軽食スタンドを出た。
遠い社崎の方から吹く、うっすらと潮の香りを乗せた熱風が本格的な夏の訪れを告げる、ある夕暮れ時のことである。




