第三章 夜風に紛れる呼び声【後編】
食事を終えると、食堂の喧騒も少しだけ落ち着いていた。
皿を下げる音。低く交わされる会話。
灯りは柔らかく、どこか眠気を誘うような空気が漂っている。
「うまかったな」
ユウリが軽く肩を回す。
「うん。すごく」
シエリも頷いた。
まだ口の中に、あの味の余韻が残っている。
少しの間、言葉はなかった。
それでも、不思議と落ち着いた。
「明日、どうするかだな」
ユウリが口を開く。
「ギルドで聞いてみるか。祠のこと」
「うん」
自然と頷く。
「じゃあ――朝、一階でいいか?」
「朝飯の時間に合わせて」
「分かった」
「じゃあ、今日は休め」
軽く手を振り、それぞれの部屋へ向かう。
階段を上る。
一段ごとに、さっきまでの賑わいが遠ざかっていく。
部屋の扉を開ける。
中に入って、そっと扉を閉めた。
そのままベッドに腰を下ろす。
ふっと肩の力が抜けた。
靴の先で床を軽く蹴る。
小さな音が、静かな部屋に響いた。
そのまま背中をベッドに預ける。
天井を見上げる。
静かだ。
今日一日のことが、ゆっくりと浮かんでくる。
市場のにぎわい。
魚屋の声。
果物の甘さ。
通りを行き交う人たちの笑顔。
どれも新しくて、でもどこか心地よかった。
(……いい町だな)
胸の奥が、ふっと温かくなる。
知らない場所のはずなのに、不思議と落ち着く。
その感覚のまま――
昔の記憶が、ゆっくりとよみがえった。
「ねえ、それ本当にあったの?」
小さい頃の自分の声。
父が笑う。
「あるさ。風が強い日はな、木も草も音を鳴らすんだ」
母が、少し呆れたように口を挟む。
「また大げさなこと言って」
「本当だって。風が歌ってるみたいでな、ちゃんと聞こえるんだよ」
父は楽しそうに続ける。
「精霊の声が聞こえる、なんて話もあるくらいだ」
空を見上げる。
大きな影が、ゆったりと空を横切っていく。
「それに、ああいうのもいる」
「おおきな、鳥?」
思わず聞き返す。
「あれはグリフォンさ」
父が得意げに笑う。
「あの大陸では、人を乗せて飛ぶこともあるんだぞ」
「ほんとに?」
目を丸くする。
「本当だって。風に乗って、どこまでも行ける」
夢みたいな話を、当たり前のように語る。
その横で――
母が、くすっと笑った。
「貴方、この子の前だと格好つけるわね」
「別にいいだろ、事実なんだから」
「怖がって、うまく乗れなかったくせに」
「そ、それは最初だけだ」
少しだけ言葉に詰まる父。
シエリは思わず笑った。
父も、つられて笑う。
母はそんな二人を見て、優しく目を細めていた。
――ふと、現実に引き戻された。
(……お父さん、お母さん)
懐かしくて、胸の奥がじんわりと熱くなった。
(……あの大陸)
なんて名前だっただろう。
小さい頃の話で、うまく思い出せない。
でも――
今日見た景色と、どこか似ている気がした。
風。
人の暮らし。
そして、まだ知らない何か。
(……もしかしたら)
ほんの少しだけ、そんな考えが浮かぶ。
自分もいつか。
父や母みたいに、誰かに話せるような景色を見るのかもしれない。
胸の奥が、ぱっと弾んだ。
(……楽しみだな)
あの頃と同じように、少しだけ胸が高鳴る。
シエリは体を起こす。
窓へと歩く。
そっと窓を開けた。
夜の風が、静かに入り込む。
ひんやりとした空気が、頬を撫でる。
外は暗い。
灯りの先は、影に沈んでいる。
しばらく、そのまま眺めていた。
そのとき――
冷たい視線が、背筋をなぞるように這い上がった。
(……今)
窓の外。
暗がりの奥。
誰かが、じっとこちらを見ている気がした。
息が浅くなる。
喉がわずかに強張る。
指先に、じん、と力が入る。
視線を外さず、ゆっくりと目を凝らす。
だが――
そこには、何もいない。
影も、動きもない。
ただ、夜の闇が広がっているだけ。
それでも。
確かに、“見られていた”。
その感覚だけが、肌に残る。
一歩、窓から離れる。
胸の奥が、ざわりと揺れる。
(……気のせい、かな)
そう思おうとした、その瞬間。
――たすけて……!
声が、落ちてきた。
強く、切迫した響き。
息が止まる。
頭の奥に浮かぶ。
祠。
花。
丘。
(……あの場所)
間違いない。
呼ばれている。
そう、はっきりと分かった。
ぎゅっと拳を握る。
(……絶対に、確かめる)
シエリは深く息を吸い、ゆっくりと窓を閉めた。
部屋の明かりを落とし、ベッドに身を横たえる。
目を閉じる。
静けさが、ゆっくりと広がっていく。
――たすけて……!
一瞬だけ、あの声がよみがえる。
それでも、意識は次第に沈んでいく。
明日、確かめる。
そう決めたのだから。
やがて、眠りに落ちる。
その夜。
シエリは確かに感じていた。
まだ、どこかで――
何かが、こちらを見続けていることを。
そして、夜の風は——
確かに、何かを運んでいた。




