第一章 風の港、はじまりの一歩【前編】
船が岸壁に触れた瞬間、低く鈍い音が足元から伝わってきた。
木と石が擦れる音。
揺れが止まる。
それまで当たり前だった波のリズムが、ふっと消える。
代わりに残るのは、わずかに身体の奥に残った揺れと、妙に重く感じる現実の感触だった。
「……着いた」
小さくこぼれた声は、すぐに周囲の喧騒に飲み込まれた。
甲板を吹き抜けていた風は、陸へと流れ込むように質を変える。
潮を含んだ湿った空気。
濡れた木材と縄の匂い。
どこかで焼かれている肉の香ばしさ。
それらが混ざり合い、この場所がただの港ではなく、人が生きている場所だと強く伝えてくる。
シエリはゆっくりと桟橋へ足を下ろした。
靴の裏に伝わるのは、硬く、動かない地面。
船の上とは違う。
逃げ場のない、確かな現実。
その感触に、胸の奥がわずかに締まる。
港は騒がしかった。
荷を運ぶ男たちが怒鳴り合い、木箱が乱暴に積み上げられていく。
金属がぶつかる音。
帆が風をはらむ音。
遠くで鳴る鐘。
商人の呼び込みと、子どもの笑い声が混ざり合う。
すべてが動いている。
すべてが、ここで生きている。
その流れの中で、シエリだけがほんの一瞬、取り残されたように立ち止まっていた。
肩ほどまで伸びたブラウンの髪が海風に揺れる。
緑の瞳はまっすぐ前を向いている。
けれど、その奥には隠しきれない緊張が滲んでいた。
腰に触れる、小さな剣。
父の剣。
柄に刻まれた細かな傷を、指先でなぞる。
『いいか、シエリ。怖い時ほど、相手を見るんだ』
父の声が蘇る。
大きな手で頭を撫でながら、少し大げさに剣を振って見せる姿。
楽しそうで、でもどこか真剣だった。
『無茶を教えないで。大事なのは勝つことじゃないわ。生きて帰ることよ』
母の声も重なる。
少し呆れたように言いながら、それでも優しく見守っていた。
父も母も、冒険者だった。
幼い頃、二人はよく旅の話をしてくれた。
深い森の奥に眠る遺跡。
水晶でできた洞窟。
空を渡る巨大な鳥。
精霊の声が聞こえる草原。
そして、世界の果てにそびえる世界樹ユグドラシル。
それらは、まるで物語の中の出来事のようだった。
けれど二人は、その物語の続きを見に行ったまま、帰ってこなかった。
死んだとは言われていない。
生きているとも言われていない。
ただ——行方が分からない。
その曖昧な現実が、何年も胸の奥に沈み続けている。
「……探す」
今度は、少しだけ強く言った。
その言葉は、誰に聞かせるためでもない。
自分の中で、揺れないようにするためのものだった。
シエリは歩き出す。
街へ入ると、空気が変わる。
石畳の道が伸び、両側には家々が並ぶ。
布の日除けが風に揺れ、露店には果物や焼き菓子が並んでいた。
甘い匂いと、香ばしい匂い。
そこに混ざる革と鉄の気配。
「安いよ!」
「旅人さん、こっちだ!」
声が飛び交う。
その間を、冒険者たちが歩いていく。
背中に大剣を背負った男。
長杖を持つ女性。
弓を担ぐ青年。
軽装で静かに歩く少女。
誰もが、自分の行き先を持っている。
自分はまだ、何者でもない。
その事実が胸に落ちる。
それでも、足は止めなかった。
やがて、中央広場に面した大きな建物が見えてくる。
冒険者ギルド。
扉の前で、シエリは足を止めた。
胸の鼓動が速くなる。
ここを開ければ、戻れない。
憧れだけではいられない。
危険の中へ、自分から踏み込むことになる。
逃げることもできる。
今ならまだ。
別の道を選ぶことも。
両親のことを、ただの思い出として抱えたまま生きることも。
選べる。
本当に?
胸の奥で、小さな声が問う。
その問いから目を逸らすように、シエリは剣に触れた。
冷たい。
確かな感触。
「……大丈夫」
息を吐く。
その一言で、足が動いた。
扉を押し開ける。
中は熱気に満ちていた。
酒と鉄と革の匂い。
笑い声、怒鳴り声。
掲示板の前には人だかりができている。
肩がぶつかり、紙が揺れる。
「それ俺のだ!」
「早い者勝ちだろ!」
荒い声が飛び交う。
一瞬、視線が集まる。
新人だ。
そう言われた気がした。
背筋が固まる。
逃げたい、という感覚が喉の奥まで上がる。
それでも、足を動かす。
受付へ。
一歩ずつ。
「……冒険者登録をお願いします」
声はわずかに震えていた。
それでも、ちゃんと届いた。
「ようこそ、エルシート冒険者ギルドへ」
受付の女性が柔らかく微笑む。
「登録には簡単な試験があります」
差し出された依頼書。
「風の草原で薬草を三束採取してください」
紙を受け取る。
「浅い場所なら危険は少ないですが、魔物が出る可能性はあります」
指先に、わずかに力が入る。
「危ないと思ったら逃げること。それが一番大切です」
母の言葉と重なる。
「……はい」
短く答える。
「行ってきます」
風の草原。
街の喧騒が遠ざかる。
代わりに、草が擦れる音が広がる。
緑の波。
風に揺れる景色。
綺麗だと思った。
同時に、少し怖かった。
ここには守ってくれるものがない。
あるのは、自分の判断だけ。
シエリはしゃがみ込み、薬草を探す。
一束。
二束。
葉の形を確かめながら、慎重に摘み取る。
三束目を見つけたとき、わずかに肩の力が抜けた。
このまま終わるかもしれない。
そう思った瞬間——
ぷるん。
背後で音。
動きが止まる。
もう一度。
ぷるん。
ゆっくり振り返る。
そこにいたのは、半透明の魔物。
スライム。
中心で揺れる核。
ゆっくりと近づいてくる。
沈む。
跳ねる。
「っ……!」
体当たり。
よろめく。
ぬめる感触。
剣を抜く。
振る。
弾かれる。
効いていない。
スライムが再び沈む。
来る。
分かる。
足が動かない。
呼吸が浅くなる。
指先が固まる。
視線が逸れそうになる。
逃げたい。
でも——
その瞬間。
『怖い時ほど、相手を見るんだ』
父の声。
シエリは歯を食いしばる。
見る。
体じゃない。
中心。
核。
踏み込む。
「そこ……!」
剣を突き出す。
ぬるりとした抵抗。
その奥。
硬い感触。
ぱきん。
核が割れる。
スライムが崩れる。
光が舞う。
静寂。
シエリは剣を下ろした。
呼吸が荒い。
心臓が速い。
それでも——立っている。
「……倒した」
その言葉は、小さく、でも確かだった。




