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エピローグ:不可逆的変化

本編完結後から3年ほどのちの話になります。

▼▼▼







⋈ ・・・・・・ ⋈ ・・・・・・ ⋈

 その日は初夏の爽やかな気候で、貴族子弟を集めた城内での勉強会は屋外の庭園で行われた。


 バラの花が咲き誇る花壇に囲まれて、ガーデンパーティ用のテーブルが並ぶ。

 そこでは十歳前後から貴族学園に入学する直前の十五歳までの生徒たち十数人が席に着き、渡された問題に頭を悩ませていた。


 主催のアヴェロン第二王子は来客で遅れるとのことで、まだ姿がない。

 彼はいつもあっという間に課題を解いて暇そうにしているので、いなくても問題は無いのだが、この五年間で一緒にいるのが当たり前になってしまったレネは、気がつけば城の出入り口を窺っていた。


(遅いな……。いや、待っているわけじゃない。断じて!)


 隣に座っている伯爵令嬢が、揶揄うように目を瞬かせてみせた。


『婚約者様がいなくて、寂しそうね?』


 とでも言いたいのだろう。


(違う……婚約したのは、アヴェロンが責任に拘るからだ。オレが前世で男だった話はアヴェロンだって知ってるから、将来本当に結婚するわけがない。でも、五年間もの間仲の良い友達同士だったので、いないのは寂しい……そういうことだ)


 レネは余計な考えを打ち払い、問題用紙にボールの絵を描き始めた。


 問題用紙は一人一人違うジャンルでレベルも違うものを渡されており、レネが今解いているのは、数学の問題だ。

 前世で高校に通っていたレネは、意外にも数学が得意だった。

 だが、二次方程式や三角関数が紀元前から知られていたように、科学技術がそれほど発達していない世界でも数学はかなり研究されていた。

 彼女が得意げに解けば解くほど、次には難解な問題が出された。今解いているのは、レネが数学の中では苦手にしている確率論の問題だ。

 

 バラの香りの中、木炭と木の棒を組み合わせた筆記具で、レネが用紙の余白にひたすらボールの絵を描いていると、突然話しかけられた。


「貴女が、アヴェロン殿下の婚約者ですの?」


 レネが顔を上げる。

 いつの間にか彼女の傍に立って見下ろしていたのは、ほっそりした顔に大きなくりくりした目が目立つ、同じ年ぐらいの女の子だ。


 プラチナブロンドの真っ直ぐな髪を一本に編み込んで、後ろに垂らしている。

 フリルのたくさん付いた白いドレスには、キラキラと光る色とりどりの欠片がちりばめられており、その一つ一つはとても小さな宝石だった。

 ドレスはノースリーブで、二の腕の真っ白い肌が肩から露出していた。


 紫がかった青い瞳が、じっとレネに注がれた。

「なんとか言いなさいよ」

 威丈高に言ったその女の子を、レネは見たことがあるような気がした。


 前世で好きだった女優によく似ている、とレネは気づいた。


(プラチナブロンドの髪に、紫がかった青い目の美人、確かマチルダ・スワンソン……ドラマ『僕たちの女神様』シリーズで、女神役を務めていた……)


 レネは恐る恐る尋ねる。


「女神様……?」


「あら、ちゃんとわかってるのですね。わたくしが何者かを」

 その女の子は、満足げな笑いを浮かべた。

 レネの言葉を『女神のように美しい』と彼女は捉えた。そして、『わたくしが侯爵家の娘であることを知った上で褒め称えたのね』という意味で発言したつもりだった。


 ところがレネは、彼女の言葉をそのままズバリの意味で受け取ってしまった。


(本当に女神様なのか! ついに願いが聞き届けられて、オレの知っている女神の姿で転生の女神様が降臨……?)


「マチルダ様? レネ様が公爵家ご令嬢だということは、ご存じなのでしょうか?」

レネの隣に座っていた伯爵家の令嬢が、咎めるような口調で言った。

 侯爵家よりも公爵家の方が格上であり、レネに対して無作法な物言いは許されない、という警告の言葉だ。


 だがマチルダという名前が、レネの思い込みに拍車をかけた。

(マチルダ・スワンソンのマチルダなのか……!?)

 さらには。


「ええ! もちろんです。だからわざわざここまで下りてきたのですわ!」

 侯爵家の領地が標高の高い立地だったために、王都へくることを彼女は『下りる』と言った。それをレネは物理的な高低差ではなく、天界から下りてくる『神降ろし』だと思い込んだ。


(人の器に女神が下りてくる“女神降臨”のドラマシーンそのままだ……!)

 容姿と名前が完全に一致するなんて、とても偶然だとは思えない。

 けれど、女神が突然人の姿で顕現するという状況を、すぐには信じられなかった。

 レネは尋ねる。


「……女神様は、オレを許してくれるためにきたの?」


「許すわけがないでしょう!」

 強い口調で”女神”が言った。

「オレなんて言う女を、許すことなんてできませんわ!」


 レネは衝撃のあまり、疑うことを忘れて立ち上がる。


(やはり女神様は、女に生まれたことを罰だと思っていたオレを、怒っていたのか……アヴェロンの言った通りだ)


 すれ違っている会話が、たまたまかみ合っただけなのだが、レネの中では完全に全てが符合してしまった。


「もっと女らしくなったら、許してもらえる……?」


「貴女ね、アヴェロン王子殿下の優しさにつけ込んで、怪我を盾にして婚約に持ち込んだのですって? 恥を知りなさい!」


 レネは息を飲む。


 ”女神マチルダ”は捲し立てた。

「五年前、アヴェロン王子殿下の婚約者は、ヴァルモナ公爵家ご令嬢モアナ様にほぼ決まっていたと聞きました。貴女に王子殿下を奪われて以来、モアナ様は塞ぎ込まれてお部屋からも出られないというではありませんか! 貴女のような人を、”泥棒猫”というのです!」


「そんな……」

 また見当違いの謝罪をしてしまっていたのかと、レネは崩れ落ちそうな気分になった。


「……知らなかったです。ごめんなさい。どうすれば許してもらえますか?」


 レネが敬語を使ってまで謝罪したので、周囲にいた学友たちは驚いて彼女を見た。

 皆、レネが怒って言い返すとばかり思っていたのだ。


「婚約破棄に決まっているでしょう? 婚約をなかったことにして、アヴェロン王子殿下をモアナ嬢に返してあげるのです!」


 ”女神マチルダ”は、手に持っていた扇を閉じて、苛立たしげにレネの前のテーブルを叩いた。


「……わかりました」

 素直にレネが頷いたので、隣にいた伯爵家の令嬢も、向かいに座っている子爵家の令嬢も、ポカンとした表情で彼女を見る。


 レネの着ている風変わりで高価な服も靴も、アヴェロン第二王子が用意したものだ。

 凡人に興味など無いという態度で冷たい喋り方をするアヴェロン第二王子が、レネの前でだけ表情が違うことを、ここにいる全員が知っている。

 レネと世間話をしただけで、王子は刺すような視線を向けてくる。

 婚約破棄、という話になればどんな修羅場が巻き起きることかと、学友たちは固唾を飲んで見守った。


 ちょうどアヴェロン王子が側役の男を伴って、急ぎ足でこちらに向かってくるところだった。

 全員が、彼に敬意を表するために立ち上がる。

 普段教室内では王族として扱わなくて良いと言われていたが、今は皆、そうしなくてはならないという衝動に駆られていた。


 レネは、悲しい目で彼を見た。


(アヴェロンは婚約してからはずっと、オレの大親友だったのに……)


 転生の記憶を取り戻した時もそうだったけれど、大好きな友達と別れなくてはならないなんてつらすぎる、とレネは思った。


 最初はアヴェロン王子のことを、何でもできて上から目線の憎たらしい奴だとレネは思っていた。

 けれど、フェイクを仕掛けて木から落下する原因を作った、という些細な罪に対してアヴェロン王子は、真摯な態度で責任を取った。

 責任感が強くてとてもいい奴だと、今は知っている。


 五年もの間レネはずっと、アヴェロン王子を責任という言葉で縛り付けてきた。

 それが女神様の怒りに触れたのなら、彼女の言う通りできるだけ早く婚約を破棄しなくてはならない、とレネは勝手に結論づけた。


「アヴェロン……ちょうど良かった」


「何の騒ぎだ? 誰だ?」

 ”女神マチルダ”に対して冷たい声でアヴェロン王子が言った。


「アヴェロン第二王子殿下」

 ”女神”が優雅なカーテンシーを披露する。

「ウェイン侯爵が娘、マチルダでございます……殿下」


 彼女の口から告げられてしまうと、自分の意思でアヴェロン王子を解放したということにはならない。それでは反省したとは見做されずに永遠に許されないのではないか、とレネは焦る。


「婚約破棄してほしいんだ、アヴェロン」

 レネがそう言った途端、アヴェロン王子が動きと表情を凍り付かせた。


 見守っている学友たちが一斉に息を飲んだ。

 マチルダは挨拶を遮られて、不穏な目でレネを見る。


 レネは、気持ちが挫けてしまう前にと、一気に説明した。

「この方は本当は女神様なんだ。婚約破棄したら、オレを許してくれるって。……木から落ちたのは自分のせいでアヴェロンは悪くないのに責任を取らせたりしたから、女神様はお怒りだったんだ。……今までゴメンね。オレも、責任を取って婚約するっていうのは変だなとは思ってたんだけれど、深く考えてなくて……」


「……マチルダ嬢!」


 アヴェロン王子の大声が庭園中に響いた。


「よくも女神などと言って純真なレネを騙したな! 婚約破棄しろだと?! 貴女は、公爵家や王族に向かって婚約破棄を命じるほど偉いのか? 本気で自分が女神だと信じているんじゃないだろうな?」


「……アヴェロン?」

 彼がここまで怒っているところを見るのは初めてで、レネは狼狽えた。

 ”女神マチルダ”は怯えた表情でアヴェロン王子を見返している。

 どうやら自分は間違えたらしい、とレネはここに至って気づいた。


(人の器に降臨していた女神様がいなくなった……わけじゃなくて、最初から女神様じゃなかった? あんなに似ていて、名前も一緒なのに?)


「……あの、わたくし」

 マチルダは目に涙を浮かべた。

「騙したつもりはなくて。女神のように美しいと称えられたのだとばかり……申し訳ございません」


 アヴェロン王子が舌打ちする。


(そうだったのか)

 自分の完全な思い込みだったと知って、レネは申し訳ない気分になった。

(あれ? じゃあ、婚約破棄はしなくてもいいってこと?)

 と、ほっとした気持ちになる。


 レネは自分が矛盾していることに気づいた。

(オレは婚約破棄をしたくない、のか?)


「マチルダ!」

 太った男が、こちらに駆けてくる。その顔からは、汗が滴っていた。プラチナブロンドの薄い髪も汗だくだ。ハンカチでしきりに汗を拭いながら、彼は怒鳴った。

「お前はここで何をやってるんだ!」

「お父様……」

 マチルダがそう呼んだ。


「ウェイン侯爵!」

 美丈夫の顔に凶悪な表情を浮かべ、アヴェロン王子が声を荒らげる。

「さっきも言ったが、僕に新たな縁談は必要無い! 国王陛下もそれで良いとおっしゃっている。それなのに、父娘揃ってよくもこんな真似を!」


 どうやらアヴェロン王子が遅刻する要因になった来客とは、ウェイン侯爵らしい。

 一緒に来たアヴェロン王子の側役は、侯爵の顔を見て無表情のまま溜め息を一つ吐いた。

 その意味するところは、先ほどのアヴェロン王子の台詞と合わせて考えてみれば誰にでも推測がついた。

 ウェイン侯爵はレネと婚約済みのアヴェロン王子に『縁談』を持ってきて、娘よりも先に一悶着起こしたらしい。


「しかし、アストリオン公爵家ご令嬢との婚約は、傷痕が消えるまでの期間限定だと聞きました……」

 侯爵が弱々しい声で反論している。

 レネは自分の右手首に目をやった。

 うっすらと白い傷痕が見えるが、そこに傷があると思って見ないとわからないレベルだ。

 これはもう、傷痕が消えたと言ってもいいのではないか。

 

「そんなことを言っているのはどこの誰だ?!」

 アヴェロン王子は、娘の横に立った侯爵に問い質した。

「名前を言え! 僕が直々に間違いを訂正してやる!」


「そ……それは、酒の席だったので、誰だったかまではわかりません……申し訳ございません」


 ウェイン侯爵は太った身体を萎縮し、ひたすら頭を下げて謝っている。


 十五歳になったアヴェロン王子は、体格も大人に負けないぐらいになり、護身用に帯剣もしていた。その彼が激怒して詰め寄る様は、レネが見ていても怖いと感じた。


「で、偽の女神はレネに何を言ったんだ? もう一度繰り返して、僕にも聞かせてみろ!」

 マチルダに対しアヴェロン王子は、怒りを剥き出しにした声で命じる。


「お……覚えていません」

 泣きそうな声で答えるマチルダだが、チラリと憎々しげな視線をレネに向けた。

 それを見逃さず、アヴェロン王子はレネの前に立つ。


「ついさっき言ったことだろう? 婚約を破棄しろと? そんな重大なことをなぜ覚えていない?」

 アヴェロン王子はついにその手を剣の柄に載せた。


 マチルダは息を飲み、後ずさりして、声も出せないほどに震えている。

 貴族の娘を無礼討ちしたとしても、王族のアヴェロン王子が罰せられることはないだろうが、彼の評判は著しく低下するだろう。


『聞き間違い

だったと

言って

抱き付いて

ください』


 隣の伯爵令嬢が青ざめながら、そう書いた問題用紙を見せてきたが、レネは躊躇した。


 今まで名目上は婚約者として過ごしてきたが、友達感覚だったため、手を取られることはあっても抱き付いたりという身体的な接触をしたことがなかったのだ。

 けれど、アヴェロン王子自身のためにも止めなければ、とレネが彼の方に向き直ったところで、背後からドンという衝撃と共に押し出された。


 伯爵令嬢に、文字通り背中を押されたのだとわかった。

 すぐ目の前に立つアヴェロン王子に、レネはバックハグするような形で抱き付いてしまう。

 アヴェロン王子の背中が、ビクッと驚いたように震えた。


「ゴメン……なさい」

 レネは何て言えばいいのかわからないながら、言葉を絞り出した。

「オレの……勘違い? だったみたいで。……怒らないで」


 この数年ですっかり逞しくなったアヴェロン王子の背中は、大きく、広かった。

 後ろから手を回すと、その筋肉質の身体がいかに鍛えられたものかがわかる。

 腕も子どもの頃に比べると随分と太くなって、……と思ったレネは、振り返ったアヴェロン王子の両腕に抱えられ、急に逃げ出したい気分になる。


「怖がらせて悪かった、レネ」


 アヴェロン王子の声から怒りが消えていたので、レネはほっとする。

 さっきまであんなに怒っていたとは思えないぐらいに、優しい声音だった。

 伯爵令嬢の指示は、どうやら的確だったらしい。


「婚約破棄って言われて少し焦った。責任を取って婚約するのは、変じゃないぞ?」

 耳元で囁かれて、レネはアヴェロン王子の肩口に顔を隠したまま頷く。


(変だな……アヴェロンが年相応に男らしくなっていくのは当たり前のことなのに。どうしてオレ、こんなにドキドキしてるんだ? 有り得ない……有り得ないぞ、だってオレは)


「婚約破棄って、もう絶対言わないよね?」

 アヴェロン王子が一層優しい声音で、尋ねてくる。

「うん……」

 今、彼の顔を見ると、赤面してしまうのは確実だ。


(オレは元男で、アヴェロンもそれを知っているのに)


 レネはアヴェロン王子に抱き付いたまま、顔を隠し続けた。

 体格もだけれど、背丈も随分と差が付いてしまったな、とレネは思う。


「よかった」

 ほっとしたようにアヴェロン王子が言って、レネに頬ずりした。


(え……? 何っ……?)


 レネは驚いて身体を離そうとしたが、がっちりとホールドされて動けない。


(どうしちゃったのアヴェロン……?)


 逃れようとする試みは全て、アヴェロン王子の腕の中でもみ消された。

 ジタバタするレネを、緑色の瞳が面白がるように見下ろしている。


 彼らのやり取りを傍目に眺めつつ、側役が今のうちにとばかりにウェイン侯爵に告げている。

「マチルダ嬢はしばらく謹慎させてください。信心深いレネ様に女神を詐称するとは、何らかの策謀があったとしか思われても仕方がないですね」


「……おっしゃる通りにいたします」

 侯爵が頭を下げる横で、その娘が反論する。

「詐称したつもりはありません……勝手に勘違いをされただけです!」


「いい加減にしなさい、マチルダ!」

「今に見ていなさい、悪役令嬢!」

 まだ何か言い続けている娘を引っ張って、侯爵は去っていった。

 学友たちも問題用紙を手に、教師の誘導で城内に設けられた教室へと移動し始める。


 やがて側役もそっと姿を消す。おそらくはその辺に隠れているのだろうけれど気配は感じられず、レネはバラに囲まれた庭に、アヴェロン王子と二人きりで残された。


「ずっと、こうしたかったんだ」

 アヴェロン王子は、レネを抱き締めたまま言った。

「レネから抱き付いてきてくれるとは思わなかった」


 後ろから押された上での事故だ、などと言える雰囲気ではなかった。


(ずっとこうしたかった……?)

 急にレネは、アヴェロン王子が男らしくなっただけではなく、自分も女性らしい体付きになっていることを思い出す。

(胸も出てきたし……男としては抗いがたいよな。元男としては充分理解できるよ、アヴェロン)


 急に風が吹いて、机の上に残されていたレネの問題用紙が浮き上がった。上に置かれていた筆記具が地面に転がる。


「あ……!」


 レネの視線の先に気づいて、素早くアヴェロン王子が手を伸ばし、用紙を引き寄せた。

 余白に描かれたボールに目を留めて、彼はふっと笑う。


「全部の組み合わせを絵で描いて数えていたの? 可愛いボールだね」


「もう少しで解けるところなの!」

 レネが手を伸ばして、用紙を奪おうとする。


 背丈の違いを生かして彼女の手の届かないところに用紙を掲げると、アヴェロン王子は袋とボールの絵を眺める。

「せっかく描いたのだから、これを見ながら一緒に解いてみようか」

 彼は落ちていた筆記用具を拾うと、レネの手を引いてテーブルの前に行く。


 アヴェロン王子に引き寄せられ、レネは彼の膝の上に座る形になった。


(さっきから、アヴェロンが変だ)


 レネは、アヴェロン王子の顔を見る。

 彼は優しい笑顔を浮かべていた。

 左腕ががっちりとレネの身体を押さえつけていて、立ち上がれない。


(これじゃあまるで、本物の婚約者みたいじゃないか)


 うっかりアヴェロン王子に抱き付いた瞬間から、二人の間で何かが変わってしまったのだとレネにはわかった。

 もう二度と後戻りできない、これまでとは決定的に違う変化だ。


 アヴェロン王子は問題用紙を机の上に置き、描かれているボールと袋の組み合わせを指でなぞった。


「20通りの場面を全て絵にしたのか」

 彼はクスクス笑う。

「そのうち、条件に合うのは6つ。確かにこの通りの事象ではあるんだけれど」


 アヴェロン王子が、確率を数字として計算する方法を丁寧に説明する。

「……で、一度目の確率が5分の3、二度目の確率が2分の1。ということは?」

彼はレネの顔を覗き込みながら、問いかける。


 間近にアヴェロン王子の顔がある。


(……顔、いいな)

 レネは、心臓の鼓動が早まるのを感じる。


(待て待て。相手は男だ。そして、オレも……オレは……?)


 レネは必死に、目の前の確立問題へと意識を集中させた。


「かけ算だよね? ……10分の3?」

 レネは期待された通りに答える。

「正解!」

 アヴェロン王子が嬉しそうに微笑んだ。


 いつもの、

『ありがとう! 助かったよアヴェロン! 大好き!』

 のような台詞が、気軽に口にできない。

 その理由を考えながら、レネは数式と答えをゆっくり丁寧に、用紙に書いた。


 また風が吹いて、バラの花びらが舞い上がる。

 レネは、問題用紙が飛ばされないように押さえた。


 アヴェロン王子は、まるでレネが飛ばされてしまうのを恐れるかのように、彼女を後ろから強く抱き締めていた。











⋈ ・・・・・・ ⋈ ・・・・・・ ⋈

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