1話
2027年、世界中に突如として出現した「ダンジョン」
一獲千金や名声を夢見る若者たちが我先にと冒険者登録を行い、血気盛んに未知の深層へと挑んでいった。
街にはギラついた目をした若者が溢れ、テレビのニュースは連日のように「新種モンスター討伐」や「Sランク冒険者昇格」の話題で持ちきりとなっていた。
しかし、2028年になっても、誰一人として足を踏み入れることができない異質なダンジョンが、東京・立川の静かな郊外に存在していた。
「……本日も『立川第3ダンジョン』の結界は強固であり、国内トップギルドによる突破試行も失敗に終わりました。結界の物理反発力は前日比で3%増加しており……」
夕暮れ時、テレビから流れるアナウンサーの声を横目に、佐藤シズエ(65歳)はトントンとリズム良く包丁を動かしていた。
トウガンと大根の皮を薄く剥き、出汁を染み込みやすくするために隠し包丁を入れる。
3人の子供を立派に育て上げ、現在は定年退職した夫と二人暮らし。
日課は朝のラジオ体操と、近所のスーパー『スーパーふじの』の特売チラシのチェックだ。
どこにでもいる、ごく普通の、しかし年季の入ったベテラン主婦である。
そんな日常が静かに形を変えたのは、翌朝の買い出しの帰り道だった。
立川第3ダンジョンの周囲は、今や巨大な中継基地と監視砦で囲まれている。
その前を、両手に『スーパーふじの』の特売品――割引の卵パックと1キロの牛乳パックが詰まったポリ袋――をぶら下げたシズエが通りかかった時のことだ。
普段なら若手冒険者が「入れさせろ!」と怒号を上げ、厳重なギルド職員に制止されている重厚な黒鉄のGate前。そこに設置されていた最新型の「入場判定測定器」が、シズエの接近と同時に見たこともない鮮やかな青色に発光し、電子音を鳴り響かせた。
『対象者検知。適合条件クリア。適合資格:満60歳以上の女性(アクティブシニア層)。登録プロセスを開始します』
「……はい?」
シズエは足を止め、白髪の混じった前髪をさっと上げた。
目の前でギルドの若手職員が「え? は? 測定器の故障か!?」と書類を撒き散らしながらパニックを起こしている。
そして、どんな攻撃呪文も、Sランク冒険者の大剣さえも跳ね返してきた漆黒の結界が、まるで大型スーパーの自動ドアのように、スーッと音もなく左右に滑らかに開いたのだった。
◇
「え、ええーっと……シズエさん、本当に一人で行くんですか? 一応、ギルドとしては救助隊の手配を……」
「大丈夫ですよ、お兄さん。ちょっと中を覗いてくるだけだから。それにね、5時には孫が学校から帰ってくるし、夕飯の煮物の仕込みもあるのよ。長居はしないわ」
慌てふためくギルド職員の制止をふんわりとした笑顔でかわし、シズエはダンジョン「黄昏の生活領域」の第1層へと足を踏み入れた。
内部は意外なほど明るかった。
天井に広がる薄紫色の結晶体が柔らかい光を放ち、どことなく昭和の懐かしい商店街の路地裏を思わせるノスタルジックな空気が漂っている。
土の匂いではなく、かすかに漂う洗剤と畳の匂い。
しかし、歩みを進めて十数メートル。曲がり角の陰から、ぬめっとした不快な効果音とともに、体長1メートルほどの緑色の粘液生物――スライムが現れた。
一般的なダンジョンなら、初心者冒険者が真っ先に剣を叩き込む相手だ。
スライムはシズエを捉えると、内部の核を脈動させ、勢いよくその巨体を跳ね躍らせて飛びかかってきた。
「あら嫌だ! 服に付いたら汚れが落ちないじゃない!」
シズエの脳内で「冒険」の二文字ではなく「洗濯の手間」が危険信号を鳴らした。
長年の家事で培われた無駄のない体のキレ。シズエは右足軸でくるりと円を描くように身を翻し、スライムの突進を間一髪でかわした。
ズシン、と地面に着地し、態勢を立て直そうとするスライム。
シズエはその隙を見逃さなかった。左手で抱えていた頑丈なポリプロピレン製の買い物かごを盾のように構え、スライムの側面からの押し返しをがっちりガード。同時に、ウエストポーチから長年愛用している『関の孫六』のペティナイフをサッと引き抜く。
「刃物はね、力じゃないの。筋を通すのよ!」
スライムの半透明な肉体の中心で怪しく光る、赤色の「核」。シズエは迷いなくペティナイフの先を滑り込ませ、魚の三枚おろしで鍛え上げた絶妙な手首の返しで、核の「継ぎ目」を一瞬で断ち切った。
プチッ、という軽快な手ご応え。
スライムは悲鳴をあげる暇もなく、一瞬にして緑色の泡となって消滅した。
あとに残されたのは、透き通った綺麗な黄金色の液体がたっぷりと詰まった、小ぶりのガラス瓶だった。
【ドロップアイテム:極上出汁の素(スライムの核)】
「……出汁?」
シズエは首をかしげながら、キュッと締まった蓋を慎重に開け、鼻先を近づけた。
その瞬間、ふわっと広がったのは――鰹と昆布、さらには椎茸の旨味が究極の黄金比率で凝縮された、まるで老舗最高級料亭の厨房に迷い込んだかのような芳醇すぎる香りだった。
「まあ……! 何これ、一切の雑味がなくて、すごく良い香り……!」
シズエの目が、主婦としての本能で輝いた。
これがあれば、今夜の煮物は間違いなく絶品になる。いや、お味噌汁だって、おでんだって、一滴垂らすだけで料亭の味に化けるはずだ。
時計を見る。午後3時15分。
「お迎えまで、あと1時間半はあるわね……」
シズエはペティナイフの柄をギュッと握り直し、買い物かごの位置を直した。
エプロンを戦衣に、買い物かごを盾に変えた65歳・佐藤シズエ。家庭の食卓とお茶の間の平和を守るための、短くも激しい「放課後仕入れタイム」が、今静かに幕を開けた。




