十二 あたしは盗ってない!
シャイニータウンでは入所者が毎日を楽しく過ごせるように、カラオケやヨガ、麻雀、俳句、貼り絵などのサークル活動を積極的に支援していて、誰もが自由に参加できる仕組みになっている。毎週水曜日に開かれる貼り絵教室にはプロの先生が教えに来るが、比奈は美穂と一緒に先生の助手を務めることになった。
貼り絵の授業料はホームが支払うので無料である。ただ材料費だけは各自が負担する仕組みになっていて、先生が準備した布などの材料の中から、其々が好きなものを選んで台紙に張り付けて絵を仕上げる。入所者の中には指先が震えたり、関節が固くなっていて指が上手く動かない人などが多いので、比奈たちは材料を配ったりする他に、上手に出来ない人のお手伝いをするのだった。
先週の水曜日、「絶対に言っちゃ駄目よ。おばさんにも内緒だよ」と何度も念を押しながら美穂は、目付きの鋭いブルドッグに似た顔の人を目で示して言った。「あの人は岩永さんていってジャイアン、その隣に居る人は小川さんでスネオのスネちゃん、いつもジャイアンにくっついているからね。それから、あの白い髪の綺麗な人は三宅さんて言って、私達は三宅夫人って呼んでるの」と教えてくれた。
比奈は貼り絵も好きだが、何よりも大好きな美穂と一緒なのが嬉しかった。美穂は皆から『アッちゃん』と呼ばれているが、比奈は遠慮して『美穂さん』と呼んでいる。それにしても、美穂は何故『アッちゃん』と呼ばれるのだろう…?
その日、比奈は貼り絵教室の開始時刻に遅れて到着した。昼食の時にオーナー同士の喧嘩があって、床に飛び散った料理の残骸等を片付けていたので遅くなったのだ。軽度ではあっても認知症患者は些細なことで怒りやすくなるらしく、袖が触れたとか触れないとかそんなことでも簡単に喧嘩になってしまう。
比奈が到着した時、手芸教室には何やら険悪な雰囲気が漂っていた。雰囲気が険悪であろうとなかろうと、先生は笑顔を絶やさずに片手に布地、もう一方の手には花びら型の厚紙を掲げて説明を始めた。
「良いですか皆さん。今日は先に椿の花を作って、それを台紙に張り付けます。それでは、先ずこの型どおりに花弁を五枚切り抜きます」
材料は既に皆にゆきわたっていた。
その時突然、スネちゃんが立ちあがってツカツカと三宅夫人の傍に行き、三宅夫人が手にしていた赤い鹿の子模様の布地をひったくると、代わりに紫色の花柄の布地を机の上に放りだし、得意げな顔でジャイアンをチラッと見た。
ジャイアンが微かに頷いた。
三宅夫人は黙って紫色の布を見ていた。
一部始終を目撃した比奈は、ジャイアングループによる三宅夫人へのイジメに違いないと憤慨した。美しく優雅な三宅夫人を虐めるなんて許せない!けれども、ヒナが立ち上ろうとした瞬間に、美穂が首を横に振った。しかも、『黙っていろ』という風に、しきりに首を横に小刻みに振って合図を送ってくる。
美穂さんまでジャイアンの味方をするのかと、比奈は正直ガッカリした。
「先生、花びらはこの型通りに切れば良いんだね?」その場の雰囲気を和らげるようにジャイアンこと岩永が言った。
シーンとなっていた教室はジャイアンの一言でほぐれ、皆はそれぞれの布地の上に型紙を置いて柄の出方を試したり、チャコで印をつけたりといつものように和やかに作業が始まった。
三宅夫人も黙々とチャコで印をつけている。
「比奈ちゃ~ん。ここ持ってて」早速、入所者の一人が比奈を呼ぶ。比奈は明るく返事をしたものの、先程の光景が目の前にチラついて、イジメの片棒を担いだような、嫌な気持を消すことが出来なかった。
三宅夫人はすらりと背が高く、真っ白な髪の毛をふわっと一つに纏めていて、いつもセンスの良い服を着ている。ご主人が外交官だったとかで、外国生活が長かった所為か態度も上品で垢ぬけていている。
ただ、入所者達の中には、「三宅さんは何かと言うとご主人が外交官だったことを鼻にかけて嫌らしい」と、悪口を言う人が何故か多かった。
シャイニータウンの入所金は高額なので、オーナーは比較的裕福な人ばかりだ。
それでも三宅さんのようにいつも身綺麗にしている人は少なくて、髪の毛がくしゃくしゃだったり、スカートの下から下着がのぞいたりしていても平気な人が多い。
皆が三宅夫人の悪口を言うのは、焼き餅からだろうと比奈は思っていた。
「お財布が見当たらないんですけれど……」との、三宅夫人から苦情が入ったのは、スネオのスネちゃんが、三宅夫人の生地を取り上げた貼り絵教室の翌日のことであった。
「盗ったのは比奈ちゃんじゃないかしら。つい先ほどまで此処にいらしたから」三宅夫人がそう言っていると聞いて、事務所に呼ばれた比奈はまっ青になった。
その日、克代はお休みであった。
所長と須賀主任が三宅の部屋に飛んで行った後、一人事務所に取り残された比奈は、底知れぬ絶望に落ち込んでいた。
「またか……」これまで封印してきた苦い記憶が脳裏に蘇る。
教室に一人で居たという理由だけで犯人扱いされ、泥棒と罵られた嫌な思い出。あれは、高校に入ってすぐの頃だった。「やっぱりね!」「だってあの人、人殺しの子でしょ」「怖いわねえ」そう囁く声が嫌でも耳に入ってきた。
「どうしてお部屋になんか行ったのよ!」
気が付くと目の前に美穂の顔があった。比奈の両腕を強く掴んで美穂はさらに言った。「オーナーさんの部屋に一人で行っちゃ駄目だって、あれほど言ったじゃないの!」
その通りだった。どんな理由があろうとも、絶対に一人でオーナーの部屋に行ってはいけないと言われていた。
「でも……、しょうがないか。何か理由があるんだよね」肩を竦めて美穂が言う。
比奈は答えることも出来ずにただ俯いていた。
「可哀そうに!」美穂は比奈の手を握りしめた。「私が見つけるから! 三宅さんの財布はきっと私が見付けだす。絶対に見つけるから。比奈ちゃんは心配しなくて良いからね」
そう何度も念を押して美穂が去ると、入れ替わりのように所長が戻ってきた。所長は優しく比奈の肩を叩き、ロビーの様子を眺めた。フロントからはロビーの様子が見えるようにガラスの窓が設えてあった。ロビー側は鏡でトリックガラスになっている。
「おーおー!集まってる集まってる」所長が比奈を振り返りながら溜息をついた。「全く!このホームは、情報が漏れるのが速いんだから」
成程、ロビーにはオーナー達が集まって、ヒソヒソと話合っていた。
「さてと、あらぬ噂が広がるとイケナイからね、ちょっと行ってこようかね」
所長は茶目っ気たっぷりにウインクすると、ロビーに出て行った。
「さあ皆さん。お食事の時間ですよ」所長が手でメガホンを作って言った。
オーナー達が一斉に所長を取り囲む。
「ねえ、三宅さんのお財布が無くなったってホント?」
「比奈ちゃんが盗んだんですって?」
「怖いわねえ……」
皆がヒソヒソと喋りあう中で、岩永登美子がビシッと言った。「証拠もないのに人を犯人扱いするもんじゃないよ! 三宅さんは前にもダイヤの指輪が盗まれたって大騒ぎしたことがあるじゃないか」
「そうそう。あの時、ダイヤはお部屋のゴミ箱の中にあったのよね」岩永におもねる様に子分的立場の尾崎が言った。
「指輪をティッシュに包んで忘れちゃってさあ、ゴミだと思って捨てたとかいう話しでしょ」別の一人が続けた。
皆のお喋りを遮るように、所長が声を一段と高める。
「ハイハイ! 今日の夕食はシチューだそうですよ。先ほどの予報では、今夜の冷え込みは相当厳しいそうですよ。シチューを召し上がって温まってくださいね」
「シチュウ―かあ……」
「たまにはおでんが食べたいわね」
たちまちのうちに話題は食べ物に移り、皆は所長の後に従ってぞろぞろと食堂に向かって歩いて行った。
ロビーから皆が去ると事務所も急に深閑として、蛍光灯のジーッという微かな音だけが耳につく。
三宅さんのお財布が見つからなかったらどうしよう……、あの嫌な思い出が再び蘇る。
あの時もそうだった。誰かがお金が無くなったと騒ぎ、そして誰かが盗んだのは私だと言った。教室にたった一人でいたからと、それだけの理由で。盗難騒ぎの後は前にもまして嫌がらせがひどくなり、学校での私の居場所は完全に無くなった。
嫌な思い出を振り払おうと、私は立ち上がろうとしたがそれすら出来なかった。肩が重い。まるで家一軒が私の肩に圧し掛かっているかのように重くて息が出来ない。私はその場にしゃがみこんだ。
苛められる人間は何時だって、何処でだって、何もしてなくたって犯人にされ、苛められるのだ。
おばさんは……、私が泥棒と言われてると知ったらどうするだろうか……。もう一緒に暮らしてはくれないに違いない。なんとかして疑いを晴らさなければ……。
私は記憶を振り絞って、この数時間を頭の中に再現してみた。
そう……、あれは午後の四時少し前だった。南棟の廊下の窓が開きっ放しになっていて寒い、との苦情があったので、私は窓を閉めに行き、戻って来る途中で三宅さんを見かけた。三宅さんは中央棟の廊下で手摺に掴まり、苦しそうに胸を押さえていた。
「大丈夫ですか?」私は聞いた。
「大丈夫」三宅さんはそう答えたものの私に縋りついてきた。今思えば、私はこの時フロントに連絡すべきだった。でも、私はそうしなかった。
「貴女が部屋まで連れて行って下されば大丈夫。だからフロントには連絡しないで」と、三宅さんにそう頼まれたからだ。貼り絵教室での出来事を考えると、私は三宅さんの味方になってあげたかった。だから私は三宅さんを部屋まで送って行ったのだった。
ところが部屋に着くと、今度は「途中で転ぶといけないからベッドに寝かせて」と三宅さんはせがんだ。私は三宅さんをベッドへ連れてゆく為に靴を脱いで部屋に上がった。そうすると、三宅さんは急に元気になって、「一緒にお紅茶を呑みましょう」と言いだした。そして私に、お湯を沸かすように指示すると、自分は食器棚から青いバラの模様のティーセットとクッキーの缶を取り出した。
「このティーセットはね、スペインで買ったの。主人がマドリードの大使館に勤務していた時」三宅さんはニッコリと微笑んだ。
「スペインに住んでいたんですか?」私は聞いた。
「そう。まだ若い頃だったけど三年間スペインに居て、それから、ドイツ、イギリスといろいろな所を回ったわ」三宅さんは当時を思い出すかのように遠くに目をやった。
お湯が沸いたので私は帰ろうとした。でも、三宅さんは私の手を握ったまま離さなかった。「お願い! せめて、お紅茶だけでも飲んでいって」
仕方が無いので、勧められるままに紅茶を飲みクッキーを食べた。
そして、帰ろうとした時に三宅さんは「お礼を……」と言って財布を探し始めた。私はその隙に部屋を出てフロントに戻って来た。フロントに戻るやいなや、三宅さんから「財布を盗まれた」との苦情がきたのだった。
何が何だかわからなかった。
あんなに喜んでいたのに……。
なんで私が財布を盗ったなどと、三宅さんは言うのだろうか……?
もう誰も信じられない。
比奈が絶望のあまり机に突っ伏した途端に電話がなった。
ギクッとして電話を見つめる比奈。電話は鳴り続ける。八回、九回、十回。
「はい。春、春麗苑です」思い切って出るとかけてきたのは克代であった。
「比奈ちゃん?あんた比奈ちゃん」
「うん」比奈は頷いた。
「何してんの!送迎バスにも乗ってないし、もうとっくに帰ってる時間じゃないの!」
「だって、あたしがお財布盗ったって」
「エー!」電話の向こうで克代が絶叫した。
比奈はすぐに克代に言いつけたことを後悔し、「大丈夫だよ。心配しなくても大丈夫だから……」と言って、一方的に電話を切った。
電話を切った後で、私は盗んでいないと、ちゃんと言えば良かったと比奈はさらに後悔した。折り返して電話があるかもしれないと、電話を見つめていたが電話は鳴らない。
須賀も美穂も戻らず、独りぼっちで事務所に座っている比奈はどんどん追い詰められていった。
このまま財布が見つからなかったらどうしよう……。
おばさんだって、泥棒呼ばわりされる私なんか嫌いになるに違いない。
クラスメート達のあの冷たい視線が思い出される。
もう嫌だ! あんな思いはもう二度と御免だ。
私の居場所なんか、この世界の何処にも無い。
冷たく暗い渦がザワザワと音を立て、ゆっくりと私を囲み始めた。私の足元に底なしの不気味な沼が広がってゆく。私は薄い氷の上に乗っていた。沼にはヒルのような人食い魚が無数に蠢き、私を狙っている。たった一枚の薄い氷が、今は私を気味の悪い人食い魚から守っているが、もし、氷が割れれば、彼らは私を沼に引きずり込んで、血を吸い、肉を食いつくすだろう。
チクチク、ギリギリ、人食い魚が私を食いちぎる。
痛みが体中を走りまわる。
もう嫌だ!
こんな所には居られない!
比奈は春麗苑を飛び出した。月も無く暗い道を当てもなく歩いていると、行く手にポツンと、小さな灯りが見えた。
あっという間に、灯りは大きくふくらみ、眩い光が比奈を照らし出す。
――ああ、こんな所にあったのか。あれほど探しても見つからなかった天空への光の道、比奈がそう思った瞬間だった。クラクションが鳴り響き、鋭いブレーキ音と共にタクシーがつんのめって止まった。
「バカヤロウ!」車から首を突き出した運転手が怒鳴る。
「比奈ちゃん!」車から飛び出した克代が叫ぶ。
全てが一瞬だった。
「比奈ちゃん!比奈ちゃん!」駆け寄った克代が比奈を抱え起こす。
「おばさん……?」克代にしがみ付いた途端に、比奈の両眼から涙があふれ出した。
「何処?何処が痛いの」克代は比奈を立ち上らせて、身体を調べる。
「ぶつかっちゃいないようですよ」車から降り、バンパーを調べながらタクシーの運転手が口を尖らせた。「全く!肝を冷やしましたよ。急に飛びだすんだから」
「シャイニータウンに戻ろう」比奈の無事を確かめた克代は言った。
「嫌だ」比奈が首を振る。
「じゃあ、あんたは財布を盗んだの?」
「盗んでなんかない!」憤然として比奈は言った。
「だったら、シャイニータウンに戻ってはっきりさせよう」
「無駄だよ。どうせ誰も信じてくれないよ」
比奈の投げやりなものの言い方に、克代は眉を逆立てた。
「無駄でも何でも言うべきことはちゃんと言う。このまま逃げたら、あんたは一生、地獄だよ」
「良いよ。どうせあたしは駄目なんだ。何をやっても駄目なんだよ」
「そうはいかないね」克代はキッとして比奈を睨んだ。「あんたが良くても、私はそうはいかない。あんたを救えないなら、なんで私が生きてるの!」
克代は比奈を引っ立ててタクシーに乗せ、シャイニータウンに向った。
シャイニータウンの入口には須賀が立っていた。
「あったわよ!あったのよ!」タクシーのドアが開くやいなや、須賀が中を覗き込んで言った。
「あった?」克代の目が三角になり、声が尖った。
「はい。ありました。見つかりました」須賀がホッとしたように答える。
「何処に?」ありったけの非難を込めて、克代が須賀を睨んだ。
「三宅さんのお部屋に」
「それなのに、この子を泥棒扱いしたんですか!」克代の怒りは頂点に達しようとしていた。
「申しわけございません。中でご説明いたしますが、その前にちょっと電話を」ペコペコ頭を下げながら須賀はスマホを取りだした。「所長とアッちゃんが、比奈ちゃんを探しに行っておりますもので……」
「あの……」克代の剣幕に恐れをなした運転手が遠慮がちに声をかけた。「料金を」
「ア!」エプロンのポケットを探した克代が当惑して比奈を見る。
「またかよ!」比奈は事務所へと走った。財布は事務所に置いてあるリュックの中だ。
ところが比奈がロビーに一歩入った瞬間に拍手が沸き起こった。比奈を心配した入所者達がロビーで待っていてくれたのだ。岩永がブルドッグのような顔を綻ばせて「良かったね」と比奈の肩を叩く。誰もが笑顔で比奈を取り囲んだ。
比奈がロビーに入ったまま戻って来ないので、須賀にお金を借りてタクシー代を払った克代が、須賀と一緒に事務所に向おうとした時、庭園の方から所長が美穂を伴って帰ってきた。
「比奈ちゃん、見つかったって!」小走りの所長が叫ぶと、須賀は「はいっ」と叫び、大きく手を振った。走ってきた美穂が「比奈ちゃんは?」と聞く。
「中に」須賀がロビーの方を指差す。誰の顔もホッとしたような笑顔になっていたが、克代一人は険しい表情であった。
「見つかって良かったですよ」所長が克代に言った。
「ろくに探しもしないで、人を泥棒扱いするってどういうことですか!」眉を吊り上げて克代は所長に噛みついた。
「まあまあ、中で」須賀が二人にロビーを目で示す。ロビーに集まっていた人々が興味津津で克代と所長を見ていた。それに気が付いた克代が、比奈を手招きして事務所の中へ入ると所長も須賀も美穂も続いた。
「確かめもしないで、人を泥棒扱いするってどういうことですか!」克代が再び糾弾した。
「それは……、比奈君が一人で三宅さんの部屋へ行ったからで」しどろもどろに所長が答える。
「そりゃ呼ばれりゃ行くでしょうよ。仕事なんですから」
「だから最初に言いましたよね!」勇気を振り絞って所長が克代に反撃を試みる。「オーナー様の部屋には一人で行っちゃいけないって」
「仰いました?」克代が聞き直す。
「言いましたよ」所長が、ここぞとばかり胸を張る。
「あんた、聞いた?」克代が比奈を振り返った。
「聞いた」比奈は小さく頷いた。
「いつ?」
「面接の時だよ」
「当館のオーナー様の中には認知症にかかっていらっしゃる方が少なくありません。昔の記憶は残っていても、新しい記憶が抜け落ちてしまうのです。当館のセキュリティはしっかりしているので、実際に盗難の被害などはほとんど無いのですが、時々、不安にかられるのか指輪とかお財布などを隠す方がいらっしゃるのですね。隠し場所を覚えていらっしゃれば何の問題もないのですが、今回みたいに隠したことすら忘れてしまうと、盗まれたと思いこまれてしまって」所長の代りに須賀が説明をした。
「だから、絶対に、一人でオーナー様の部屋に行ってはいけないと、ちゃんと言いましたよ!最初に」所長がさらに念を押す。
そう言われて克代は思い出した。
面接の時、確かに所長は何かを延々と説明して、「おわかり戴けたでしょうか?」と念を押していた。取り敢えず克代は「はい」と答えたが、追憶に耽っていてよく聞いていなかったのだ。そうか……、あれはこのことだったのか。
「申しわけありませんでした」克代は詫びた。「御迷惑をおかけして……、ほんとに申しわけありませんでした。それで、三宅さんのお財布は何処に?」
「それが絨毯の下に」
「絨毯の下!」克代も比奈も思わず素っ頓狂な声をあげた。
「それもね、空気清浄機がその上に乗っかってたもんで」美穂が口を尖らせてた。
「そうなんです。だからなかなか見つからなくて……。二、三日前に隠されたらしいのですけど、そのことをすっかりお忘れになって、てっきり盗られたと思い込まれたようです」
帰り道、今夜は冷えるよと、克代は心配したけれど比奈は歩きたがった。エプロン姿で飛んできた克代は、事務所で防寒用のコートを借りて、二人は夜の山道を歩いて帰ることにした。
冷たい夜風が吹きすさぶ暗い山道をひたすら下って、手足も身体も凍えきった時、ポツンと揺れる赤い提灯が見えた。
「ラーメンだ!」比奈と克代は顔を見合わせ同時に叫んだ。
ガラス戸を開けると、湯気の中でラーメン屋の親父さんが「らっしゃいッ」と威勢の良い声をあげた。
お玉が鍋にあたってカチャカチャ忙しげな音をたてている。
「ラーメンと餃子」席に座るなり比奈が大きな声を出した。
「じゃ、私もそうしようかな」
「二人ともラーメンと餃子ね」親父さんが繰り返した。
店内を見回す比奈の笑顔を見てホッとはしたものの、この子を働かせるのはまだ早かったかと克代の心に後悔が走った。しかも、この笑顔だって本心かどうかは疑わしい。この子には時々無理して明るく振る舞う時があるからだ。嫌なら嫌、駄目なら駄目とハッキリ言えずに、曖昧な笑顔で誤魔化す。
そんなことだから三宅さんだって誤解し、今回の事件を招く結果となったのだろう。だとしても、この子は泥棒扱いされて弁解も出来ずに逃げ出し、行く場所も無く山道を彷徨っていたに違いない。どんな気持ちで暗い夜道を彷徨っていたのかと思うと、克代は比奈が不憫で堪らなかった。
「シャイニータウン、辞めようか?」克代は比奈聞いた。
比奈の方は克代のそんな気持ちなど頓着せずに、暖かな店内、醤油、ごま油、ニンニクと様々な匂いの中で幸せな気分に浸っていた。
「辞めない」比奈は首を振った。あんなことがあったのに、比奈はシャイニータウンを辞めたいとは思わず、そんな自分を比奈自身が不思議だった。
「それじゃ三宅さんを怨んじゃいけないよ」
「怨まないよ」比奈は本当に三宅夫人を怨んではいなかった。
「人を怨むと怨んだ本人の方が不幸になるからね」
「だから、怨まないってば」
「なら良いけど……」
「おばさん、あたしのこと心配して飛んで来てくれたでしょ。それに、所長も主任も美穂さんもあたしを信じて一生懸命にお財布を見つけてくれたし、あたし、なんかとても幸せな気分なんだ。始めてだよこんな気持ち。だからね、三宅夫人を怨むどころか感謝したい位だよ」
働くということは、こんなにも人を成長させるのかと、克代は目を瞠り、途端にお腹がグーとなった。気がつけば昼に握り飯を一つ食べただけだった。
「ヘイお待ち」ラーメンがきた。
比奈は一口スープを飲んでホッと息をつき、後は一気にラーメンを啜りこんだ。比奈にしても、昼食の後は三宅さんの部屋でクッキーを一つ摘んだきりなのだ。
「なんで三宅さんの部屋に行ったかって言うとね」ラーメンの汁を呑み干すと、比奈は丼を置きながら言った。「三宅さんていつもみんなから虐められてて…、可哀そうだなって思ってたからなの。あたしが味方になってあげることで、少しでも三宅さんの気持ちが救われれば良いと思ったんだ」
「そりゃあんた、思い上がりってもんよ」
「どうして?」
「それに、人を助けるために規則を破ろうなんて、十年いや百年早い」
優しい子だと、誉められるとばかり思っていた比奈は目を剥いた。
「規則っていうのはね、必要だから作られてるの。それを、可哀そうだからなんて安易な同情で勝手に破ったりしたらどういうことになるか。結局、皆に迷惑をかけた上に、三宅さんにだって辛い思いをさせたわけでしょ」
言われてみれば尤もだった。ほんとに、あたしはなんて浅はかなんだろう。やっぱり、あたしは何をやっても駄目なんだ……、ジッと見つめる胡椒の瓶が涙で滲む。
「大体がね、可哀そうなんていうだけの同情心は、〈まあ、私ってなんて良い人なんでしょう〉と思いたいだけの自己満足に過ぎない、と私は思うわね」
胡椒の瓶を見詰めたまま固まっている比奈を見て、克代は止めなければ、と思った。説教は止めなければ。だけど一旦始めた説教は止まる処を知らない。
「それに、岩永さんがホントに三宅さんを虐めたのかどうか……。大体あんたは、ちょっとニコニコされて可愛いとか、良い子だと言われりゃ良い人だと思うようだけど、人の言葉ほど当てにならないものは無いの」
「嘘じゃないよ!」比奈は涙の滲む目を克代に向け、貼り絵教室で見た光景、小川さんが岩永さんの命令で三宅さんの生地を取り上げたことなどを必死になって説明した。
「ふん」克代は暫く考え、声の調子を変えて比奈に訊ねた。
「それじゃあね、肉とジャガイモと人参と玉ねぎで作る料理ってなんだと思う?」
「ポトフ!」比奈は叫んだ。史恵の作るポトフは美味しい。比奈の大好物だ。
「ポトフ?ポトフにジャガイモ入れるの?」
「お母さんは入れるんだよ!入れちゃ駄目なの?」
「いや、まあ良いけど。普通はカレーとか肉じゃがって言うかなって…。それはともかく、同じ材料だって人によって受取り方が違うわけで、ましてや人の場合、一つの出来事だけで判断するのはどうかと思う。岩永さんっていう人は滅多に喋らないし笑わないし、ちょっと恐そうだけど、私には岩永さんが人を虐めるとは思えないのよ。それに三宅さんだって虐められるような人じゃない…」
「そうだよね。三宅さんは綺麗だし、外交官の奥さんだったから英語やフランス語だって話せるんだ。そんな人が虐められるわけがないもんね」
「それ、どういうこと?」
「イジメられる人はいつだって、ブスでバカで何も出来なくて、落ちこぼれの生きてる価値なんか無い人間だから」
「それは違う!」克代はピシリと言った。
「違わない!」今度は、比奈は頑なに譲らなかった。「おばさんなんかにはね、絶対にわかんないよ!」
「本当はね」克代は表情を和らげて比奈の目を見つめた。「イジメられるのは素晴らしい人だからよ。優しくて才能があって優れている人だからよ」
「違うね。素晴らしい人なら虐められるわけがない」
「天才と言われるような優れた人だって、全部が全部優れてるってわけじゃない。神さまは公平だからね、全部が丸く調和が取れている人にはずば抜けて良いってところも無い。反対に、人より優れた才能のある人には、欠けている部分があるってこと」
「じゃあ、三宅さんは天才?」
「それはさておき、三宅さんが本当に虐められていたのか、岩永さんが本当に虐めていたのか、明日ちゃんと調べてごらんなさい」
翌日、比奈がシャイニータウンへ出勤すると、昨日の騒ぎなど全く無かったかのように三宅さんはケロッとしていて、比奈が「おはようございます」と挨拶すると、いつもと変らぬ態度で、「おはよう」と微笑んだ。
昼休み、庭園の片隅で一緒に昼食を取りながら比奈は美穂に聞いてみた。
「岩永さんっていうか、ジャイアンてどういう人?」
「なんで?」
「いつも三宅夫人のこと苛めてるから……」
「そう思う?」
「うん。だって、この間の貼り絵教室の時、スネオのすねちゃんが三宅夫人の生地を取ったでしょ。あれってジャイアンの命令なんでしょ?」
「そっか」美穂は大きく頷いた。「比奈ちゃん遅刻してきたから知らないんだ。あれは、最初はねえ、三宅夫人とスネちゃんが同時に紫の金魚の模様の生地を取ったのね。で、スネちゃんが金魚は三宅夫人に譲って、赤い鹿の子模様の生地にしたのよ。そしたら、三宅夫人が『やっぱり、こちらにするわ』って、スネちゃんが持ってた鹿の子を取りあげたから、ジャイアンが三宅夫人に『そういうことをしちゃいけない』って注意したってわけ」
「何だ。じゃあ悪いのは三宅夫人だったってこと?」
「三宅夫人も結構ね、我儘なとこがあるから。ジャイアンは見かけはちょっとおっかないけど優しい。いつも弱い人の見方よ」
「そうかあ……」




