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僕らの特別  作者: 壬生一葉
二日前には行けません。
18/31

【5】

「あの人の事、忘れられないんでしょ」



杵淵は、藍が激しく動揺しているのを見て言うべき事ではなかったかと思ったが、もう口にしてしまった事だ。


「二年前、上野で飲んだ帰り、貴女とあの人が喧嘩しているのを、俺は見てました」


あの姿を、杵淵に見られていたのかと藍の目が更に見開く。信じたくはないが、彼の語る言葉に嘘は無い。

そう、藍が男に、藍の親友だった女と浮気の末、本気で恋に落ち子供を授かったと告白を受けたのは二年前の事だ。

知っていた、杵淵は其れを知った上で自分に近付いてきていたのか。


「貴女の声しか聞こえなかったけど…あの人が貴女の手を放したんでしょ?」


”手を放した” なんて生温いものじゃない。

藍は杵淵の、藍を想ってのその言葉の選択に胸が詰まってしまった。あの時の自分の声を聞いたのなら、男との別れが穏便で無かったのは知っている筈だ。なのに、杵淵は藍が傷付かない様にと最良の言葉を選んでくれた。


「貴女は目に涙を溜めて、俺の前を通り過ぎていきました。俺は」


杵淵は俯けていた顔を上げ、切なげな表情を浮かべて言う。


「貴女は、何処で泣くのかなって思ったんです」

「…」

「そんな風に勝手に思って、貴女から目が離せなくなってしまいました」


”すみません” と頭迄下げてしまいそうな勢いの杵淵に、藍は何と言って良いか全く思い浮かばなかった。


「二年経って、貴女の気持ちが前を向くと良いなとも思ってました」


前を向いたと言えば良いのに、藍は彼の名しか呼べなかった。


それだけの想いを持って自分に接していてくれたなんて思いもよらなかった。いや…でももし彼があの自分の過去を知っていると理解していたら、彼に警戒していただろう。あぁきっと彼はそうするであろう自分の事も想定したのだ。


   ――― 何て人



「…でも、もう、ちょっと限界、かな」



杵淵は思った以上に、ショックを受けていたのだ。自分でそう口にしてから、ずんと身体が重くなった気がした。

昔の恋人に再会して動揺して、更に二人の関係を問われた時のあの狼狽っぷり。よっぽど、彼に自分との関係を知られたくなかったのだろう。


少しだけ…いやかなり期待していたのかもしれない。

彼女から初めて食事に誘われて、浮かれ過ぎていたのだ。だから、落とされた様に感じるのだ。期待したから落胆するのだ。




「…又何時か…飲みに行きましょうね」



その何時かを、未だ杵淵には想像出来ない。けれど、自分の勝手を藍に押し付けてきたこの二年を思えば、彼女を放り出しちゃいけない筈だ。

彼女を置いていくような真似はしたくない。あの人と同じは嫌だ。



「杵淵君…私…」


声が震えている、藍はそんな情けない自分を叱咤するように右手で喉元を押さえた。



   ――― 彼は今、何て言ったの?



杵淵の言葉は、今日の仕切り直しの話なんかじゃなく不確定な何時かの話。

何故彼は、あの人の元へ戻れと言うのだろう。


藍は杵淵に対する想いを、言うべき言葉を、失くしてしまった。



何かを言いたげなのに、藍は声を失ってしまったかの様に其処に佇んでいる。杵淵は薄らと笑みを浮かべ、「また」と言い地下鉄へと潜った。

一段一段階段を下りていく内に、杵淵の胸の内に生まれた黒い塊が、どんどん大きくなっていく。


この二年、例え男友達と言う名だとしても藍の近くに居たのは自分だと言う自負は在った。なのに…あんな一瞬で、簡単に藍の感情が揺れたのを目にして、流石に平常では居られなかったのだ。


杵淵は乱暴に頭を掻き毟って「くそっ」と、普段の彼から発せられるとは思えない悪態を吐いた。







   ◇




「こんにちわ、水木会計事務所です」



藍が月次の業務で西田商事を訪れる。杵淵が彼女に視線を投げ、彼女もまた目礼をするのが近年の慣例だった。其れが無い事に、小名木や上市は少し違和感を覚えた。

昨日の今日で、杵淵は藍に振られた事を小名木達に話す時間が無かったのだ。


藍が亜紀子と別室に姿を消すと、肩の力を抜いた杵淵は裁断の終わったサンプルのテント地を所定のケースに仕舞って、乱暴に椅子に腰掛ける。


隣に座る小名木に一度目を向けて、小さな声で「振られました」と伝えると、小名木は驚き声量を抑えるのも忘れて「え?」と言った。杵淵は其れに微苦笑しながら「声デカイっス」と小名木を咎める。

二人の話が聞こえてたらしく、背中合わせに座っていた上市が椅子に付いたキャスターを転がしながら、杵淵と小名木の傍に近寄った。そんな珍しい光景を、紅緒と椎木は訝しげに見つめはしたものの、各々の仕事に意識を戻していく。


「言ったの?」

今度は声を抑えて、小名木は杵淵に訊いた。杵淵は首を横に振って応えたが、小名木達には理解不十分だった。告白をしていないのに、振られるとはどういう事だと。小名木と上市は、杵淵の言葉を待った。

「…昨日…偶然に昔の恋人に会って…そしたら彼女、凄く動揺して…其れで…あぁこの人は未だ、その人を好きなんだなって」

恋の顛末の話は終わりの様で、杵淵は口を閉じてしまった。小名木は僅かに首を傾げて、上市に至っては眉根を寄せている。思うところがあるらしい。


沈黙に耐え兼ねた杵淵は片手で顔を覆いながら「何か言って下さいよー」と自虐的な台詞を言うも、やはり二人は黙っていた。最早上市は戦線離脱状態だ。”聞いて損した” とばかりに大きな溜め息を吐き、椅子を定位置へと戻した。

小名木は杵淵側に寄せていた身体をしゃんと伸ばし、腕を組んで暫し考えた後、杵淵へ視線だけを向ける。


「其れは振られたとは言わないと思う」

「…」

「第一、振られた男がそんな未練がましい顔は止めときな。水木さんに失礼だよ」


杵淵は、優しい小名木の事だから慰めの言葉を掛けてくれると思っていた。だが慰めどころか、呆れている様な物言いだった。上市は其れすら通り越して面倒くさそうな態ではないか。


「カナさん、そろそろ良いですか」

「了解。早飯して行くか」

「あー良いっスね」


上市が腰を上げ、ローパーテーションの向こうの椎木も上体を起こして上市に応える。


小名木も杵淵との会話を切り上げ、自分の仕事へと戻っていた。西田商事は何時も通りで、杵淵だけ何だか取り残された気分だ。



椎木と上市が営業へと外出し、暫くして社長と紅緒が社を出て行った。小名木もミシンを掛ける為に縫製室へと上がって行き、事務所には杵淵一人になった。パソコン画面に作業終了報告書を入力し、時折藍が居るであろう応接室を振り返った。


小名木は言った。

『未練がましい顔』だと。仕方ないでしょう、二年の想いを昨日今日でどうにか出来ないんだから。

杵淵はそう思いながらキーボードに手を翳す。


その数分後、後方の応接室の扉が開く音がして、副社長の高い声、次に藍の応え。業務に集中していた筈の杵淵の心臓が一瞬跳ねた。

杵淵は藍に背を向けたまま身じろぎ一つせず、彼女が事務所を出て行くのを待った。出入り口のドアが開き、そして閉じられた。


「杵淵君、もうお昼過ぎてるわよ? 行かないの?」

「…え、あ、はい」


亜紀子に声を掛けられて、杵淵はカーゴパンツの尻ポケットに財布が入っている事を確認してのろのろと事務所の扉を潜る。初夏の眩しい日差しに杵淵は瞑目し、片腕で陽を遮った。


「杵淵君」


杵淵が良く知っている声。


「水木藍、三十歳。趣味は、特になし。でも好きな人(・・・・)がフットサルをやってるので、ちょっと興味が有る。本は税金関係ならほぼ網羅。映画は専らアクションが好きで、お酒はそんなに強くない」


藍は杵淵を見つめ、彼が自分に対しそうしてくれた様に、自己紹介を始めた。彼女がそうであった様に彼も戸惑っている。


「…で今度の日曜日、その好きな人は友達とフットサルの大会をやるって言ってたけど、私も行っていいかな?」


藍が杵淵との距離を縮める中、杵淵は驚いたままで、日除けの為の右腕も宙で固まっている。人間、自分の予想を超える事態にはなかなか対応しきれないらしい。

二人の距離が最も近付いたところで、藍が杵淵の右手首を掴みゆっくりと其れを下す。藍の指が手首から指へと移動して、杵淵の指をきゅっと握った。


「一昨日…杵淵君と食事するの楽しみにしてた…私の好きなお店を杵淵君に知って貰いたいって思ってた。朝から君を食事に誘おうと思ってたから緊張して、お昼に君から返信が有って今度はそわそわした」


指先から伝わる藍の体温を感じながら、藍の独白に杵淵は耳を疑う。


「…何時かなんて言わないで」

藍は握っていた杵淵の指先を自分の頬へと導いて、その掌に甘える様にほぅと小さく息を吐く。杵淵は見せられるその藍の表情に、どくりと一際大きい自分の心音を聞いた。



はにかむ藍を見つめながら、手から通ずる彼女の体温、彼女の言葉を冷静になりきれない頭の中で反芻し、杵淵は思った。

心の進路変更を考えていた二日間は何だった。彼女の感情を揺らしたのは、俺だった?

杵淵は思う。




   ――― 二日前の自分を罵倒したい、と













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