【4】
杵淵は、そっと藍に近付いてきて、そっと語りかけた。
『大丈夫』
『怖くないよ』
そんな風に。
人間不信に陥った猫を、手懐ける様に。
先ず杵淵と言う彼自身を彼女に晒した。自分はこういう人間で、貴女の傍に居たいのですと全身で訴えた。
だから藍は、杵淵に心を許したのだ。杵淵は藍を理解しようと心を砕き、ある一定の距離を保って、常に最大限の努力をしてくれた。彼のそんな優しさが、藍の心を開いた。
もう十分な程、杵淵と言う男が藍の心を占拠していたのだ。
◇
初めて藍から食事の誘いを受けた杵淵は、終業時間が迫ると集中力を欠いた。大判のデスクで生地を広げてみたものの手付かずで、後方でミシンを掛けていた小名木はゆっくりと椅子を回転させ杵淵の名を呼んだ。
「もう片付けして、十七時三十一分にはタイムカード打って帰っていいから」
何時もなら切りの良い所迄作業してから、あがる事にしているのだが今日はとても出来そうにない。其れを小名木も解ってか、杵淵にそう進言した。
「す、すみませんっマコさん!」
「いや良いよ、何時も真面目に仕事してるし、それに何か杵淵の嬉しさがすげー伝わって来るし」
小名木はそう言って笑った。もう長い事、この後輩が会計事務所の水木に片想いをしている事、杵淵が彼なりに彼女との距離を縮めてきたのも知っている。今日はその彼女の方から、杵淵への誘いが有ったらしい。其れは、大きな一歩に違いない。
「…水木さんから、メールくれたのも、食事に誘ってくれたのも…初めてなんスよ…。俺もう午後から完全に舞い上がってて…」
水木からメールが来たのは昼休憩の時だった。杵淵はそのメールを読んだ瞬間、手にしていたペットボトルを落としそうになった程だ。
小名木は嬉しさが隠し切れない杵淵を見ながら、その嬉しさが伝染したかの様に笑みを零した。
「最近水木さん、よく笑う様になったし、自分の大学時代の話とか…そういうのもしてくれる様になって…脈有りとか大それた事言いませんけど…でも、少しは俺に気許してくれてるんじゃないかなって…」
「少しどころじゃないんじゃないの? お前の話聞いてきた限り、其れって十分な進歩だと思うけど」
「だと良いんスけどね…でも、俺やっぱり年下で、水木さんからしてみれば頼りない事には変わりないし」
杵淵は、藍との時間を積み重ねていく内に、六歳と言う歳の差を痛感していた。
ジェネレーションギャップと言う程の物ではないが、やはり経験値の差は否めない。業種は違えど、仕事の話をした時等は尚更だった。
「年齢ってきっとそんなに問題じゃないよ。きっとその差も、杵淵のって言うか二人の気持ち次第で埋めていけるモノだと、俺は思うんだけどね」
小名木は遠距離恋愛中の彼女がおり、物理的『距離』にもどかしい思いをしている。何処か悟った様に杵淵にそう言い聞かせたが、その言葉はしっかり自分にも返ってきた。
「十七時半だ。お疲れ」
「あ、お疲れ様でしたっ」
杵淵は生地を手早く片付けると、小名木に向かって頭を下げ事務所へ続く階段を駆け下りた。
藍との約束の時間は十八時、待ち合わせ場所は彼女の事務所が有る門前仲町からも近い東西線木場駅だった。彼女が良く行くイタリアンレストランが有ると言う。
杵淵にとって其れはこの上ない事だった。
藍が自分のテリトリーに、杵淵に迎え入れる事に他ならないからだ。
二人は時間通りに落ち合う事が出来た。何時になく藍は緊張していたし、杵淵もそんな藍の様子に何処か照れ臭くなった。
「少しだけ、歩くね」
「あ、はい」
並んで歩き出し、杵淵は凄く藍を近くに感じていた。何時も僅かに遠かった隣を歩く彼女の気配が、とても近くに感じられる。腕が触れてしまいそうな距離なのか、彼女からの誘いと言う気持ち的なものなのかは解らない。
けれど、彼女の体温が直ぐ傍にある事は現実らしい。
「藍っ!」
名前を呼ばれた藍が立ち止まり、其れに倣う様に杵淵も足を止めた。藍が右側の路地に目を向けると、スーツ姿の男が二人居て、その内の一人が大きく右腕を振っていた。
「…堺君…」
藍の声が小さくなった。杵淵は向こう側に居る男にずっと視線を投げていたが、藍から発せられるオーラが硬くなったのを感じ取り、彼女を見下ろす。左肩に掛けていたトートバッグのショルダー部分を強く握る指が杵淵の目に留まる。
――― あぁ…
大きく腕を振っている男の横で、顔を俯かせているもう一人の男を杵淵は見据えた。
久々だな、あぁこんばんわ、俺は大学ん時のアウトドアサークルの部長だった堺です。貴方は? え? 藍の顧問先の人? あ、まぁこんな所で立ち話もナンだし、俺らあの店行く予定で、あ、ホント。じゃぁ久々に積もる話も有るし、一緒で良いよな。
藍の同期の堺と言う男は、此方に相槌さえ打たせず、ひたすらしゃべり続けた。
藍はすっかり口を噤んでしまい、杵淵は冷や水を浴びせられた気分だったが、この状態を甘受する事にした。
杵淵はあまり酒が得意ではないと訴えたが、堺は全く意に介さない。
「社会人として飲めるようになっておかないと」
飲みなれない赤ワインを目の前に用意され、口を付けない訳にはいかなかった。
「じゃぁ乾杯っ」
はしゃいでいるのは堺だけだったが、そんな事当の本人は気にしていないらしい。
「で、二人は何? 付き合ってんの?」
堺は腕をテーブルに乗せ身を乗り出す形で、隣同士座る杵淵と藍を交互に見る。堺の隣に座る男が、ハッとした様に顔を上げた。狼狽しているのか、ただ単に驚いているだけなのか、杵淵には判別がつかなかった。
けれど隣に座る藍が一番、狼狽えて「あ」や「え」と言葉を詰まらせていた。
杵淵は、瞼を一度下ろした。
――― あぁ彼女は未だ、この男の事を忘れて等いなかったのだ
今日の誘いが彼女の気紛れだとは思わない。恐らく、何時も食事に誘ったりする自分に対して申し訳ないと言う気持ちが生じたんだろう。だから、何と言うか、お礼の様な物がしたかったのだ。大きな一歩と言う訳では無かったのだな、と杵淵は結論付けた。
「今日、水木さんとうちの経理の女性が仕事の話を兼ねて食事する予定だったんですけど、彼女が行けなくなってしまって僕が書類を届けに。そしたら、水木さんがわざわざ来てくれたので一緒に食事でもって。でも、同期の方と一緒なら僕、帰らせて頂いても良いですかね? 実は女性と二人で食事って慣れなくてずっと緊張してたんですよ」
杵淵の口からスラスラと出任せが語られる。彼自身も良くこんな事言えるなと思いながら、足元の籐籠からビジネスバッグを取り上げて腰を上げる。
「きね…」
藍はすっかり顔色を失くしていた。杵淵は彼女の戸惑いに気付いたが、彼女と彼の問題は自分自身にはどうする事も出来ない事だと、目を瞑る。
「では、此れで失礼します」
杵淵は床板の上をゆっくりと歩いて、木製のドアに向かう。その背に「気を付けて」と堺の軽い声が掛けられた。カメリエーラがドアを開け放ち、恭しく頭を下げる。「御馳走様でした」僅か一口のワインの礼を言って、杵淵はその店を後にした。
「…藍、良いの…」
躊躇う様に男は藍に問う。何をと言う程、馬鹿ではない。
「で、お前らはちゃんと仲直りしたのかよ。お前らが別れて、しかも…」
場の空気を読めていない堺は、ワイングラスを片手に別れた二人にそんな事を訊く。堺の声等耳に入らない藍は、眉を下げ、焦る様に視線を動かしながら「ごめんっ」と席を立つ。
杵淵の時と同様に解放されたドアを潜り抜け、藍は階段を駆け下りパンプスでアスファルトを蹴った。杵淵が向かう筈であろう駅に向かって、全速力で走った。
藍は今日、杵淵と一緒に食事をする事を楽しみにしていた。父に「何か今日有るのか?」と揶揄される程、職場で浮ついていた。
会いたかったのだ。
なのに、昔の男と偶然にも会って動揺した。昔の男と言う存在に動揺したのでは無い。自分がこっぴどく振られた男を、杵淵に知られたくなかったのだ。杵淵の中で、自分と言う存在は仕事の出来る、しっかりとした大人の女に映っている筈だ。二股掛けられて振られる様なそんな女じゃない筈だ。
みっともない自分を杵淵に曝け出すのは、耐えられなかった。
でも、何より耐えられなかったのは、彼が席を立った時に藍に見せた困った様な、泣きそうな顔だった。彼にそんな顔をさせたのは自分だ。
彼にあんな嘘まで言わせて、何が大人の女だ。
藍はもつれながらも、杵淵に追い付く為に走り続ける。自分が手を伸ばす事を諦めたら、もう彼は自分に笑い掛けなどしない気がした。
「き、杵淵君っ!」
聞こえてきた声に杵淵は振り返り、そして藍の登場に驚いた。
「水木さん…どうして」
「…ごめんね」
藍は胸元に手を当て苦しい呼吸を整えながら、杵淵にどう言えば良いのか言葉を巡らせる。
「今日、貴方と、食事をしたかったのに」
「…いえ、良いんですよ。わざわざ其れを言いに走ってきてくれたんですか? 本当に律儀な人ですね」
少しだけ笑いながら杵淵は恐縮した物の言い方をした。だが、藍には何だか其処に壁を感じた。今まで、感じる事のなかった余所余所しさだった。
「杵淵君…?」
藍の頭の中に連ねた言葉の数々がすぅと消えて行く。
杵淵はその貼り付けた笑みを剥がし、藍の背の向こう、レストランが在った方に視線を遣って
「早く戻って。彼が心配しますよ」
と言った。
何も答えない藍に、杵淵は胸が痛む。藍の気持ちが、彼方へと向いたのが解ったからだ。
「あの人の事、忘れられないんでしょ」
藍は、驚愕に目を見開き片手で口元を抑えた。




