【3】
杵淵は長期戦覚悟で劇場の入り口に立つ。藍の姿を確認出来るこの場所で、何時間でも待つつもりだった。恐らく、藍は迷いに迷った末この場所に来る。彼女の事を何一つとして知らない癖に、杵淵はそんな根拠のない自信を持っていた。
希望的観測は多分に含まれている。
藍は杵淵の事を『ガキ』だと言った。辛辣な言葉を吐いて自分を引かせるつもりなのだと、杵淵は思う。其れも甘い希望かもしれないのだが。
会社へ来た時、別室へ籠る迄の藍と亜紀子との遣り取りから、藍が常に親身である事は確認済みだ。何よりあの日、藍は相手の男を叩こうとして振り上げた手を力なく落とした。
杵淵は何故あの時藍は、男に平手の一つでも打たなかったのか不思議に思った。彼女を裏切ったであろう男に罵倒一つで背中を見せ、杵淵の前を彼女は何かと戦う様に通り過ぎて行った。
叩いて、もっと罵って、自分が傷付いた様に、あの男を傷付ける権利を彼女は持っていた。
だが、しなかった。
相手を責める前に、彼女は彼女自身を責めたんだと、杵淵は考えたのである。
何故気付けなかったのだろう。
何が、いけなかったのだろう。
彼女は自分の落ち度を模索したに違いない。
だから、振り上げた右手を男に落とさなかった。彼女は、心根が優しいのだ。だから、来る。彼女はきっと此処へやって来る。
待つ間、二度程手洗いに足を向けた。其れは数分だ。空腹を覚えたけれど、杵淵は持参したペットボトルの水で、口内を湿らす程度にした。劇場の壁に背を預け、杵淵は視線を百八十度巡らせた。何処から彼女がやって来ても見逃さない様に。
ずっと立ち通しで、血液が全て足元に集まっているような感覚さえ有る。杵淵は人の目等気にする事無く屈伸運動をし、腰に両手を当てて固まった上体を後ろに逸らす。僅かに眉を寄せ目を閉じた。ぱきっと関節が軽い音が立てる。血液が又正常に流れ出すのを感じ、杵淵はふぅと息を吐いた。左腕の腕時計を確認すると午後三時を過ぎていて、流石に苦笑いが零れた。相当意地になってるなと言う自覚も有る。
希望を抱き過ぎたかな、とその左手で前髪をくしゃりと混ぜた。
観ようとしていた映画は次の回が最終だ。恐らく、今日この映画を観る事は無いんだろうなと確信めいて笑みを深くした。其れでも杵淵は待つ事を止めるつもりはなかった。どうせ五時間待ったんだ。終電迄の八時間等大差ない。流石に明日の仕事には差し支えそうだと自嘲した。
薄手の長袖一枚で、十月の夜は寒い。四肢の末端が麻痺している杵淵は、夜の帳が下りた銀座の街に、待ち人の幻影を瞼の裏で見ていた。日中には無かった風が杵淵の体温を攫っていく。
「十時、か」
杵淵の左腕がぎこちなく、身体の側面に垂れる。吐く息が白く、季節は秋なのだと感じた。三ヶ月前、七月のあの日、杵淵は藍を”会計事務所の人” ではなく、一人の女性として意識し出した。同情、興味…決して褒められるような思考じゃないけれど、男女の始まりなんてそんなものじゃないだろうか。
興味が有ったんだ。何時も笑顔を絶やさない藍が、目尻に溜めたあの涙をどんな風に落とすのか。
「はっ…」
流石に頭が痛い。杵淵は額を右手で覆い首を垂れた。
彼女は、来ないのだと希望を捨てたら気力も持って行かれた。集中力の限界だったみたいだ。杵淵は壁伝いに地面へと崩れた。ズキズキと痛むせいで眉間に皺が寄る。終電迄もたなかったな、なんて思いながらやっぱり苦い笑いが漏れた。
少しマシになったら帰る、其れでもう…―――――。
もう、何だ。好きなのを止める、か? あぁ…俺は既に彼女に夢中だったんだなぁ。膨れ上がった気持ちをどうやって止めたら良いんだろうなぁ。
「…馬鹿な人」
薄らと開いた目の先に、女性物の靴が飛び込んでくる。杵淵は右手を外し、凝り固まっている首を上向かせた。そして、力なく目を細めて微笑う。
「来ると、思った」
藍は今にも怒り出しそうな、其れでいて泣きそうな顔で、杵淵を見下ろしていた。
◇
それからの二人は、少しだけ”顧問先” を超える程度の関係になった。藍は、杵淵から向けられる感情を知っていても、容易に受け入れられなかった。杵淵の気持ちを疑っているのではない。藍自身が、恋愛に臆病になっていたからだ。信じていた人に裏切られる。あんな辛い思いは一度で十分だと、杵淵に心を開く事はしなかった。
杵淵もそんな藍の心情を慮って、無理強いはしない。負担に思われるのは我慢ならない。だから、デートに誘うのは数ヶ月に一回ないし二回程。杵淵と言う存在を藍が忘れてしまわないギリギリのインターバル。其れが声を掛けてからの一年目。
二年目になると、藍も杵淵に対して気安くなった。杵淵も其れを確認して、デートへの誘いを増やした。
藍は、前の恋人を忘れてなどいない。寧ろ、囚われている様に見えた。杵淵と一緒に居ても、何処か視線が彷徨う。恋人に似た男を目で追っているみたいだった。
杵淵に勝算は無いのかもしれない。けれど、この勝負を下りようと思えなかった。杵淵は、藍の笑顔を見たいと思った。営業用の笑った顔じゃなくて、屈託無く笑う顔を見たいと思った。
杵淵と藍は友達の様な関係を二年続けて、その間、杵淵が藍に性的に迫った事は無い。「好き」その一言さえも囁かなかった。はっきりと言葉にした途端、藍は杵淵とプライベートで会う事を止めてしまうと危惧したからだ。
藍はと言うと、この二年で杵淵の優しさに触れ、心の傷が癒え始めていると感じていた。
年下だなぁと思う一面は有るけれど、其れを上回り、杵淵の優しさが藍を包み込んでくれる事が多々有った。彼と一緒に居る事は心地良かった。
彼の優しさの中に、自分を愛おしく想う気持ちが含まれている事も承知している。だから自分は狡いのだろう。彼の優しさにつけ込んで、自分を優位に立たせて、杵淵は、彼は自分を裏切らないのではないかと高を括る。
何時か罰が当たると思いながら、杵淵と言うドロドロの甘さから抜け出せないでいた。
「水木さん、フットサルやってみない?」
「無理無理。球技は苦手なの」
「敵前逃亡は止めてくださいよ。俺が諦め悪いの知ってるでしょ?」
其れが二人にとって友好関係の始まりである事は明らかだ。互いの頬が緩む。
「じゃぁ見に来て? 今度、知り合いのチーム集めてゲームやるんですよ」
杵淵はフォークにパスタを巻き付ける為にプレートに視線を落とす。巻かれたパスタはピンポン玉位のサイズになって、杵淵の大きな口に消えて行った。相変わらず食べっぷりが見事で、美味しそうな顔をする杵淵に、藍は自然と笑みを零した。
「ん? 何ですか?」
「そっちにすれば良かったかなって」
杵淵の選んだトマトクリームパスタに視線を注いだ藍はそう答える。
「ペスカトーレ、辛すぎた?」
杵淵は無限に優しい。永遠等有りはしない事を、藍は解り過ぎる程解っている。
肩を竦める藍の前に置かれたペスカトーレのプレートと、自分のプレートを杵淵は取り替えた。藍は取り替えられたプレートに目を細めながら
「ちょっと、少なすぎ」
と小さな抗議。素直に”有難う” と言うには、何だか苦い気持ちが込み上げる。
「腹減ってて」
杵淵が無邪気に笑うのを見て、藍はやっぱり可愛いなと思う。恋なのかと問われると答えに窮するけれど、今の自分にとって杵淵の存在は大きなものだと言う実感は有った。
そんな大きな存在に膨れ上がった彼を、失ったら…? 失ったら?
――― そんな想像怖くて出来なかった
「デザート、俺のもあげますから」
杵淵は、優しく藍に向かって微笑んだ。藍は其れを余す所なく受け止めながら、胸に広がる甘い痛みを否定出来ずに、口元だけ笑みを浮かべると瞼を伏せた。
◇
「では、申告書はこの数字と言う事で。清書しましたらご印鑑を頂きたいので、又お伺いしますね」
「うん、ご苦労様」
仕事の話が終わると、藍は顧問先の社長と他愛ない話を幾つかして、その会社を後にした。予定を少しオーバーしてしまった藍は、携帯で電車の発着時間を調べながら歩道を足早に進んでいく。手元の携帯にばかり気を取られていた藍は、向こうから歩いてくる人物に全く注意を払えなかった。
軽い衝撃があって藍はアスファルトの上でパンプスをよろめかせた。失礼を詫びようと藍が視線を上げ、ぶつかった相手は謝罪の言葉を口にし掛けて途中で止めた。
顔を見合わせた二人は、息を詰めた。
「藍」
「…」
慣れ親しんだ筈の彼の名前を、藍は呼べなかった。
二年前、他に好きな女が出来てその女と結婚すると言った男は、昔と同じようにスーツに身を包み、二人が好きだった臙脂色のネクタイを首から下げていた。
薄れていた筈の痛みが、ぶり返す。身体を強張らせる藍とは対象に、男は申し訳なさそうに眉を下げ俯いた。顔を合わせる事さえ、おこがましいと思っているかの様に。
藍は、逃げ出したかった。でも、其処に俯く罪人の様な態の男を前にこの場を立ち去る事は憚られた。
何故、そう思えたのだろう。
「―――」
名前を呼んだだけで、男は驚きの色を浮かべて顔を上げ、藍を見つめた。
二年、あの別れから二年が経った。許せないと思った。
自分を裏切った恋人を、親友を。そして、自分を。
藍は自分の恋は何処にでもある様な、普通の恋だと思っていた。価値観の違いもなく、互いに理解し合っていると思っていた。男は商社の営業で、片や自分は税理士で、忙しさを理由に会わない日々を正当化して、其れでも自分達は大丈夫だと何故思えたのだろう。
他人なのだ。全てを分かり合える事なんて難しいのに。そんな事さえ失念していた。
分かり合えなくても、分かち合う事は出来る、当人の努力次第で。
自分は努力を怠った。男の寛容さに甘えて、彼の愛情に胡坐を掻いた。だから、あんな結末になったのだ。当然の報いだったのだ。
断罪を待つ男に、藍は言う。
「子供は、もう歩くの?」
傷付いた痛みが昇華していく。若干の緊張を孕みながら、でも穏やかな声で藍は男に問うた。男はくしゃりと顔を歪めて
「あぁ、目が離せない」
と声を上擦らせて答える。
藍は、無性に杵淵の顔が見たくなった。




