【4】
余り練習もしない弱小バレー部だ。所謂”春高” は何時も予選の一回戦負け。
けれど椎木は、その一回戦突破を切に願う美知の傍で、彼女に一つでも高い場所を見せてあげたいと思い始めていた。彼女は二年で春高の予選に参加出来るのも後一回。
そう思えば、週二回の練習にも熱が入る。
椎木は自宅に帰っても毎日、床に横になって頭上での直上パスを繰り返した。
彼女には叶わなかった”気持ちの良いスパイク” を打って貰う為の、最高のトスをアタッカーにあげなければ、只管其れだけを思った。
「奏大、ちょっと良い?」
椎木の部屋のドアがノックされ、陽大が室内へとやって来る。椎木はボールを抱え、上体を起こして陽大を見上げた。
「顧問の先生に相談して欲しいんだけど、うちと練習試合しない?」
陽大からの練習試合の申し込みは願ったり叶ったりの申し出だった。
「大学生となんて、こっちに断る理由ないよ」
と椎木が言うと、陽大は申し訳無さそうな顔をする。
「大学生って言ったって、遊びでやってる奴多いし。逆に悪い気もする。こんなに真面目に練習してる奏大見てると余計にさ」
「でも経験者だろ?」
「うん、まぁね」
「じゃぁ嬉しいよ。早速明日聞いてみる」
「うん、時間こっちが合わせるし」
陽大は謙虚な申し出をしたが、椎木はそうではないのだと解っていた。
恐らく、自分が毎日練習している姿を知って弟の為に何かしてやりたいなと思ってくれたのだ。陽大はそういう優しさを見せる。兄貴には敵わない、と椎木はつくづく実感した。
陽大の申し出からそんなに日が経たない内に、練習試合が執り行われた。
結果から言って、椎木達高校生チームは大敗した。陽大は遊びでやってる奴等と軽口を叩いたが、実際はそうでは無かった。何と、春高常連校、インハイ優勝校の卒業生ばかりが居たのだ。椎木もBチームのセッターとして陽大達と対戦したが、オーラの違いを見せ付けられた気がした。
大負けの大負けで意気消沈してるかと思いきや、上級生達は清々しい笑顔を浮かべ、陽大達に指南を仰いでいる。結果オーライかと安堵の息を吐いた椎木だった。
誤算は、美知と陽大が出逢ってしまった事。
弱小ながらも一回戦突破を目標に掲げた椎木達に、陽大の大学のサークルメンバー達はコーチを買って出てくれた。初めての練習試合から数ヶ月後に、椎木達は自分でも上達したと解るほど力を付けた。
そして、春高への道、予選を数日後に迎えようとしていたある日。
椎木は見てしまった。
同じ制服に身を包む美知と、兄の陽大が手を繋いで歩いている場面を。
まるでこの世に美知と陽大しか存在しないかの様に、椎木の目には映った。その他は閃光の様に白かった。美知と陽大にしても、互いしか見えていないみたいにずっと視線を交わらせている。
数秒か数分か。「奏大!」と呼ばれた声に、固まっていた身体が弾かれた。
馴れ馴れしく椎木の肩を抱き、何時もの垂れ目で秦が「どうした、ボーっとして」と椎木の顔を覗き込む。
秦は陽大の大学のバレーサークルのメンバーの一人だった。人懐っこくて、椎木達高校生にとって兄貴の様で友達の様な存在だった。
椎木の見つめるその先に、二人を見つけた秦が「あー」と又眦を下げる。
「付き合いだしたみたいだな」
秦はそう簡単に言った。
信じられなかった、いや椎木は信じたくなかった。
自分の方が美知と先に出逢い、美知を先に好きになった筈だ。
何で、選りにも選って兄なのだ。
年下だから? バレーが上手くないから?
何で兄を選んだんだ。
激しい嫉妬が椎木を駆り立てる。走り出して、陽大の胸倉を掴んでしまいそうな衝動に駆られる。そしたら、美知はどんな顔をするだろう。
「美知ちゃん良い子だもんなー陽大と似合いだわ」
秦の他意等ない感想に、椎木は食い縛っていた歯を緩めて、握っていた右手を自由にした。
「兄貴と、先輩とか…ちょっと俺的には、複雑ですけどね」
椎木はそう言って苦笑いをしながら、肩を竦めるのと同時に全身の力を抜く。秦に気付かれていなければ良いのだが、そんな懸念を抱きながら。
その夜、椎木と陽大は珍しく夕飯の時間が重なった。父はリビングでテレビを見ながら晩酌をしていて、母は風呂に行っていた。ダイニングテーブルでは二人が立てる食器の音だけだ。
何かを言いたげな陽大の様子に、椎木は茶碗片手に「何?」と問う。
「あー…あのさ、東郷さんとさ…」
普段から大学生達は、美知を”美知ちゃん” と呼んでいる。陽大とてそうなのに、何故今日に限ってそんな呼び方をしたのか。椎木は苦い気持ちを胸に秘めて、吹き出したように笑って見せた。
「さん付けとか…付き合ってるんでしょ。今日俺、見たよ。二人で歩いてんの」
椎木に告白された陽大は、何時になく落ち着きを失って箸を持った右手で口元を隠しながら余所に視線を逃す。
「何だ…お前も人が悪い、言ってくれれば良いのに」
「てか、わざわざ茶化すほど俺、暇じゃないけど。もう直ぐ中間考査」
「ま…そっか」
椎木が本来、他人の事に自分から首を突っ込む事が無いのを陽大も十分に理解しているせいか、そう納得した。
好物の生姜焼きを口に放り込みながら、椎木は胸を撫で下ろす。陽大が浮付いている様で助かった、椎木は一度ゆっくりと瞼を下した。
美知と陽大は順調に付き合いを重ねた。希望通り、美知は薬剤師になり、兄は商社で出世街道に乗っていた。椎木はと言うと、大学卒業後広告代理店に勤めるも自分には不向きだと判断し、今の勤め先西田商事に転職をした。就職難は世の常で有ったが、椎木程の有能さを持ち合わせれば引く手数多、けれど彼はわざわざ小さな企業に就職した。
広告代理店が自分に向いていないと言うのは事実だ。だが、わざわざ小さな会社を選んだのは意味が有る。
椎木は、陽大と同じレールに乗る事を明確に拒絶したのだ。
兄の背を追うような生き方をしたくなかった。
自分の生きる道に、東郷美知と言う女性は居ないのだから。
椎木は、美知と出逢い彼女に思慕を抱き十三年の時を過ごした。諦めなければと何度も思い、美知が手に入らないのだからと別の女とも付き合った。けれど、ただ単に美知ではない、誰でも良い女なのだと認識を深めるだけだった。
陽大と彼女が付き合う以上、椎木は美知との接触も断ち切れなかった。
家を出て遠くに行ってしまえば良い。そしたら何時か薄れる可能性が有るから。
だが、其れを秦が許さなかった。
『陽大は薄々感じてるんじゃないかな』
椎木の抱える想いに秦は気付いていた。そして、釘を刺す。
家を出れば、椎木の想いが決定的なものになる。其れは椎木の望むものではない。美知を手に入れるには、余りにも障害が大きすぎた。
己の想いを貫けば、失うものが大きい事も解ってる。なのに、切り捨てる事は叶わなかった。
其れは簡単では無かった。何故なら、美知もとうに椎木の想いに気付いていた。
だから。
何も無かった様な顔をするのは、この時の、椎木にとっては難儀な事であった。
椎木から送られる熱い眼差しを美知は知っていた。それでも尚、陽大の愛に応え、椎木に対しても『先輩』の顔をし続けた。
美知は椎木を弄んだ訳では無い。椎木の無言の想いには、ノーも言えなかった。時が過ぎるのをただ、待つしかなかった。美知には其れしか許されなかった。
陽大との安寧に抱かれながら、美知は椎木の熱情を受けて、流した。
其れが、二人にとっての常だ。
椎木が二十八、陽大が三十一になった年、陽大に海外赴任の辞令が下りた。当時、海外での勤務年数は定かではなかったのだが、美知と陽大は迷いなく遠距離恋愛を選択した。
椎木はその選択を、苦々しく思ったものだ。
『俺達は離れていても大丈夫』 そんな愛情の深さを見せ付けられたと、荒れた。
後腐れのない女を貪って、深酒を繰り返した。
そんな生活を送っていた椎木の前に、何の前触れもなく美知は現れた。職場を教えた筈もないのに、会社のドアを開けた先に美知が立っていた。とうとう幻覚を見る程かと、慄いた。
「お義母さんが、心配してたよ」
彼女の長身に似合うロングコートのポケットに手を入れながら、彼女は椎木を促す様に先を歩き出す。椎木は二メートル程離れて、彼女の後を追った。
「兄貴に言われたんだろ」
椎木はハッと短く息を吐き出した。母親が俺の身体を心配してるのは知っている。今朝だって今日は帰って来るのかと心配顔で問われたのだ。そんな母がわざわざ長兄の彼女を俺の元に寄越す訳が無い。母の心配はしっかり者の兄に伝わり、兄が様子を見る様にと美知の足を此方へ向けさせたのだ。
其れが解らない程、腐っていない。
「…椎木君」
美知は、高校の時と変わらず彼を名字で呼んだ。
冬の夜は凍てついていて、鼻が痛むくらいだった。美知は立ち止まり振り返ると、哀しい目を携えて椎木を見つめた。
「陽大から、プロポーズされたの」
――― あぁやっぱり彼女は美しい。痛みを背負いながらも、彼女は美しい
「…そう」
遅かれ早かれ、そうなるだろうと思っていた。椎木達を取り巻く人間全てがそう思っていた筈だ。
「私も椎木になるから、もう椎木君って呼べないね」
美知はそう言って小さく笑った。吐き出した息は白い。椎木が其れに対して何も答えないので、美知は俯き、きゅっと唇を食んだ。空気が乾いているのだ。
「奏大君…もう、終わりにしよ?」
美知は、始まってもいないモノに終わりを告げる為に顔を上げた。その頬を濡らすのは、涙と言う代物だろう。
何を、とは訊かない。
何を、とは言えない。
椎木は美知との距離を縮め、声無く泣き続ける彼女の身体を抱き締めた。美知も抗わず、椎木の首筋に顔を埋める。
想い続けた彼女の体温をその手に感じた椎木は、此れ以上無い程に力強く彼女を抱いた。椎木は、自分の腕の中で震える美知から、沢山の想いを甘受する。
”有難う”
”ごめんなさい”
そして、”好きだったよ”。 きっとその好きは、陽大に対しての物と比べ物にはならない。けれど椎木にとって、この先を穏やかに生きていける程度には、大きな愛情だった様に思う。




