【3】
恒例の日曜がやって来て、椎木は重苦しい空気を纏い二階の自室より、階下のリビングへと下りた。
「おそようだな、奏大」
リビングに続くドアを開くとソファの上で椎木より三つ上の兄、陽大が朝刊に目を通していた。
「…はよ」
椎木は寝ぼけた振りをして、頭髪を無造作に掻きながらキッチンへと視線を遣った。キッチンでは、椎木の母親と陽大の恋人、美知が何やら楽しそうに話し込んでいる。
椎木は、彼女の笑う姿を一瞬見ると直ぐに大欠伸をして食器棚の横に有る冷蔵庫の扉を開けた。
「おはよ、奏大君。朝からお邪魔してるね」
「はよ」
美知からの挨拶に、兄と同様に簡素に返す椎木。ミネラルウォーターのペットボトルを取り出して、ソファへと戻った。
「何どっか行くの?」
キャップを取り、二リットルの其れを口へと付けた。冷たい水が余計な事を考えない様にと、頭をすっきりさせる。
「うん、何かエステを申し込んだらしくて。俺は足」
陽大は椎木と同じ様に優しく笑う。
「エステ…母さんが?」
「一度もそういうの行った事ないから、夢だったんだって。娘と行けるってのも、嬉しいんじゃないの」
そう言う陽大も嬉しそうだな、と椎木は思った。
椎木と陽大は容姿が似ている。背丈もほぼ一緒だし、学校の成績や運動能力も大きく差異が無い。だから弟が兄に変なライバル心を燃やさなかったし、自虐行為も無かった。親の遺伝子と、育て方が良かったのだろう。
そんな二人が決定的に違うのは、性格だろうか。
陽大は温厚な性格だ。マイペースだが、回りが見えていない訳では無い。博愛とでも言うべきか、分け隔てなく他人に寛容で、人望が厚い。
椎木は、聡く要領が良い。軽薄とは言い難いが、自ら面倒事に巻き込まれる様な事はしない。かと言って孤高を気取るでもなく、友人に助けを求められれば手を差し伸べてしまうもので、彼を取り巻く友人も又多い。
故に椎木兄弟は美丈夫な上に、性格も良いと評判なのだ。
「ふうん」
「あ、奏大さ、お前一人暮らしの予定とか有る?」
「今んとこ、ないけど」
「今度、引っ越すだろ? で買い替える家電が有ってさ、もし必要なら奏大優先であげるよ」
陽大と美知は、もう直ぐ結婚式を挙げる。陽大が一年前迄、海外で仕事をしていた為挙式や入籍が遅れていたのだ。誰もが、待ちに待った結婚式だ。
椎木は胸に僅かな痛みを感じながらも、考える振りをした後に
「特に無いよ。家に無い物、ないでしょ」
と言った。
「テレビは? 三十二インチなんだけど、お前の部屋に要らない?」
「…家でゆっくりテレビ観る時間無いしなー。俺は良いよ、秦さん辺りにあげたら? あの人、未だ独りでしょ?」
椎木が陽大の同級生だった男の顔を思い浮かべてそう言うと、陽大は目を細めて笑う。
「そうそう、よく知ってる。まず秦に声掛けようと思ってる」
「そうしなよ。あの人めっちゃ喜びそう」
椎木も陽大に合わせ、笑った。
もし、今欲しい物が有ったとしても、陽大と美知が使用してきた物を受け取るつもりは椎木には無かった。
美知は一ヶ月後、椎木の兄である陽大と法的に婚姻を結ぶ。
本当に、椎木には手の届かない女になる。今一度触れる事の出来ない、存在に。
椎木の通っていた公立高校は誰もが部活動に携わらなければならない校則が有り、椎木は活動の少ない部活を探していた。進学校と謳われる椎木の学校は、一部の運動部を覗いては文化部の方が精力的で有った為、椎木は手頃な男子バレー部に入部を決めた。中学時代、体育でバレーの経験が有り、兄の陽大が中学、高校とバレー部だったと言う経緯も有る。
他の運動部との兼合いで男バレが体育館を使用出来るのは週に二日。土日は、インハイ出場常連のバスケ部が基本だったので、本当にたった二日汗を掻けば良いだけだった。
東郷美知は、椎木の一学年上で男バレのマネージャーだった。其れが椎木と美知との出会いである。
練習が終わると一年は道具を片付け、床にモップを掛ける。美知は、顧問と練習メニューの話をした後に、必ず一年と共にボールの汗を拭き籠に仕舞った。
中学でバレー部だったと言う男が「先輩、俺らがやります」と声を掛けたのに、からりとした笑顔で彼女は言った。
「良いの良いの、好きなのボール」
何でも彼女は小学、中学とバレーを続けてきたのだが、大学進学を強く希望している為この高校を選んだ。だけど好きなバレーから離れ難く、負担の少ない男子バレー部のマネージャーをやっているのだと。
そんな美知の心を知り、椎木は幾ばくかの後ろめたさを感じていた。
新入部員歓迎会が、四月最後の日曜日に行われた。上級生の実家が中華料理屋を営んでいて、バレー部員総勢二十五人がその店に集った。上背のある男も多いので、座敷はぎゅうぎゅうだ。二年目のマネージャーである美知は、食欲旺盛な男子高校生の為に、まるで店のスタッフ宜しく働いた。
「奏大君、よそってあげよっか?」
椎木と同じく一年のマネージャーとして入部した女が、テーブルいっぱいに並べられた皿を幾つか指さしていた。大食漢ではない椎木は、軽く首を横に振った後、美知の方に視線を遣って
「手伝わなくて良いの?」
と言外に下級の彼女を非難した。
するとその女は椎木の言葉を額面通りに受け取った様で、眉を八の字に下げて小さく笑い答える。
「手伝いましょうかって言ったら、私も一年の時には其処に座ってたから大丈夫って」
確かに、新入生歓迎会なのだからそうしていても誰も咎めないだろう。
だが…美知の言ってた事は本当だろうか。三年にマネージャーは居ない。きっと昨年の今頃も、美知はああして甲斐甲斐しく働いていたに違いない。
身長は女にしては平均より少し高い彼女。これまでの名残なのかショートカットで、彼女が動く度に毛先が軽やかに揺れた。書く必要もないしっかりとした眉毛に、奥二重の目。鼻は僅かに低いが、肉感的な唇は印象深い。笑うと少し幼い感じに見えるが、きっとその笑顔で彼女は「良いの良いの、動いてるの好きだから」と言うのだろう。
椎木は手狭な席を立ち、美知に声を掛けた。
美知と言葉を交わす様になり、椎木は彼女にどんどん惹かれていった。自分には無い”情熱” を見たからかもしれない。彼女は薬剤師になりたいからと活動の少ない男子バレー部を選択した。だがバレーは今でも、とても好きだと目をキラキラさせながら彼女は言う。
「椎木君てさ、オーバーパス綺麗だよね。手首、凄い柔らかい」
椎木の緊張や恥ずかしさ等知ってか知らずか、美知は軽々しく椎木に触れた。掌に触れ、手首を前後に動かしていく。
「私、セッターやりたかったんだけど、なまじ背は高いし、オーバーあんまり上手じゃなかったから、アタッカーだったの。其れは其れで楽しかったけど…何だろ性格かな。誰かにして貰うんじゃなくて、誰かにしてあげたいって思っちゃって。ほらアタッカーってセッターにボール上げて貰うでしょ。この高さ、この速さ、この位置でって。セッターは逆でしょ。君にはこの高さ、この速さ、この位置が一番だから其処に上げる。だから気持ちの良い一本打ってって、上げれるでしょ。アレが私、好きなんだ」
喋り過ぎてしまったかと恥じたのか、美知の声が少し小さくなる。
何時の間にか美知の手は離れていたけれど、椎木の左手は不自然に浮いたままだ。
「だからマネージャー向き?」
彼女は笑ってそう言ったけれど、何処か淋しそうで、彼女がきっとこの弱小バレー部にもどかしい思いを抱えている事が窺い知れた。
「じゃぁ、明後日の部活の後一本上げて下さいよ。俺、頭使うの苦手だから多分セッター向いてない」
夏に一年しか出場出来ない新人戦が有る。椎木はスタメンでセッターと言うポジションを手にしていた。
「…そんな事言ってくれた人、今まで誰も居なかった」
「たまたまでしょ。俺が打ちたいって気持ち持て余してる時の先輩の話だったんで」
美知はじっと椎木の顔を見つめた。椎木は、想う所を酌んで貰っては困ると彼女が持っていたモップを奪う様に取り上げ、倉庫へと走る。
戻って来た椎木に、美知は「明後日、楽しみ」と笑った。
その笑顔が、ぎゅっと椎木の胸を締め付けた。
ネットを片す前の数分、美知は椎木にボールを上げた。彼女はオーバートスが下手だと言ったが謙遜だ。綺麗な弧を描いてオープントスが上がって来る。椎木は一番打点の高い位置で気持ち良く腕を振り下ろした。遮るもののないネットの向こう、ズドンと大きな音を立ててボールが床に叩き込まれる。
二人は一瞬の静寂の後、顔を見合わせ満面の笑みを零す。
何回かそんな事を続けていたら、キャプテンが美知の精度の高いトスに、アタック練習の時は反対側であげるか? と魅力的な誘いをする。美知は嬉しさの余り、目の縁を赤くしながら笑った。




