二 雪の精霊
冷たい眼差しが、疾走するアールを捉えていた。
喩えではなく、文字通りの冷たい眼差し。氷でできた瞳、とでもいうべきか。
彼女は嗤っていた。アールを、まるで幼い少年を見るような視線で見詰めていた。まるで、子供が遊んでいる様を見詰めて微笑んでいる母親のような。まるで、大いなる神が、自身の生み出した子供達を観察してほくそ笑んでいるように。慈悲の心ではない何かを持って、彼女はアールを見詰めていた。否、観察していた、というのが正確か。
「走ってる、走ってる。まるで子供が、雪遊びをしているかのようだ」
美しい、薔薇色の唇が綻ぶ。
真っ白い肌の上に薔薇色の唇は、とても良く映えていた。氷で出来たその体は、人間が触れればたちまち凍りついてしまうが、一目見ればこの世のものではない美しさと絶賛するであろう。その美貌は男を魅了するものだ。
彼女の体は地上には無い。雲と大地の間、大気中に存在している。大気に舞う、無数の雪の結晶の中に居た。
彼女は雪を統べるもの。雪の女王とも呼ばれる、雪の精霊である。
彼女の笑いが周囲に木霊していった。人々の耳に触れるこのとない、笑い声だった。
シリヤは何かを感じ取ったかのように、耳をそばだてていた。
帰結の精霊である彼女は、同じ精霊である雪の女王の声を聞くことができる。そればかりか、良く見知った顔であるし、彼女の身上を知ってもいた。
最近契約したヤーヤという猫娘の住まいに居住している。
「あやつ、またあのような事を……」
「あやつって誰?」
ヤーヤが少し気怠るげに、シリヤの言葉に誰何する。
「いや、すまない。そなたには関係の無いことだ」
そのような言葉で誤魔化せるほどヤーヤが単純で無いことは解っている。解った上での返答だった。何れはこの娘も巻き込まずにはいられないだろう、と思考を巡らせ、ゆっくりと上空を見渡した。季節外れどころか、場所外れもいいところの雪が舞い散っている様は正に幻想的だった。
さて、どうやってこの騒動を帰結に結びつけるべきか、と思案している。自分の魔法は帰結に辿りつくための道筋が通っていないと使えない。逆にいえば、その道筋が見えなければ魔法は使えないのだ。
ふと、四つん這いになって伸びをしているヤーヤの方を見て、目を細める。この娘を守るためならば、我は如何様にも振舞おうと決意するシリヤであった。
まるで子供のような笑みを湛えながら、駆け抜けるアール。目的の場所なんて決まっていない。ただ、その方角は城を指し示していた。この街のことを熟知しているあの人なら何か解るかもしれない。それは、淡い期待だった。寒さのためか、吐息が白い蒸気になって消えていく。自身は走っているため、あまり寒さを感じない。
図書館に行こうと思った。
図書館にならば、この不可思議な現象に関する文献があるかもしれない。そのことに思い至ったのは、はたして黒猫が前を横切った後だったか、前だったか。図書館のある方角は街の南東で城と真逆なので、右足を軸にブレーキをかけ、そのまま後ろに振り向いて軸にした右足を蹴りだして加速した。わざわざ止まるのももどかしい。走っていれば体も温まるし、今更止まろうとたたら踏んだところで滑って転ぶのが関の山だ。先ほどのUターンで転びそうにはなったが。
常に走っている状態、というのは心地良いものだ。上気して火照ってくる身体、息が切れていてもそれが苦しみとはならない。発散する汗も清々しい。ランナーズハイというやつだ。長距離走者はそうやってモチベーションを維持しているのかもしれない。
そうこうしている内に図書館に辿りついた。街の南東で、ほぼ街外れと言ってもよいところにある。かといって不気味な雰囲気を醸し出している、とか言う訳ではない。人々の憩いの場所になっており、人の出入りは多い方なのだ。
とはいえ、この寒さの中、好き好んで外に出ている人はいない。ましてや街外れの図書館ともなれば、閑散としている。
「自分は好き好んで外で活動しているがな」
何かの余裕を見せてアールは図書館の中に入っていく。
この街の図書館は誰も彼も自由に出入りできるようになっている。領主の計らいで、知識に階級は無い、という事らしい。それが豊かさに直結しているのだから、領主の力量も侮れない。
「開いているのかな……?」
開いているであろうことを期待しつつ、扉を押してみた。
はたして、扉は開いていた。
「この寒いのに、よく開館しているよな」
ぼやきつつ、その根性に感謝して扉の中に入った。
図書館の中は凍りつきそうな寒さだった。一瞬、氷室の中にでも入ったかのような錯覚を覚えるほどだ。現実に戻ってみると、そこは図書館の中だった。
一階の中央がロビーになっていて、真ん中に司書の人が鎮座ましましている。通常は二人ほど常駐しているが、今は一人だ。左右にホール状の部屋があり、その中に書架がある。二階もあるのだから規模はかなり大掛かりなものである。ここの図書館には世界中のありとあらゆる書物が集められている、とまことしやかに噂されているほどだ。
アールは辺りをきょろきょろと見まわした後、中央に鎮座している司書のところに向かった。
「あの、ちょっと訊きたいんだけど……」
「ティル・ナ・ノーグ図書館へようこそ! 当館では世界中から集められた稀覯本をはじめ、お年寄りから子どもまで楽しめるように、幅広く取りそろえております」
何かの宣伝かと思わされるような言葉をつらつらと並べたて、笑顔で締めくくる司書。釣られてアールも笑顔になってしまった。そして雪に関する伝説の本が無いかと訊ねてみた。
「雪……ですか?」
「ああ、雪だよ。今街中に降っているの、知ってるよね? それに関して何か伝説みたいなものがないかどうか、調べに来たんだけど」
司書のお姉さんはかけていたメガネをくいっと上げる。
「雪と申すものは私がここへ来た時には降っていませんでしたけど。そもそもこの街に雪など降りませんが? ……まあ、雪の伝説に関する本ならばいくつかありますけどね。皆おとぎ話の類ですよ」
彼女の眼の奥に白けた笑いを見た気がした。
司書に案内されて辿りついた書架の一角に、その本はあった。
絵本や童話の類がずらりと並んだ一角だった。子ども向けのコーナーの様である。
「こちらです」
と、言われて渡されたその本の表紙には、金文字で「雪の精霊」と書かれていた。
「ありがとう。読んでみるよ」
アールは読書スペースの椅子に腰掛けて、本を捲った。




