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第1章「絶望の咆哮」

異世界ダーク系の成り上がり物語です。

スマホで読みやすいよう一文を短くしています。

最後まで読んでもらえると嬉しいです。

俺が最初に覚えているのは、


水の音だ。


川のせせらぎでも、雨でもない。


誰かが、泣いていた。


気づいたとき、俺は畑の真ん中に 倒れていた。


空は見知らぬ青さで、 雲の形さえ違う気がした。


前の世界で生きていた記憶が ぐるぐると渦を巻いて、


やがて遠くなった。


ここは、異世界だ。


そう理解するのに、 三十秒もかからなかった。


俺を拾ったのは、 アーシャという老婆だった。


「鑑定石」に触れた俺を見て、 彼女は一度だけ眉をひそめた。


石は、何も光らなかった。


スキルなし、と。


村の広場で、誰かが笑った声を 今でも覚えている。


この世界では、 スキルのない者は人間ではない。


家畜以下、と言う奴もいた。


空気みたいなもの、 と言う奴もいた。


俺は十歳の子供で、 前世の知識だけを持って、 ここに落ちてきた。


武器も、才能も、何もなく。


それでも、


アーシャは俺を置いてくれた。


理由を聞いたら、 彼女はしわだらけの手で 俺の頭を一度だけ叩いた。


「働けるなら、いてもいい」


それだけだった。


俺はその言葉を、 宝物みたいに胸の底にしまった。


二年間、俺は透明だった。


市場では値切られ、 水汲みを頼めば舌打ちされ、 名前より「無能」と呼ばれることの方が 多かった。


慣れた、というより、


麻痺した。


感覚が鈍くなることで、 人間は生きていけるようになる。


それを、俺はこの世界で学んだ。


だけど、


夜だけは違った。


アーシャが豆のスープを出してくれた。 薄くて、塩が足りなくて、 正直うまくはなかった。


でも、熱かった。


「ちゃんと食え」と言う声も、 熱かった。


それだけで、 俺は翌朝また立ち上がれた。


村には、他にも数人、 俺に普通に接してくれる奴らがいた。


鍛冶屋のガルド爺さん。 声がでかくて、笑いがうるさくて、 俺の細い腕を見るたびに 「もっと食え」と言うくせに 何も食わせてくれない、 矛盾した男だった。


羊飼いのリナ。 十四歳で、俺より背が高くて、 スキルは「速歩」という どうにも地味なものだったが、 彼女だけは俺のことを 「カイ」と呼んだ。


名前で呼ばれるたびに、 少しだけ体が軽くなった。


俺はそれを、 感謝とも愛着とも呼べずにいたが、


今なら分かる。


あれが、生きる理由というやつだった。


十二歳になった朝、 俺は井戸水で顔を洗いながら、


なんとなく思った。


このまま老いても、 悪くないかもしれない、と。


スキルも才能もなくていい。


この匂いのある朝と、 薄いスープと、 名前を呼んでくれる声があれば、


生きていける気がした。


その日の夕方、


空が赤くなった。


日没には、まだ早い時間だった。


最初、俺は夕焼けだと思った。


でも、煙の匂いがした。


次の瞬間、


悲鳴が聞こえた。


走った。


何かを考える前に、足が動いた。


村の入り口に近づくほど、 熱気が肌に刺さってきた。


木の燃える音。


崩れる音。


そして、


聞いたことのない声。


高くて、濁っていて、 笑っているような、 怒っているような。


ゴブリンだと気づいたのは、 それが見えた後だった。


緑色の皮膚。 黄色く濁った目。


子供ほどの背丈なのに、 それが持っている斧は 大人の頭を砕けるほど大きかった。


俺は、物陰に隠れた。


足が動かなかった、 のではなく、


動かすことを 体が拒否した。


それが何なのか、 俺には分からなかった。


恐怖、というには、 感覚が冷たすぎた。


ガルド爺さんを見た。


鍛冶屋の前で、倒れていた。


動いていなかった。


喉が、乾いた。


ひどく乾いて、


声を出そうとしたら、


何も出なかった。


リナを見た。


走っていた。


逃げていた。


必死に、速歩のスキルを使って、


それでも、


追いつかれた。


後ろから来たゴブリンが、 リナの髪を掴んで、


俺は目を瞑れなかった。


アーシャの家が、燃えていた。


炎が窓から吹き出して、 屋根が落ちる音がした。


俺は動けなかった。


正確には、


動いたところで 何もできないと分かっていた。


スキルなし。


武器なし。


十二歳の、ただの子供。


煙が目に入った。


涙が出た。


それは悲しみではなく、 ただの生理反応だった。


少なくとも、 俺はそう思いたかった。


気づいたら、 広場の真ん中に立っていた。


村は、もう終わっていた。


火と、煙と、 動かなくなったものたちだけが残って、


ゴブリンの群れが その中を歩き回っていた。


一匹が、俺を見た。


黄色い目が、 俺の目を捉えた。


そいつは口を歪めた。


笑ったのだ。


無能な子供が一人残っている、 とでも思ったのか。


斧を持ち直す音がした。


俺の中で、


何かが、


ゆっくりと、


反転した。


悲しみでも、恐怖でもない。


もっと暗くて、 もっと静かで、 もっと冷たいもの。


それが、喉の奥から這い上がってきた。


俺はそいつの目を、


真っ直ぐに、


見返した。


そいつが、笑った。


俺を見て笑った。


斧を持ち直す音が、 やけにくっきりと聞こえた。


視界が狭くなった。


恐怖ではない。 もっと別のもの。


怒りとも呼べない、 全部がどうでもよくなるような、 冷たい何か。


目が合っていた。


ゴブリンの黄色い目と、 俺の目が。


その瞬間、右目の奥で 何かが弾けた。


痛みだった。


痛みという言葉が生温すぎるほどの、 熱と圧と、 刃物で抉られるような何かが 眼球の裏側から爆発した。


声も出なかった。


膝が折れて、地面に手をついて、 歯を食いしばって、


それでも目を逸らさなかった。


どれくらいそうしていたか分からない。


やがて痛みが引いた。


代わりに、頭の中に 言葉がひとつ浮かんだ。


身体強化。


それだけだった。


意味も、使い方も、何も分からない。


ただその名前だけが、 霧の中から浮かび上がるように、 くっきりとそこにあった。


ゴブリンを見た。


さっきまで笑っていたのに、 今は怯えたように後ずさりしている。


斧を持つ手が、震えていた。


なぜそいつが怯えているのか、 俺には分からなかった。


立ち上がろうとして、気づいた。


体が、軽かった。


嘘みたいに軽かった。


右目はまだじんじんと痛んでいたのに、 脚に力が入って、 呼吸が楽で、


なんか、おかしかった。


意味が分からなかった。 ただ、動けた。


地面に転がっていた薪を拾った。


ゴブリンが斧を振り上げた瞬間、 俺は踏み込んだ。


振り下ろされる前に懐に入って、 薪でそいつの横腹を殴った。


骨が折れる感触が手の平に伝わってきた。


ゴブリンが転んだ。


俺は止まらなかった。


殴った。また殴った。何度でも殴った。


怒りではないと思う。 悲しみでもない。


ただ、手を止める理由が どこにもなかった。


気づいたら、そいつは動かなくなっていた。


俺の手は赤くなっていた。 息が荒かった。


体は熱いのに、 頭の中だけがしんと冷えていた。


立ち上がって周りを見渡した。


村はまだ燃えていた。 遠くで、ゴブリンの声がした。


まだいる。


俺は薪を握り直した。


瓦礫の陰で声がした。


「た、助けて……」


聞き覚えのある声だった。


テオだった。


同じ村の、十四歳。 スキル「強化腕力」持ちで、 それを笠に着て俺を何度も地面に押しつけた。


無能、と言いながら。 ゴミ、と言いながら。


右足が変な方向に曲がっていた。 顔が青ざめていた。


目が合った瞬間、 プライドと恐怖がぐちゃぐちゃに混ざったような顔をした。


「カイ……頼む、助けてくれ」


声が震えていた。


俺は答えなかった。


こいつに押しつけられた地面の感触を、 俺は覚えている。


草の匂いと土の冷たさと、 頭の上から降ってくる笑い声。


俺はただ見下ろした。


テオが何か言い続けていたが、 声が遠かった。


目が合ったままでいたら、 また右目の奥で何かが動く感覚があった。


さっきより弱い、鈍い痛み。


頭の中に、また言葉が浮かんだ。


投擲。


また、か。


さっきと同じだった。


意味も理由も分からない。 ただ名前だけが、頭の中に落ちてきた。


何かを遠くへ飛ばせる、 そういうものだと なぜか体が知っていた。


テオを見た。


そいつはぐったりとして、 さっきより顔色が悪くなっていた。


まるで急に力が抜けたみたいに。


俺には、何も分からなかった。


なぜ体が軽くなったのかも、 なぜ頭の中に名前が浮かぶのかも、 なぜテオが急に萎れたのかも。


ただ何かが起きている、 それだけは分かった。


俺はその場を離れた。


助けなかった。殺しもしなかった。


ただ置いていった。


それが正しいかどうか、 考える気力がなかった。


残りのゴブリンを探して村の中を歩いた。


投擲、という言葉を頭の中で繰り返しながら、 そこらに落ちていた石を拾った。


遠くにゴブリンの影が見えた。


腕を振った。


石は、信じられない速さで飛んだ。


狙ったわけでもなかったのに、 そいつの頭に当たって、 倒れた。


俺はしばらく、 自分の手を見ていた。


なんで今まで こんなことができなかったんだろう、 とぼんやり思った。


答えは出なかった。


近くに来た奴には 体ごとぶつかるように踏み込んで殴った。


体の使い方が、さっきと違った。


力の入れ方が分かる、というより、 体が勝手にそう動く感じ。


一匹一匹、 感情を使わずに、処理した。


最後の一匹が逃げた。


俺は石を投げた。


背中に当たって、動かなくなった。


静かになった。


燃え続ける音だけが村に残った。


アーシャの家を探した。


屋根が落ちて壁の半分が崩れていたが、 まだ入れた。


見つけた。


見た瞬間に、全部を理解した。


何が行われたか。 何をされたか。


声が出なかった。


喉が、塞がれたみたいだった。


豆のスープの匂いを思い出した。 熱かった。


「ちゃんと食え」という声を思い出した。


膝が折れた。


地面に崩れた。


泣いた。


声を殺して泣いた。


やめようとしても体が言うことを聞かなくて、 息ができなくなっても止まらなかった。


ずっと、 ずっと、泣き続けた。


どれくらいそうしていたか分からない。


気づいたら、涙が出なくなっていた。


枯れたんだと思う。


立ち上がった。


体が重かった。それでも立った。


一人ずつ埋めた。


ガルド爺さん。 リナ。 名前を知らない人たちも。


アーシャは一番最後にした。


スコップは鍛冶屋の裏にあった。


深く掘った。丁寧に掘った。


それしか、俺にはできなかった。


テオはまだ生きていた。


俺が埋め終わる頃には意識が戻っていた。


目が合った。 何か言おうとしていたが、 俺は何も言わなかった。


テオの分も、掘らなかった。


自分で這ってどこかへ行けばいい。 俺には関係ない。


そう思えた。


そう思える自分が少しだけ、怖かった。


村の出口に立った。


背中に廃墟の熱気があった。 前には道があった。


まっすぐどこまでも続く、 舗装もされていない道。


王都に行く、とアーシャが昔言っていた。


この道をずっと行けば着く、と。


俺には何もない。


何が起きたのかも、 正直よく分からない。


体が変わった。 頭の中に知らない言葉が浮かんだ。 右目がまだ、わずかに痛む。


それだけを持って、俺は歩き始めた。


一度も振り返らなかった。


どれくらい歩いたか、分からない。


日が傾いて、 空が茜色になって、 それでも俺は歩き続けた。


足の裏が痛かった。 喉が渇いていた。 腹が鳴った。


それでも止まらなかった。


止まったら、 さっきまでのことを 考えてしまう気がした。


背後から、音がした。


馬の蹄の音と、 車輪が地面を叩く音。


振り返ると、 豪奢な馬車が近づいてきた。


普通の馬車じゃなかった。


木の色が違う。 金具の光り方が違う。


御者台に座っている男の背筋が、 俺が今まで見てきた誰より まっすぐだった。


馬車は俺の横で、止まった。


窓から顔が出た。


若い女だった。 十六、七くらいか。 整った顔に、 値踏みするような目をしていた。


「……村が燃えたの?」


俺の恰好を見て、そう言った。


煤で汚れた服。 血のついた手。 泥だらけの足。


我ながら、ひどい有様だった。


答える前に、 馬車の奥から別の声がした。


「乗せてやりなさい」


低くて、落ち着いた声だった。


女が一瞬だけ眉をひそめたが、 何も言わずに体を引いた。


俺は乗った。


礼を言う言葉が、 出てこなかった。


馬車の中は広かった。


向かいに女が座っていた。


その隣に、老人がいた。


白髪で、背が丸くて、 目だけが妙に若かった。


女の方は俺を見ようとしなかった。


老人は逆に、 最初からずっと俺を見ていた。


品定めではない。 もっと穏やかな、 ただ見ている、という目。


「村が、やられたか」


老人が言った。


俺は頷いた。


「ゴブリンに」


それだけ言ったら、 喉の奥が締まった。


老人は何も聞かなかった。


それが、ありがたかった。


しばらく沈黙が続いた。


馬車が揺れるたびに、 体の疲れが骨に染みた。


座っているだけで、 眠くなりそうだった。


老人が口を開いた。


「鑑定、してやろうか」


俺は顔を上げた。


「スキルと、パラメータが見える。 嫌なら断っていい」


押しつけがましくない言い方だった。


俺は少し考えた。


今の自分に何があるか、 正直まだよく分かっていなかった。


頭の中に浮かんだ二つの名前。 変わった体の感覚。 それだけで、実態が掴めていない。


「お願いします」


俺は言った。


老人が目を細めた。


何かを見るような目をして、 数秒、黙っていた。


「スキルは二つ。 《身体強化》と、《投擲》」


やっぱり、そうだった。


名前は合っていた。


「《投擲》は珍しくない。 だが《身体強化》は、かなり珍しい」


老人がゆっくりと言った。


「基本的に魔物が持つスキルだ。 人間が持っているのは、 ほとんど聞いたことがない」


女がちらりとこちらを見た。


さっきとは少し違う目だった。


「どうやって習得した」


老人が聞いた。


分からない、と俺は答えた。


嘘ではなかった。


本当に、分からなかった。


老人は「そうか」とだけ言って、 それ以上は聞かなかった。


また、ありがたかった。


王都の手前で、馬車が止まった。


老人が「ここで降りなさい」と言った。


声は穏やかだったが、 有無を言わせない響きがあった。


王族の馬車で王都に入るわけにはいかない、 ということだろう。


俺には、それで十分だった。


扉を開けて、外に出た。


老人が窓から顔を出した。


「ギルドで冒険者登録をするといい。 身分証が作れる。 身分証がなければ、王都では生きにくい」


俺は頷いた。


「ありがとうございました」


今度は、声が出た。


老人が小さく笑った。


その顔を見た瞬間、 俺の右目の奥で、 またあの感覚があった。


鈍い、熱。


頭の中に、言葉が落ちてきた。


鑑定。


俺は表情を変えなかった。


変えないように、した。


老人は気づいていないようだった。


馬車が動き出した。


扉が閉まって、 蹄の音が遠ざかって、


俺はしばらくその場に立っていた。


鑑定。


さっき俺を見たとき、 老人が使っていたやつだ。


それが今、俺の頭の中にある。


なぜ。


どうして。


答えは出なかった。


ただ、便利だとは思った。


乾いた思考だったが、 今の俺にはそれが精一杯だった。


王都は、でかかった。


石造りの門。 行き交う人間の数。 どこかで響く鍛冶の音。


村の何倍、いや、 何十倍の規模か。


俺は人の流れに紛れて歩いた。


みすぼらしい恰好のせいか、 いくつか視線が刺さったが、 今更気にする余裕もなかった。


ギルドはすぐに分かった。


大きな建物で、 入り口に剣と盾の紋章があった。


扉を押して中に入ると、 むっとした熱気と、 人の声が押し寄せてきた。


受付に並んで、 順番が来た。


女の受付員が俺を見て、 一瞬だけ目を細めた。


「登録希望?」


「そうです」


いくつか質問に答えた。


名前、年齢、出身。


出身を言ったら、 「ああ」という顔をされた。


村の名前が、もう知れ渡っているのか。 それとも、 俺の恰好で全部察したのか。


どちらでもよかった。


「スキル確認のため、 鑑定石に触れてください」


石を差し出された。


俺は手を置いた。


石が光った。


受付員が画板に何かを書き始めて、 途中で手が止まった。


「……《鑑定》?」


小声だったが、聞こえた。


俺を見る目が変わった。


受付員は俺を上から下まで見た。


煤の染みた服。 血の痕が残る手。 擦り切れた靴。


それからもう一度、 石の光を見た。


何かを考えるような間があった。


俺は何も言わなかった。


やがて受付員は、 何も言わずに画板に書き続けた。


深く追及しなかった理由は、 たぶん俺の恰好だ。


こんな身なりの子供が 《鑑定》を持っているなら、 どこかで誰かにやらされていたのだろう、 そう思ったのかもしれない。


俺はその誤解を、 訂正しなかった。


「登録完了です。 Eランクからのスタートになります」


身分証を渡された。


薄い金属の板に、 俺の名前と、 ERANKの刻印。


カイ。


それだけが、 今の俺にあるものだった。


受付員が付け足した。


「スキルは《身体強化》《投擲》《鑑定》 の三つで登録してあります。 特に《身体強化》は珍しいスキルですので、 依頼によっては優遇されることもあります」


俺は頷いた。


「ありがとうございます」


ギルドを出た。


王都の夕暮れが、空を染めていた。


金属の板を握ったまま、 俺はしばらく立っていた。


今日、村が燃えた。


今日、初めて人以外を殺した。


今日、名前も知らない老人から 何かを奪った。


今日、身分証を手に入れた。


全部が、同じ一日の出来事だった。


腹が鳴った。


俺は身分証を服の中にしまった。


まず飯だ、と思った。


感情より先に、 体が生きようとしていた。


それが正しいことなのか、 おかしいことなのか、


今の俺には、分からなかった。


金がなかった。


当たり前だった。 村から持ち出したものは何もない。 身分証一枚と、 服の汚れだけが今の俺の全財産だった。


ギルドに戻って依頼板を見た。


Eランクで受けられる依頼を探した。


魔物討伐。 × ランク不足。


護衛依頼。 × ランク不足。


荷物運び。 × 既に定員。


残ったのは一枚だけだった。


薬草採取。報酬:銅貨三枚。


俺は黙ってその紙を剥がして、 受付に持っていった。


受付員が「こちらでよろしいですか」と 確認してきた。


よろしいです、と俺は答えた。


感情を込める気力がなかった。


王都の外壁に沿って歩くと、 東側に小さな森があった。


薬草が自生しているらしく、 依頼書に地図が描いてあった。


森に入った。


木漏れ日が地面に落ちていた。 鳥の声がした。 昨日までいた村の森に、 少しだけ似ていた。


俺は考えるのをやめた。


薬草を探しながら歩いた。


緑色の葉、鋸歯状の縁、 茎の根元に白い筋。


依頼書に書いてある特徴と 一枚一枚照らし合わせながら、 丁寧に摘んだ。


無心になれた。


無心になっている間は、 何も思い出さなくて済んだ。


物音がした。


茂みの奥から、 ぐちゅ、という湿った音。


俺は薬草を持ったまま、 そちらを見た。


スライムだった。


半透明の、青みがかった塊。


丸く膨らんで、 ゆっくりと地面を這っていた。


大きさは俺の頭くらい。


魔物図鑑なんて持っていないが、 見ればわかった。


最弱の魔物。 スキルなど持っていない。 子供でも倒せる、と 村の大人が言っていたのを聞いたことがある。


俺は薬草を袋に入れて、 スライムを見た。


どうせなら討伐証明になるものでも、 と思いかけたとき、


スライムの体表が波打った。


その表面に、 俺の顔が映っていた。


反射、だった。


スライムの体は鏡みたいに滑らかで、 俺の顔がそこに浮かんでいた。


俺の目が、 俺を見ていた。


次の瞬間、右目が爆発した。


さっきまでと違った。


ゴブリンのときより、 テオのときより、 老人のときより、


ずっと深くて、 ずっと暗い痛みだった。


脳の芯まで焼かれるような感覚で、 俺は膝をついた。


落ちた薬草が、地面に散らばった。


息ができなかった。


声が出なかった。


草の上に手をついて、 ただ耐えた。


やがて、引いた。


頭の中に、言葉が落ちてきた。


強奪。


俺はしばらく、 その場から動けなかった。


強奪。


今まで浮かんできた言葉とは、 何かが違った。


身体強化、投擲、鑑定。


それらは外から流れ込んでくる感じだった。


でも今度のそれは、


まるで、 ずっとそこにあったのに 見えていなかったものが 急に見えた、


そんな感覚だった。


鑑定を使った。


自分自身に向けた。


スキル欄を確認した。


《身体強化》 《投擲》 《鑑定》 《強奪》


四つ、あった。


そしてその下に、 奇妙な空白があった。


枠だけあって、 中身が何もない欄。


今の《強奪》が入る前は、 そこが空いていたんだと、 俺は直感的に理解した。


最初から、あったんだ。


ただ、空っぽだっただけで。


意味を考えようとして、 やめた。


今は考えられなかった。


ただ、自分の右目に手を当てて、 しばらく目を閉じた。


スライムはどこかへ消えていた。


それから俺は夢中になった。


薬草採取を忘れて、 森の中を駆け回った。


珍しい魔物がいないか探した。


スキルを持っていそうな、 強そうな魔物。


いなかった。


ゴブリンも、オークも、 この森には棲んでいないようだった。


出てくるのはスライムと、 小さなコウモリと、 野ウサギだけだった。


コウモリと目が合った。


右目は何も反応しなかった。


スキルがないということか、 と俺は判断した。


一時間ほど探して、 諦めた。


散らばった薬草を拾い集めて、 袋に詰め直した。


ギルドに戻って薬草を提出した。


「確認します」と言われて、 数分待った。


「問題ありません。 依頼達成です」


銅貨三枚が、カウンターに置かれた。


三枚。


手の平に乗せて見た。


軽かった。


ひどく軽かったが、 今の俺には全財産だった。


飯を食おうと思った。


腹が減っていた。 昨日から何も食べていなかった。


ギルドの一階に食堂があった。


一番安いメニューを頼んだ。


肉の入ったシチューと、 黒パン。


銅貨一枚。


運ばれてきた皿を見て、 俺は少しの間、動けなかった。


肉が、入っていた。


ちゃんとした、肉の塊が。


一口食べた。


うまかった。


当たり前のことなのに、 ひどく驚いた。


考えてみれば、 俺がここ二年間食べてきたものは、 薄い豆のスープと、 固くなったパンと、 たまに出る根菜の煮物だけだった。


無能者の食事は、 それで十分だと思われていた。


家畜以下、と言った奴の声を思い出した。


食事の内容だけ見れば、 あながち間違っていなかったのかもしれない。


腹が立った。


でも、誰に対してかが分からなかった。


俺は黙って、シチューを食い続けた。


隣のテーブルから、声が聞こえた。


男が二人、 顔を寄せて話していた。


声を潜めているつもりらしいが、 食堂の喧騒の中で かえってよく聞こえた。


「いい拾い物をしたよ」


「ほう」


「ゴブリンにやられた村があっただろう。 その近くをうろついていた娘だ。 まだ若い。十二か十三か」


俺の手が止まった。


「傷物じゃないのか」


「そこが運のいいところでね。 ゴブリンには見つかっていなかったらしい。 まだ手もつけていない」


男が低く笑った。


「値がつく」


俺はスプーンを置いた。


ゴブリンにやられた村。


十二か十三の娘。


俺の村は、一つしかない。


生き残りが、いた。


喜びが来る前に、 冷たいものが来た。


奴隷にされている。


男たちの話が続いていた。


「今夜、屋敷に運ぶ。 明日には買い手がつくだろう」


「そいつはいい。 飯でも奢ってやるよ」


俺はゆっくりと立ち上がった。


残ったシチューを、 最後まで食った。


冷めていたが、うまかった。


金を払って、外に出た。


男たちが出てくるまで、 ギルドの壁に背を預けて待った。


男たちは連れ立って歩いた。


俺は距離を保ちながら、後をついた。


王都の裏通り。 石畳が細くなって、 明かりが減って、 人通りが消えた。


途中で護衛らしき男と別れた。


一人になった奴隷商人が、 路地の奥の家に入っていった。


俺はしばらく外で待った。


家の中から、声が聞こえた。


男の声と、女の声。


夫婦か。


「今日はいい拾い物をした」 「まあ、どんな子なの」 「まだ小さいが、顔がいい。 値がつく子だ」


俺は扉に手をかけた。


鍵はかかっていなかった。


中に入った。


土間で振り返った男と、 目が合った。


男の顔が、驚きから恐怖に変わる前に、 俺は動いていた。


《身体強化》を使って踏み込んで、 男の首に手をかけた。


抵抗する間もなかった。


床に崩れた男を見下ろした。


感情はなかった。


ただ、やるべきことをやった、 という感覚だけがあった。


悲鳴が上がった。


奥から女が出てきた。


俺を見た。


倒れた夫を見た。


息を吸い込んで、 もう一度叫ぼうとした。


目が合った。


右目の奥で、何かが動いた。


頭の中に言葉が落ちた。


白魔法。


女の顔から、力が抜けた。


膝が折れた。


倒れる前に、 俺は女の腕を掴んで、 ゆっくりと床に下ろした。


そこから先は、 速くやった。


考えながらやると、 手が止まりそうだった。


家の奥に扉があった。


開けると、小さな部屋があった。


薄暗くて、 藁が敷いてあって、


隅に、丸くなっている人影があった。


「……だれ」


か細い声だった。


俺は部屋に入って、しゃがんだ。


顔が見えた。


見たことがあった。


名前は知らなかった。 村で何度かすれ違った、 それだけの関係だった。


それでも、見たことがある顔だった。


「俺も、あの村にいた」


そう言ったら、 女の子の目が大きくなった。


「……生きてたの」


「生きてた」


「村は」


「もうない」


沈黙があった。


女の子は何かを堪えるような顔をして、 それでも泣かなかった。


強いな、と思った。


「行けるか」


俺は手を差し出した。


女の子はその手を見て、 少し間を置いてから、 掴んだ。


立ち上がった。


足がふらついていたが、 歩けた。


家を出た。


夜風が当たった。


女の子が少しだけ震えた。


「スキル、持ってたの」


歩きながら、女の子が言った。


「なかったんじゃなかった?」


俺は少し考えた。


「逃げるのが先だ」


女の子は何か言いたそうだったが、 黙って頷いた。


賢い子だった。


宿を探した。


裏通りから大通りに戻って、 一番安そうな宿屋の扉を押した。


受付の男が俺たちを見た。


煤と埃と、 ところどころ血のついた服の俺。


薄汚れた、 粗末な服の女の子。


男の顔に、何かが浮かんだ。


同情か、侮蔑か、 その混ざったような何か。


「二人で一部屋、一晩。 銅貨一枚」


余計なことを何も言わなかった。


それだけでよかった。


部屋に入って、扉を閉めた。


簡素な部屋だった。 藁のベッドが二つ。 小さな窓。


それだけだったが、 屋根があって、壁があって、 扉に鍵がかかった。


女の子がベッドに座った。


俺も、向かいのベッドに座った。


しばらく、黙っていた。


「名前、なんていうの」


女の子が先に言った。


「カイ」


「私はセナ」


セナ。


俺が知らなかった名前。


同じ村にいて、 俺が知らなかった顔の一つ。


「家族は」


セナが聞いた。


「いない。もともと一人だった」


「私も、もういない」


また、沈黙があった。


今度は、さっきより 柔らかい沈黙だった。


セナが横になった。


すぐに、寝息が聞こえてきた。


疲れていたんだろう。 当たり前だった。


俺は窓の外を見た。


王都の夜空。


星が出ていた。


今日だけで、 俺の中の何かが 大きく変わった気がした。


スキルが増えた。 人を殺した。 誰かを助けた。


全部が繋がっているような、 全部がバラバラなような。


右目が、かすかに痛んだ。


まだ、分からないことだらけだった。


この力が何なのか。 なぜ目が痛むのか。 俺はこれからどこへ向かうのか。


一つだけ、分かっていることがあった。


弱いままでいたら、 また奪われる。


村みたいに。 アーシャみたいに。


俺は強くなる。


感情じゃない。 誓いでもない。


ただの、事実確認だった。


窓の外で、夜風が鳴った。


第一章、了。

読んでくれてありがとうございます。


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次話もよろしくお願いします。

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