第12話 EXTRA気配察知①
あの夜から、俺の世界は一変した。
目を閉じれば、今でも鮮明に思い出せる。首筋を滑る氷のように冷たい刃の感触。耳元で囁かれた、感情の読めない声。そして、まるで夜の闇そのものに溶けるかのように消えていった、黒猫の仮面の暗殺者。
キャットウォーク。
あの日以来、その名前は呪いのように俺の脳裏にこびりついて離れない。
俺は慢心していた。ユニークスキル【現実逃避】と、それを補助するEXTRAスキルの数々。それらを手に入れたことで、自分は特別な存在になったのだと、知らず知らずのうちに驕り高ぶっていたのだ。その結果が、あの背後を完璧に取られるという無様な醜態だった。もし彼女に少しでも殺意があれば、俺は今頃、あの銀色の草原で冷たい骸と化していただろう。
「……くそっ」
学校の屋上、フェンスに寄りかかりながら、俺は誰に聞かせるともなく悪態をついた。眼下では、生徒たちの楽しそうな声が聞こえる。蓮桜や心桜と過ごす日常は、以前と何も変わらない。だが、俺の内面は、あの夜を境に、静かだが確実に蝕まれていた。
裏ギルド。
表の探索者ギルド、日本迷宮探索者協会(JDS)とは全く異なる、裏の組織。PK――プレイヤーキラーの始末を生業とする、影の集団。キャットウォークのあの常軌を逸した実力は、そうした血生臭い世界で培われたものなのだろう。ダンジョンとは、ただモンスターを狩るだけの場所ではない。時に、人間こそが最も危険なモンスターとなりうる。彼女は、身をもって俺にその事実を教えてくれた。
あの日から、俺のダンジョン探索は様変わりした。
第三階層、永遠の夜に支配された草原に降り立つと、俺はまずその場に深く屈み、神経を極限まで研ぎ澄ませる。風の音、草の揺れる音、遠くで響くモンスターの咆哮。五感の全てを使い、周囲の情報を必死に拾い集めようと試みる。
ゴブリンの群れとの戦闘も、以前のような効率重視の「作業」ではなくなった。常に背後を警戒し、物陰に注意を払い、一瞬たりとも気を抜かない。【現実逃避】を使う際も、それはもはや無敵の切り札ではなく、あくまで戦術の一つとして、最小限の使用に留める。戦闘を終えた後も、すぐには魔石の回収には移らず、周囲に潜む脅威がないかを、執拗なまでに確認するようになった。
だが、それは焼け石に水だった。
どれだけ意識を集中させようと、素人が付け焼き刃で磨いた感覚など、たかが知れている。あのキャットウォークのように、気配そのものを断つスキルを持つ相手には、おそらく何の意味もなさないだろう。俺は、いつまた背後からナイフを突きつけられるかと、常に影に怯えながら探索を続けるしかなかった。
不甲斐なさを噛み締めながら、それでも俺はダンジョンに通い続けた。強くなるため。そして、何よりも、生き残るため。地道なゴブリン駆除を繰り返すうちに、一つの転機が訪れた。
「――次の方、どうぞ」
JDS立川支部の換金カウンター。俺はいつものように【鑑定阻害の狐面】をつけ、ここ数週間で貯めに貯めた魔石と、ドロップしたいくつかのスキルクリスタルを詰めたポーチを差し出した。
「お願いします」
「はい、確認しますね……黒狐さんですね。いつもありがとうございます」
カウンターの職員は手慣れた様子でポーチの中身を鑑定機にかけ、素早く査定額を弾き出していく。「黒狐」という通り名も、どうやら低階層を周回する謎のソロ探索者として、少しずつ認知され始めているらしい。
「お待たせしました。本日の買取金額は合計で42万3000円となります。探索者免許証カードをお願いします」
言われるがままに、学生証と見分けがつかないデザインのカードを渡す。この世界では、探索者がダンジョンで得た収益は、現金ではなく、この個人認証機能付きのカードに電子マネーとしてチャージされるのが一般的だ。安全性と脱税防止を兼ねた、国が定めたシステムらしい。
職員がカードを端末に差し込み、何事か操作する。
「チャージ完了しました。現在の残高は……98万7000円になります」
「……え?」
思わず、素っ頓狂な声が出た。98万7000円。あと少しで、7桁の大台に乗る金額だ。これまでも少しずつ貯まってはいたが、ここ数週間の必死の探索が、一気に残高を押し上げたらしい。
カードを受け取り、俺はロビーのベンチに座り込んで深く考え込んだ。
金は手に入った。だが、肝心の強くなるための具体的な方法が見つからない。キャットウォークに「スキルに頼るな」と暗に言われた手前、新たな攻撃スキルを求めるのは違う気がする。かといって、独学で気配察知の技術を磨くにも限界がある。
(何か、何か手がかりはないものか……)
途方に暮れた俺は、JDS支部のロビーで壁に貼られたフロアガイドをぼんやりと眺めていた。その時、一つの文字が俺の目に飛び込んできた。
『スキルクリスタル専門店』。
そういえば、支部内には探索者がスキルクリスタルを売買できる店があると聞いたことがある。これまで俺のスキルは、すべてダンジョン内で自力で調達してきた。誰かがドロップさせたスキルを金で買うという発想自体が、俺にはなかったのだ。
(行ってみるか……何か、ヒントくらいはあるかもしれない)
藁にもすがる思いで、俺はフロアガイドが示す方角へと足を向けた。
店の重厚な扉を開けた瞬間、俺は思わず息を呑んだ。
そこは、俺が想像していたような無機質な場所ではなかった。薄暗い照明の中、ガラスケースに収められた無数のスキルクリスタルが、それぞれに異なる色の光を放ち、まるで高級な宝石店のような幻想的な雰囲気を醸し出している。空気中には、微かな魔力の匂いが満ちていた。
壁際には、ランクの高い強力なスキルが厳重なケースに収められ、中央のテーブルには、比較的低ランクで入手しやすいスキルが並べられている。客は俺以外に数人。皆、真剣な表情でクリスタルを吟味している。高校生の俺が足を踏み入れるには、少し場違いな、大人の世界だった。
俺は狐面の下で緊張していることを悟られないよう、平静を装って店内を見て回った。
【ファイアーボール】、【ヒール】といった基本的なものから、【剣術】、【盾術】のようなパッシブスキル、【鑑定】や【アイテムボックス】といった探索に便利なスキルまで、その種類は多岐にわたる。値段もピンからキリまでだ。
(聞いたこともないスキルが、こんなに……)
世界は広い。俺がこれまで手に入れてきたスキルなど、この世に存在する無数のスキルの中の、ほんの一握りに過ぎないのだ。
そんな当たり前の事実に、俺は今更ながら気づかされた。
そして、様々なスキルを眺めていた俺の足が、一つのクリスタルの前でぴたりと止まった。
それは、ガラスケースの隅にひっそりと置かれた、淡い灰色の光を放つクリスタルだった。値札には、こう書かれている。
【気配察知】
効果:半径数メートルの気配を何となく察する事ができる。アクティブスキル。
価格:300,000円
これだ、と直感的に思った。
俺に最も欠けているもの。キャットウォークに「素人」と断じられた、絶対的な弱点。それを補えるかもしれないスキル。
だが、同時に俺の心に迷いが生じる。
キャットウォークは言った。『スキルに溺れるな』と。スキルしか使えない俺の戦い方を、彼女は『チグハグ』だと評した。その彼女にダメ出しされたにもかかわらず、また新たなスキルに頼ろうとしている。それは、根本的な解決になっていないのではないか? 自分の感覚を磨く努力を放棄しているだけではないのか?
(……いや、違う)
俺は首を振った。
スキルは、あくまで道具だ。重要なのは、それをどう使うか。今の俺には、敵の接近を事前に知る術がない。その最低限の土台がなければ、感覚を磨くも何もない。まずは、このスキルで弱点を補う。そして、その上で、自分の五感を鍛え、スキルと感覚の両方を使いこなせるようになればいい。スキルに頼るのではなく、スキルを使いこなすのだ。
それに、このスキルは【EXTRA】まで上げれば、化ける可能性がある。
効果範囲が「半径数メートル」で「何となく」という曖昧なものだからこそ、この程度の値段で売られているのだろう。もし【EXTRA】にできれば、その効果は飛躍的に向上するはずだ。
俺は、決意を固めた。
「すみません。これを、四つください」
店員に声をかけると、奥から人の良さそうな中年男性の店主が出てきた。俺の狐面を一瞥したが、特に気にする様子もなく、にこやかに応対してくれる。
「はいよ。【気配察知】を四つだね。毎度あり」
手際よくガラスケースから四つのクリスタルが取り出され、カウンターに置かれる。
「お会計、120万円になります」
「……!」
分かっていたはずの金額を改めて口にされると、さすがに心臓が跳ねた。120万円。俺のカード残高では足りない。
「……すみません、少し足りないです」
「ん? いくら足りないんだい?」
「20万と……少し」
「そうかい。まあ、無理もないか。そうだ、何か売れるスキルクリスタルは持ってないのかい? うちでも買取はやってるぜ」
店主の言葉に、俺はハッとした。そういえば、ゴブリンシャーマンを倒した時にドロップした【ファイアーボール】のクリスタルがポーチに入ったままだった。
「これを……」
「ほう、【ファイアーボール】か。うちの買取だと……25万だな。どうだい?」
「それで、お願いします」
思わぬ収入で、会計は無事に済むことになった。俺は探索者免許証カードを店主に手渡す。店主はカードを決済端末にかざし、手際よく操作を進めた。ピピッ、という電子音と共に、決済が完了する。
「ありがとうございました」
小さな布袋に入れられた四つのスキルクリスタルが手渡された。ずしり、とその重みが、俺の覚悟の重さのように感じられた。
「探索者は、自分への投資を惜しんじゃいけない。その決断は、きっとあんたを助けてくれるさ」
店主の励ますような言葉に、俺は深く頭を下げ、店を後にした。
JDS支部を出て、俺は人目につかない路地裏へと入った。
周囲に人がいないことを確認し、布袋から四つの【気配察知】スキルクリスタルを取り出す。淡い灰色の光が、俺の手のひらの上でぼんやりと揺らめいていた。
(やるか……)
俺は深呼吸を一つすると、意識を集中させる。
「――現実逃避」
俺のスキル合成は、もはやお手の物だ。まず、二つのクリスタルを掌の中でゆっくりと押し合わせる。俺の魔力が触媒となり、二つの存在が溶け合うように融合していく。光が強まり、一つの【HIGH気配察知】が完成した。
同じ作業をもう一度繰り返し、二つ目の【HIGH】ランクのクリスタルを作成する。
そして、最後にもう一度。
二つの【HIGH気配察知】を、両手で包み込むようにして合成する。
掌から溢れんばかりの眩い光が放たれた。それはもはや灰色ではなく、澄み切った白銀の光だった。光が収まった時、そこには掌に収まりきらないほど大きく、内側から確かな力を感じさせる美しいクリスタルが鎮座していた。
【EXTRA気配察知】。
俺は唾を飲み込み、それをすぐに身体に取り込もうとして――寸前で、思いとどまった。
未知のスキルだ。どんな効果があるか、あるいはどんな副作用があるか分からない。まずは、鑑定するのが先決だ。
俺はクリスタルを握りしめたまま、再び【現実逃避】のスキルを発動し、その詳細を鑑定する。
脳内に、文字列が流れ込んできた。
【EXTRA気配察知】
効果:半径数百メートルの気配を確実に察知できる。アクティブスキル。
「……!」
思わず息を呑んだ。
半径、数百メートル。そして、「何となく」という曖昧な言葉は消え、「確実」にという言葉に変わっている。これはもはや、索敵スキルというより、パーソナルレーダーとでも言うべき代物だ。
俺は高鳴る鼓動を抑え、躊躇なくその白銀のクリスタルを口に含み、身体に取り込んだ。
スキルが全身に浸透していく。脳内に、これまで存在しなかった新たな感覚器官が形成されていくような、奇妙な感覚が走る。
そして、次の瞬間。
俺の世界は、再び、完全にその姿を変えた。
「――なんだ、これは……」
スキルを発動させた瞬間、目を閉じているにもかかわらず、周囲の全てが、手に取るように分かった。
路地の入り口を通り過ぎるサラリーマンの革靴の音。屋根の上で丸くなっている野良猫の寝息。頭上の電線を歩く鳩の小さな爪の音。地下の下水道を流れる水の音。風の流れ、空気の揺らぎ。
それら全てが、生命を持つものは青い光点として、無機物は淡い輪郭として、俺の頭の中に三次元のマップのように描き出されていく。
スキルをONにしたまま、俺は大通りに出た。
人々の往来、車の流れ、雑踏の音。それら全てが、情報として俺の脳内に流れ込んでくる。一人一人の位置、動きの方向、その速さまでが、完璧に把握できた。
これなら。この力があれば。
たとえキャットウォークが完璧な気配遮断スキルを使っていたとしても、その存在そのものが俺の「レーダー」から消えることはないはずだ。いや、むしろ、広範囲のマップの中にぽっかりと生まれた「気配のない空白」こそが、彼女の存在を俺に知らせる、何よりの目印となるだろう。
「……ははっ」
狐面の下で、俺は乾いた笑みを漏らした。
失った資産は大きい。だが、この圧倒的な力を手に入れられるなら、安い買い物だった。
俺は踵を返し、再び立川ダンジョンへと向かった。
もう、あの夜のような影に怯える恐怖はない。慢心ではない。確かな手応えと、自分の弱点を克服したという自信が、俺の足を前へと進ませていた。
キャットウォーク。そして、アサシンギルド。
君たちが示した課題への、これが俺の最初の答えだ。
俺はもう、無知で未熟なだけの「黒狐」じゃない。
新たな力を手に入れた俺の、本当の戦いは、ここから始まる。




