第8話 綻びの始まり
パジェロのディーゼルエンジンが吐き出す重い駆動音だけが山道を揺らしていた。時刻は午後七時を回り、山はすっかり濃い夜の帳に包まれていた。暗い車内には、インパネの薄暗い緑色の光だけが二人の顔を静かに照らしていた。
山道が大きく開け、眼下に昌平セクターから隣のセクターへと繋ぐ高規格幹線道路が遥か下方に見下ろせる絶壁へと差し掛かった時、周先輩が不意にパジェロの速度を落とし、停止させた。
周はグローブボックスに手を突っ込むと、ずっしりとした金属製の筒を取り出し、林に手渡した。
「林くん。これでちょっと下を見てごらんなさい。天網の綻びが始まりました」
それは軍用の古い光学式高倍率双眼鏡だった。現行のデジタルズームレンズのように天網のサーバーと同期して位置情報を送信することもない、レンズとプリズムだけで構成された完全なアナログの観察道具。林がそれを目に当て、夜の底に広がる光の網へとレンズの焦点を合わせた瞬間、全身の血が凍りつくのを感じた。
遠くに見えるハイウェイの全体の車の流れは、一見するといつも通りスムーズだった。完全自律駆動のシャトルバスやコンテナトラックは、規則正しい速度で幾何学的な光の列をなして動き続けている。都市全体のインフラは麻痺していない。
だが、双眼鏡のレンズが捉えたその張り巡らされた光の網の一角――ちょうど第七分局の無線セクターが切り替わる境界近くの、ごく限られた数百メートルの区間だけ、不自然な「淀み」が発生していた。
先ほど、中継鉄塔への渡り鳥の衝突事故が起きた、その物理的なスパイク電流の波及。それによって天網の分散OSが引き起こした「処理ループ」のバグは、そのセクターを通過中だった十数台の電気自動車を直撃し、それらを道路端のエリアに完全停車させていた。
山岳道路からレンズ越しに拡大して見るその座礁の光景は、あまりにも冷徹で不気味だった。
電気自動車のヘッドライトや車載ディスプレイは、エラーを知らせることもなく、いつも通りの「正常巡航中」の青白いグラフィックを表示したまま荒野の底を虚しく照らし続けている。しかし、第十四中継鉄塔のショートに伴うルーティングの論理フリーズのせいで、車両の電子ロックがすべて「エラーなきロック状態」で固定され、オーナーの生体認証すら受け付けなくなっているため、中の人間は誰一人として車外へ出られず、ハザードランプすら点滅していない。
双眼鏡の倍率を上げると、閉じ込められた見ず知らずの乗客たちが窓ガラスを叩いて無音の悲鳴を上げている様子がはっきりと見え、また別の車両では、自分が閉じ込められていることすら気づいていないかのように、若い男女がスマートフォンに照らされたまま無表情に指を動かし続けていた。
突如、ハイウェイの頭上を、無数の警備ドローンが蜂の群れのような高周波の金属音を立てて通過していった。ドローンたちの認識アルゴリズムは、車内でパニックを起こして窓を叩く人々を、周囲の平穏な交通の流れを乱す「不審なエラー(ノイズ)」と判定していた。自動化された無人治安維持車両(UGV)が、座礁した車の隙間へと機械的に前進していく。
「警告。住民行動規律違反を検知。即座にその場に伏せ、スマートフォンの信用スコア画面を提示せよ」
スピーカーから合成された女性の穏やかな声が、停車した車に対し呼びかけを行う。それと同時に、車内から脱出しようとフロントガラスを叩き割ろうとした男に向けて、ドローンから容赦なく高圧電流のテーザー銃が放たれた。青白い火花が散り、男が車内で激しく痙攣して動かなくなる。システムはそれを「暴動の未然の鎮圧」として淡々と処理し、第七分局のダッシュボード上には『治安維持:正常』のグリーンランプを灯し続けていた。全体の車の流れは何事もないかのようにその脇を通り過ぎていく。
林の胸の奥底に、元監視員としての経験と倫理観がせめぎ合い、その理不尽さに激しい鼓動とともに気分が悪くなりながら考え込むのであった。




