【完結記念SS】アヤの記録 8――脱出
『西の心臓』のマスターブレーカーが跳ね上がり、世界が完全な暗黒へとランディングした直後、最下層を支配したのは不気味なほどの「無音」だった。
耳の奥を24時間体制で苛んでいた電磁スモッグ(高周波キャリア波)が消失し、人間の脳の認知をハックしていた偽りの緑色の皮膜が完全に剥ぎ取られたのだ。
「林、立って……! ここから出なきゃ」
アヤは林の身体を抱き起こした。
絶対同期の過剰なパルスの嵐を引き受けた林の肉体は、熱を帯びて激しく消耗していた。しかし、彼の白濁していた瞳には、すでに生身の知覚が冷徹に呼び戻されている。
「……ああ、システムは窒息した。だが、物理的な『自動予備電源』が起動するまで、残り時間はそう多くない」
林はアヤの生体クロックのリズムを脳に定着させたまま、メインコンソールの物理キーを引き抜いた。
最下層の重い電磁ロック式隔壁は、論理ロックが死んだことで逆に「自重による完全閉鎖」を起こしつつあった。
「林、アヤ! こっちよ!」
暗闇の向こうから、陸が、手動の物理クランクを回しながら声を張り上げる。その横では、白が現物の火薬式発煙筒に火を灯していた。赤く激しい物理的な炎が、完璧だった管理社会の墓場を不気味に照らし出す。
「周さんは馬主任の端末から物理回線を物理切断して、新体制(長老派閥)の顧次席監理官と合流するために上の階層へ向かったわ。私たちはこのまま高さんのトラックへ走るのよ!」
陸の言葉と同時に、アヤは林の肩を支え、煙と窒素の霧が満ちるサーバーラックの迷宮を駆け抜けた。
地上へと続く非常階段を駆け上がると、そこはまだ豪雨の帳の中だった。
しかし、数日前までの雨とは決定的に違っていた。大気中の水分を媒介にして人間の脳を飼い慣らしていた電磁波の毒はもうない。肌を打つ雨粒は、ただ冷たく、重い、純粋な物理世界の水へと戻っていた。
「乗れ! 急げ!」
カモフラージュ塗装の旧式軍用トラックの運転席から、高が怒号を上げる。
電子制御を一切排除した彼のディーゼルエンジンだけは、天網の論理ロックの影響を1ミリ秒も受けず、暗闇の中で猛獣のようにアイドリングを続けていた。
アヤと林が荷台へ飛び込むと同時に、高はクラッチを繋ぎ、アクセルを踏み込んだ。
「ガガガガガ!」
背後で、『西の心臓』の緊急予備システムが起動する鈍い重低音が響く。論理パニックから辛うじて目覚めた数機の治安維持ドローンが、狂ったようにサーチライトを明滅させながら、最後の檻を構築しようと空へ飛び立つのが見えた。
「林、時計の十時の方向! ドローンのジャイロが180ヘルツで不規則にブレてる!」
アヤが豪雨の風の中に野生の聴覚を研ぎ澄まして叫ぶ。
「アジャスト……!」
林はアヤのリズムをバイパスに据え、手動のジャミングトリガーを引いた。
物理的な火花を散らしながら、追撃のドローンがカルストの濁流の中へと次々と墜落していく。高の超絶的なドライビングテクニックにより、重い車体は天網の自動迎撃網の死角をすり抜け、濁流と泥濘の荒野へと「脱出速度」を上げて突き進んだ。
実名スコアも、IDも、統合ダッシュボードの緑色の嘘もない。
アヤは荷台の隅で、冷え切った林の手を再び強く握りしめた。
完璧な記号の世界は壊れ、目の前にあるのはただ、どこまでも過酷で、だからこそ圧倒的に自由な「オフラインの荒野」だった。二人の手のひらの間には、世界を書き換えた生のパルスだけが、確かに響き続けていた。




